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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

再会(2)

 

 

 

 

この感想に対して私は次のような書き込みをします。

 

 

 

 

 

 

 

 

確かにラストは説得力ないんですよね。

 

 

 

それはレストランのシーンがだれてるせいもあるんですけど、あそこが決まってないからラストが生きてこないのだと思います。

 

 

 

 

 

 

こういうことを夢想します。

 

 

 

 

 

あの時、

 

夫の戻ってこないかという申し出に妻はあっさり断るのではなく、

くたびれ果てた男と女としてそのような申し出をする夫の気持ちはいたいほどわかっているわけだから、

それがお互いにどれだけご都合的な選択であるか哀しいほどわかっているわけだから、

 

 

 

でも、

 

 

 

じゃあ新しい男女関係を作り上げられる時間や情熱がお互いにあるかというとそれも望み薄で、

定規で線を引いたように生きられない哀しさを、切なさを描写したシーンなわけだから、

断るのではなくむしろ同調したいという方向の描写だったらどうなのだろうと思います。

 

 

わだかまりも一杯ある。

 

 

 

簡単には許せない。

 

 

 

 

でも、他人ばかりの人間関係だけじゃ淋しい、藁にもすがりたい自分たちがいる。

 

妻もその申し出に混濁した思いの中で頷きたい気持ちがせつないほどにある。

 

 

でもこんな私たちでいいのという思いも強くある。

 

 

 

しかし、でも今手をつなげるのはお互いしかいない。

 

 

 

そのへんを詳しく描写しておいて、でも妻の返事は「考えさせて」というレベルでとどめておきます。

 

ドラマ的には、ああ、よりを戻しちゃうんだろうなと視聴者に思わせることになります。

 

 

 

そして、数ヶ月後二人は結局ひとりであることを選択し、ひとりであることに耐えながら別々に暮らしているというラストなら感銘もまた違ったものになったのではないかと考えたりします。

 

ハッピーエンドを期待した人にはカタルシスないだろうけど。

 

 

 

 

 

 

氏の「また二人になる日」というドラマがあるけど今や「またひとりになる日」というドラマが書かれなきゃならないのではないかと思っていたので、そんな事を夢想したりします。

 

 

 

 

この書き込みに対して、長文の書き込みをした方は再びこう書き込まれます。

 

 

 

 

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あいどんさんの「同調」、そして「考えさせて」という運びはすんなりと届いてきますね。

 

 

 

そうよねえと思いながら、はっと思い出しました。

 

 

 

 

地人会公演の「私の中の見えない炎」。

 

 

 

妻が30年ぶりのかつての恋人との再会で心揺れてしまい、でも最後は夫のもとに戻ります。

このときも私はやはりラストに違和感がありました。無理に急いだようにも思えました。

戻らなくてもいいのにと不満だったことを思い出したのです。

初老の夫婦の話でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえば、と山田氏と小此木啓吾氏との対談集で老年期の夫婦について山田氏が語っておられたことを思い出し、記憶がさらに衰えつつある身を嘆きつつ本を探しました。

 

「老年期こそ夫婦は輝く。願望としては、夫婦でいることの大変さをここまできりぬけてきたのだからその果実を老年期にこそ味わいたいと思います。そうありたいと。」‥‥「そうありたい」のですね。

 

 

 

また、「中年夫婦ともう少し年齢が上の夫婦との違いは、老いと共に相手に厳しくなくなっていくことではないか」といったことも書かれています。‥‥私、厳しいです。まだまだ。許容し合うことが、共に暮らすうえでかなり重要なことだとはうすうす気付きつつはありますが。

 

初老にさしかかってはいますが。

 

 

 

 

 

 

山田氏がラストで再び2人が共に暮らすことを選択されたこと、どうしてもそうしたかったことをついついしつこく考えてしまっています。

 

 

 

 

 

TVではNYの貿易センタービルの炎上の映像がさっきからずっと流れています。現実とは思いたくない映像が。

 

 

 

 

 

 

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この日は911日でした。


ニューヨークテロという「歴史の傷」がテレビ画面に出現しており、驚きと戸惑いの書き込みが続く中、ドラマファンは更にドラマにこだわります。

 

 

