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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

わしも介護をやってみた! (1) プロローグ

 

これは2005年に電子書籍で出版した作品ですが、もう絶版ですので、ここに掲載したいと思います。山田ドラマにもTVドラマにも関係のないお話です。

 

 

 

2004年私は老人介護施設のひとつである、デイサービスに勤め始めました。

介護であるとかボランティアであるとか、今日までそのような世界とはまったく無縁で来た男でしたので、全てのことが初めての体験となりました。

 

急速に、世界に例のないスピードで世界一の高齢社会に突入した日本。

長い時間をかけて高齢社会になった諸外国とは違う様々な問題に直面しています。

介護保険云々にしても、そのサービスの享受のされかた、選定の有り方、保険料のとられ方と、あちこちに軋みが聞こえてきます。

 

本質的に議論すべきことは山ほどありますが、現場は議論する場ではなく「いまある現実」として動いていました。当然でしょう。

その驚きと、戸惑いと、ちょっとした笑いに満ちた半年間の日誌を紹介したいというのがこの書物の目論見です。

でもその前にあるお話をしたいと思います。

 

それはさる女性が老人福祉先進国である北欧の国を見学に行かれた時のことなのですが、その方はある福祉施設に一本の大きな丸太のモニュメントが置いてあるのを目撃します。

なんの変哲もない丸太です。

「何故こんなところに?」と不審に思ったその人は、同行していたその国の福祉担当者に聞いてみました。

すると担当者はこう答えました。

「あの丸太が私たちの福祉の原点なのです」

丸太が原点?

いぶかるその人に担当者はちょっとだけ長めの話しを始めました。

 

 

福祉先進国などと言うと、何か心優しいすてきな国家を想像されるかも知れませんが、実はそうではありません。

この丸太を忘れるなという気持ちで我々は生きているのです。

四季に彩られた日本の冬と違い、こちらの冬は長くつらく厳しく、食べ物もさしてとれません。そのような土地で生きていくのは本当に大変なことです。食べて行くだけでやっとと言う時代が何百年と続きました。

 

昔、お年寄りは家族や村の人々の貧しい暮らしを助けるために崖から飛び降りて死んでいました。それほどに貧しかったということです。

しかし、当然ですが崖に立っても飛び降りられないお年寄りはいました。でも死なないわけにはいきません。

そいう時は後からお年寄りの背中を押す人が必要になりました。家族や村人が崖から突き落とさざるを得ませんでした。生活を守るためです。いた仕方ないことです。

 

でも、これまた当然ですが、その背中を押すことの出来ない家族はいました。人々の暮らしを守るために犠牲になることを覚悟したお年寄りと、死んでもらわねば生きて行けない家族なのに、暖かい血の通ったお年寄りの背中は押せません。

 

そこで丸太が登場します。

 

つまり崖に座ったお年寄りの背中に向けて大きな長い丸太を置くのです。そしてその丸太の片側から家族が押すのです。丸太の長さの分、罪悪感が薄れるなどということはなかったでしょうが、家族は泣く泣く丸太を押し、直接お年寄りを押している訳ではないという精神的ごまかしをする歴史が何百年と続いたのです。そうやって生活を守って来たと言うのです。

 

それが丸太の歴史です。

私たちは、もう二度と丸太を押したくないという気持ちで生きているのです。

たくさんの税金を私たちは払っています。でも、もう二度と丸太を押したくないのです。皆でお金を出し合うことによって丸太を押さなくてすむのなら、そのほうがはるかによいのです。

 

 

その話を聞いた女性は、日本人の福祉に対する捉え方との違いに愕然とし、このような意識を日本の老人福祉が持つのにどれだけの時間がかかるのだろうかと思わざるを得なかったそうです。

 

この女性とは私の先生です。

私は二〇〇四年の一月から「ホームヘルパー二級講座」に通っていました。

その時の講師がこの方でした。

長く在宅介護の現場で働いてきた方で、六十二歳の時にケアマネージャーの試験にチャレンジし、見事に資格を取得したというパワフルさに代表されるように、現場での実際はもちろんのこと、その立ち居振る舞いからも多くのことを私は学びました。

 

「ホームヘルパー二級講座」は現在様々なスクールや介護組織が開設しています。つまりそれほどホームヘルパーは不足しているのですが、現実としてヘルパーの資格をとってもそれを生かしていない方がたくさんいらっしゃいます。

 

それは哀しいことにホームヘルパーが職業として成り立ちにくいからです。薄給の上に雇用状況が不安定なのです。

例えば利用者さん(あ、利用して下さるご老人のことをこう呼びます)が入院したりなさったら、ヘルパーは仕事を失くします。他にも利用者さんはたくさんいらっしゃいますが、もちろんそこには他のヘルパーが行っています、自分があぶれたからと言って急遽割り込むわけにはいかないのです。つまりそういう不安定さが、如何に志があろうとも職業として成り立ちにくくさせているのです。

 

もちろんそれは在宅介護の場合ですが、施設の介護においても、安定性は在宅介護よりはあるものの薄給であることに変わりなく、あくまでもパートタイマー的収入を望む者しか残り難いと言う職場になっています。

 

