山田ファンの始まり(22)70年代学園紛争
「山田ファンの始まり(22)70年代学園紛争」
70年代の学園紛争は、全ての体制に異議申し立てをしていました。大学の解体を叫び、大学教授などは「自己批判しろ!」と衆目を集める場に引きずり出され吊し上げられました。
「自己批判」という言葉はほとんど流行語のようになっており、学生運動に走った我が子と親の対決という局面はあちこちの家庭にありました。
ご存知のように学生運動はやがて鎮圧され敗れ去ります。
一部の人々は過激派となり潜伏しますが、警察に追い詰められ「浅間山荘事件」へと流れます。逮捕された過激派の自供から「連合赤軍リンチ殺人事件」という痛ましい事件が明るみに出ます。
革命のためのエネルギーは、ヒステリックな内部統制に向かい、同志を「自己批判」の名のもとに殺して行ったのです。
政治の季節だったので、一般社会でも理論闘争もどきの討論は頻繁に行われており、殺しはしないけど、こういうリンチまがい対決は結構ありました。こんな言い方はひどいと思われるかも知れませんが「流行り」だったんですね。
「パンとあこがれ」の台詞をもう一度書きます。
「お父さんはな、どんな思想でも、人を死に追いやってまで実現する値打ちはないと思うんだ、人間にとって大切なのは、人間であって思想ではない」
「・・母さんはね、一度でいいから、お前が自分の考えを間違ってるんじゃないかって立ち止まってくれたらいいと思う。そうでないとお前が段々に残酷な人間になっていくような気がするの。それがお母さんには怖いの」
「相手が人間らしくないから自分も人間らしくなくなるというなら、ただ犠牲が増えていくだけです。何が人間らしいのか、どうすることが人にとっても自分にとっても一番人間らしいことなのか、いつもその反省をすることが大切だと思うんだけど」
戦時中の話として書かれた台詞ですが、70年代に対しても書かれたものだと私は感じます。連合赤軍の行き詰まりを予見したかのような台詞です。
「左がかった」人々には反動と思われたでしょうが、これが当時の山田さんのスタンスでした。
いえ、そう言ってはいけないのかも知れません。
登場人物が言っているだけで、山田さんのスタンスは別だったのかも知れません。
国家に異を唱え、インドの革命家を匿い、関東大震災で朝鮮人虐殺に敢然と抵抗した綾と竜蔵だからこそ言える台詞として作られたのでしょう。
しかし、大学教授を引っ張り出して「自己批判しろ!」なんて言っている70年代学生に、とても違和感を感じたと山田さんは後年述懐しておられます。
いつの時代も、自分が正しいものを発見したと思いこんでいる人々というのは怖いものだと思います。
もともと政治的開放が人間の全的開放か?という問題はあったわけです。人間の中で政治的側面と言うのは重要だけど一部に過ぎないという考えはあったわけです。
なのに政治の時代では、政治的開放が全てだというニュアンスが濃厚に支配していました。
さて、私にとって大衆の代表は父と母でした。
70年安保に対しても特別主張せず、黙々と生きている父と母でした。
山田ドラマでは、庶民の暮らしを描くとき、必ずと言っていいほど戦争体験が出て来ましたが、私の父や母は戦争に対しても特別主張はしませんでした。
かろうじて米TV番組「コンバット」などを私たち子どもが見ようとすると「戦争じゃなかね!」と母は眉をひそめるなんてことがあるくらいでした。
世の中に向かって主張する、声をあげるという方法を持っていなかった。山田さんの小説「見えない暗闇」(1995年)で、ただ事象を見詰めているだけの無言の民が大量に出て来ますが、そんな感じでした。
山田さんは、私の父や母をも視野に入れた庶民のドラマを描き続けます。政治の時代でも流されることなく書き続けます。テレビ界はこの人が単なる人情話を書いている作家ではないと気づきます。
家族崩壊を描いた作家山田太一は次のステージ、更に次のステージと家族問題をグレードアップして行きます。
前述したエッセイ「私にとってのテレビドラマ」で、ライターの心構えとして「あまりに鋭すぎる作家の眼が見た極北のなんとかとか」なんて言われるようになったらテレビライターはおしまいだと言っていたのに、自ずとそういう世界に足を踏み入れざるを得なくなります。
「沿線地図」(1979年TBS)などの頃は家族を描く極北の作家という存在になっていたと思います。
私の父や母の入っていける庶民的世界ではもうありませんでした。もちろん面白い話でしたが、観念の針金細工のような世界だった。これはいた仕方ないことです。いつまでも無垢な大衆の相手ばかりしていられない。
山田ファンの始まり(23)「ドラマを書く楽しさ」に続く。
2021.8.21