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『再会』・・・数年前だったら理解できなかったと思います。裏切った女房を許すなんて!しかし、だんだん年を重ねると、納得がいくようになってしまう自分が情けない。

私もあいどんさんが仰っているように、氏が願いとして書かれているのだと思います。私自身が、陳腐な結末を望んでいたわけで・・・(^_^;)

 

 

 

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これは男性のご意見。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、ある女性は次のような「応援のメッセージ」もこめて書き込まれます。

 

 

 

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このところ山田さんが、中年以降の人生に注視するドラマを(エッセイや講演会でも)多く書かれていて、中でもとりわけ夫婦という切り口で私たちにたくさんのことを考えるきっかけを作って下さっていることは、その年代を生きる人間としてとても幸運なことだと思います。

 

 

 

 

「再会」というドラマ1本で、この掲示板の存在という二重の幸運も手伝って「中年以降の夫婦のカタチ」を模索中の私としてはたくさんの道標、よき示唆となるべき言葉を見つけることができました。

 

管理人さんが、この掲示板開設に当たって「ドラマについて語り尽くす」ことを目指し、「語り尽くした」時には閉じます、とおっしゃってましたけど、こういう語らいの場は限りなく続いて欲しいと願います。

 

ガンバレ~♪

 

 

 

 

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○○さん応援ありがとうございます。

いろんな人の声がこの場に出現することを願っています。

 

 

 

 

 

 

 

ところで、夫婦の良さというのは逆説的なもの言いで申し訳ないのですが「思いっきり憎める」ことではないかと思っています。

 

 

いろんな人間関係が我々のまわりにはありますが、これだけ全身全霊をこめて憎める人間関係というのは、めったにないなあなどと妻に腹をたてながらふと思ったりします。

 

 

 

 

 

私だけかもしれないけど。

 

 

 

 

「日本の面影」の中で「古事記」について語るくだりで、黄泉の国でのイザナギ、イザナミの応酬に対して、津川雅彦がいつの世もこのように夫と女房というのは憎みあうもんじゃがなんて言ったりしていましたが、本当にそう思います(何故か出版された脚本ではその台詞は削除されていますが)

 

 

 

 

 

 

 

でも、私はそういう人間の情動を悪いことばかりではないと思っています。

 

 

 

 

 

人を憎む時の人間のエネルギーって凄いですよね、ある人を大切に想う気持ちのエネルギーと変らないくらい凄いと思います。

 

 

 

 

人は生きていくうえでなんらかの活力を必要としているわけだけど、活力という意味では両者はまったく同じものだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は絶対妻と口きくもんかなんて1日頑張って、翌日になると今度は向うがそういう対応で、うーむ、まだまだやるか、負けるもんかなんて朝日にむかって誓ったりする自分を発見したりすると、充実してるなあなんて思ったりするんですよね。

 

私だけかな、やっぱり、すいません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ、憎むといっても程度問題で、殺すところまで行ったらいけないけど、あるレベルまでは有効なものではないかと思います。

 

例えば母親の愛情が行過ぎると我が子を呑み込んでしまう危険な面があっても、あるレベルまでは愛情が有効なことと同じではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

憎むという活力は人生の一部をささえているのではないでしょうか、「巌窟王」じゃないけど。

 

そして憎んで憎んで憎み続ける自己というものを考察せざるを得ない局面というものも貴重なものではないか、そう思うのです。

一概に不毛な営みと言えない側面を持っていると思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

「愛憎」という言葉がありますが、「愛情」と「憎しみ」というのは表裏一体の関係でパッケージされて分離不可能なものとして必ず人のなかにあるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

だから「再会」のラストが、許しあいなさい、いつまでも憎しみにとらわれるのはおよしなさいというメッセージだとすると、片側だけ捨て去りなさいと言われているような気がしてしまうのです。

 

 

もしそのような状態が人に訪れたとしたら、その時には片側の「愛情」も希薄になっているのではないでしょうか。つまり人間の活力が衰退した状態ではないでしょうか。

 

それは草木のような自然になりなさいと、えらく仏教的なことを言われてるような気がしてとまどってしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

「再会」についてはまだまだ考えてしまっています。

 

 

 

 

 

 

 

「再会」(3)に続く。
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