そのような状況を先生は怒りをこめて語られ、職場の改善は当然ですが、そのようなことに失意することなくがんばっていただきたいと言われました。

特に私のように男性でヘルパーを目指す者はより一層の逆境が待っていると言われ、所帯持ちの給与が得られない中でどう乗り越えるか、大変な課題があると言われました。

もちろん男性ヘルパーの重要性は日々増しているのですが、諸般の事情からなかなか男性ヘルパーは定着しずらいという状態が続いているのです。

 

介護の現場は圧倒的に女性の力によってまかなわれて来た歴史がありました。男性の入る余地がないというか、男性に期待しないという時代が続いて来たと言ったほうがよいのではと私は思います。

そのような背景があったせいでしょう、私はヘルパーの現場実習で特養に行った際、働いている女性から露骨に誹謗されました。

「男はねえ、この職場ではいらないっていつも言ってんだ。ホントにこの仕事やるの?本気?あんたはねえ、朝から見てて感じるのは決定的に利用者さんに対する声かけが足りない。まったくなってない。そんなんでどうすんの?まあ、あんただけじゃないけど、男はさあ、要するに介護のセンスがないんだよ」と。

これは、私が利用者さんに「○○さんこんにちは。いいお天気ですね。今日はご気分如何ですか」などと巧みに話しかけることが出来なかったという事実を批判されているのでした。

その通りです。私はお喋りが苦手でした。頭でそういう台詞を思いつくことは時間があれば出来るのですが、女性のように即座に言葉を出すことが出来ませんでした。

私は眼前に出現した、寝たきり状態のお爺さんだかお婆さんだか性別すら判断出来ない人々の群れに戸惑い、ひたすら言葉を失くしていたのです。

 

でもそれは言い訳です。どのような時でも利用者さんに対して適切な言葉をかけられるようでなくてはなりません。昔から私は女性のお喋りに対する能力を驚嘆して見ていたのですが、この仕事をするからには驚嘆するだけではなく、はっきりと獲得しなくてはならない能力として私の前に立ちはだかってきたのです。

 

介護の現場は圧倒的に女性の得意とする、或いは得意な分野にせざるを得ない社会的圧力を女性に強いてきた能力で成り立っていました。在宅介護は料理や掃除や洗濯などの技術が要求されましたし、特養などでは、食事介助、紙おむつの交換など言ってみれば赤ちゃんを育てて来た体験が素養にあれば活かせるような事柄ばかりで成り立っていました。完全に男は不利でした。

 

私はやれるのだろうか。

かなり不安なものがありました。しかし先生は仰いました「寺尾さんは介護に向いているわ、とっても楽しみ」と。

私のどういう部分を見て先生が仰ったのかは分かりません。でも私は勇気付けられました。もちろん獲得しなくてはならないものは多々あるであろう。でも私は男性だから出来る介護もあるはずだという獏全とした思いもあったのです。

 

こうして私は「ホームヘルパー二級講座」終了後、就職活動に乗り出したのですが、うまく行きませんでした。福祉関係の職場であるだけに、どの面接担当者も優しく丁寧に接していただきましたが、何のキャリアもなく、やっと二級ヘルパーの資格を持っている程度では殆ど門前払いでした。

あるデイケア施設の女性経営者さんは「いまどき二級の資格なんて資格とは言えませんね」と笑っておられました。

そうなのでしょう。ある一定時間の受講をし、ある金額を払い込めば誰しもがとれる資格など資格とはいえないのかも知れません。オマケに私は五十三歳の中年男です。殆どの職場と同じように労働力とは認めていないのかも知れません。

 

そう、そういう自分の立場が私を介護の世界に向かわせているということがありました。

私はバブル崩壊後二回の就職活動を経験していました。その度に男性労働力は三十五歳を上限とし、それ以上はオマケのように求人があるという求人状況に突き当たりました。

一昔前なら「働き盛り」と呼ばれた年齢層は、どんなにキャリアがあり技術があろうと、いえ、そういう人権費をなまじ増やすようなものを持っているからこそ、返って疎まれる傾向が吹き荒れていました。

 

私たちの年代は、容赦のないリストラという試練をくぐり抜けようとしていたのです。

私は「ああ、自分たちは労働市場では『旬』を過ぎた『年寄り』なのだ」と思わざるを得ませんでした。事実私の肉体は老眼などが出てきていましたから尚更その傾向は身に沁みました。まるで丸太の前に座らされた老人のような思いでした。

 

そこで私は思いました。私はこれからどんどん老いて行く。ならば現実に今老いている人たちはどんな状態にあるのだろう。老いるということはどういうことなのだろう。こんなに若さだけに価値を置く時代をお年寄りはどんな気持ちで生きているのだろう。私は自分の未来を覘くような気持ちで「老人介護の世界を見たい」と思ったのです。

 

そして私は何回かの面接を繰り返し、やっとあるケアセンターに非常勤職員として採用されます。もちろん常勤職員としての待遇が望みでしたが、いきなりは無理でした。私は非常勤職員としてとにかくキャリアをつけようと思いました。

 

雇用してくれたのは福祉法人「草のちから」という組織で、老人介護だけではなく身障者の介護など多くの施設を抱えて活動していました。




 

2)初出勤 に続く。

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