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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

再会(3)

 

 

 

 

 

 

 

ある方がこのような長文を書き込まれます。

 

 

 

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以前に○○○さんが夫婦としての年月の積み重ねを果実に譬えた山田さんの言葉を引用されたことがありました。

 

 

 

 

私はずっとあの言葉を反芻しています。

 

 

 

 

 

 

たとえば、友人で結婚生活を解消した人が何人かいますが、彼女たちはこの言葉をどんな風に聞くだろうか、と考えます。

 

結婚生活に終止符をうつのはそれぞれの事情があることでいい、悪いのレベルで話すことではないのでしょうが、私などはそれこそ身にそぐわないと感じれば離婚なんてどんどんすればいいのよ、といい散らかすタイプです。

 

でした。

 

 

 

 

 

 

でも、果実という言葉をひとつ提示されただけで、そんな威勢は途端にグニャリと萎えてしまいます。(単に果物好きっていうだけじゃないですよ)だって、その果実は何十年という夫婦のとしての時間が成らせるものだとしたら、一生にたった1個のその果実を味わうためには、今日の憎しみ、明日の腹立ちをひとつひとつ納めて暮らしていかなくちゃならないわけなんですよね。

 

違うか。

 

 

 

 

ただ納めてるだけではその実はおいしく熟さないわけで、しかも管理人さんの示唆に因れば寛大に許すだけでもだめらしくて、愛憎(あるレベルの濃さを保ったままで)という養分を与え続けなくてはならないらしい。

 

 

山田さんの理想としての老年期の夫婦像はかなりハードルが高い!案外離婚した友人たちは早々にその果実をあきらめたことでせいせいしているってことかもしれないな。

 

 

 

 

 

 

 

ずーと先にぶら下げられた輝かしい果実の幻を見せられてしまった私は「困ったな」と思います。

 

その果実味わってみたいですもんね。でも、できるかなあ、自信ないなあ。困ったなあ……。

 

 

 

 

「再会」の夫婦にこの果実の譬えを当てると、今さら新しい実を育てるだけの時間も気力もない元夫婦が、落果してしまった実でも、多分おいしくないことを十分承知の上で、それでも痩せて小さい実ながら味わってみようとしたってことなんでしょうか。

 

 

 

 

山田さんのいくつかの夫婦を描いた作品(夕陽をあびて、結婚まで、チロルの挽歌、・・…)を思い出してみますと、たとえどんな実をつけるか分からなくても味わいなさい、とおっしゃってるように思います。

 

 

 

 

 

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再び○○○さんの書き込み。

 

 

 

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あいどんさんの愛憎についての御考察、○○さんの果実論に、しみじみとした想いにとらわれています。秋の気配を感じながら。

 

 

 

 

 

 

そう言えばよく人生を春夏秋冬に喩えますが、夫婦関係もなぞられるかも知れません。

 

 

 

秋。

 

アツサをどこかで懐かしみつつ来たるべき冬に備えるのはかなりの覚悟も必要。

中途半端で迷いも生じちゃったりして。40、50代でしょうか。

 

二人で育てた果実がどんな果実になるかは育て方次第。そして冬になってようやく味わえるのだけれど、炬燵に入ってゆっくり味わえればまだしも。

吹きっさらしの中で凍えながらなんていうこともあったり。

吹雪もありますから。

いずれにしてもどういう果実になるかはどちらか一方のせいではなく、あくまで二人の責任なのかも知れません。

たとえぐちゃぐちゃになっていても、また、一見したところは見事でも、中味がスカスカになっていたり。

でも間違いなく二人で育てた、似たものはあっても世界にたった一つしかないものでしょう。

 

 

 

 

 

 

だからそこに大きな価値があるのかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

「再会」のラスト、許し合えたのかどうか、分かりません。

 

 

 

 

 

 

許すなんて言葉で言ってもその実は凄い憎しみを抱えたままだったりすることもありますし、憎しみを捨て去ることもそう簡単にはできません。

或る年齢になればできるということでもないでしょう。多分。

 

でも、許そうかと思える年齢というのはあるのかも。

おそらくは深い諦めと共に。

それがあいどんさんの言われる愛情の薄まりかも知れないですが。

愛情が変質したことを共に引き受ける覚悟をそれぞれが背負うわけですから、そこには結構エネルギーが要るかも知れません。

二人が実らせた果実を味わうにも、とても炬燵に入ってゆっくりとというわけにはいかないでしょう。

でも、しつこいようですが、それでも世界に一つしかない貴重な果実‥‥なのかも。

 

 

 

 

 

「再会」の二人が共に暮らすことを選択させた山田氏の思いは、と、もしかしたらピントはずれかも知れないと思いつつもついついとめどなく考えてしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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当然ですが山田氏が果実といっておられるのはあくまでも比喩としてなのだと思います。

 

老齢になるまで過ごしてきた二人にしか分らない「味わい」とでも言うべき境地なのではないかと思います。

 

 

 

 

 

それとて、結婚50年目の何月何日から味わえますといったものでもないでしょうし、そういう意味では20年過ごした夫婦には20年の、30年過ごした夫婦には30年の味わいがあるのでしょう。つまりそのおりおりに味わう境地がない限り味わえないものなのでしょうね。歳月を重ねれば良いというものでもないと思います。境地に達するか否か、そこが問題だと思います。

 

 

 

 

 

でも、そのおりおりに私たちは不可避的にある近親憎悪と格闘していて、味わう境地に到達しない。

 

昨日の口惜しさのとりこになって生きている。

 

 

 

 

 

 

 

 

結局人の絆とは何かといった問題なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

よく愛がなくなったから云々という話を聞くたびに違うよなあと思ってしまいます。

 

 

 

恋愛の興奮覚めやらぬときの心持を基準に、現在の自分達を裁きつづけるのは酷というものだし、そのようなつながりのみをスタンダードとして信奉するのはどこか人間というものを勘違いしているのではないかと思う時があります。

 

 

 

 

 

 

 

人間ってそれだけですか?と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ずるさも、嘘も、誠実も、自己犠牲も、なにもかも混在した恐るべき絆が「ジャックと豆の木」の蔦のように天に向かって成長して行っているのに、自分たちは蔦の螺旋のなかで目を回しているだけなのではないか、そんなことを思ったりします。

 

 

 

 

 

絆とは何か。

 

 

 

 

もう一度考えなおす必要があると日々感じています。

 

 

 

 「再会」(4)に続く。

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