山田ファンの始まり(9)軽蔑もいっぱい
「山田ファンの始まり(9)軽蔑もいっぱい」
漫画界は児童漫画だけではなく、より上の年代をターゲットにした青年劇画誌が創刊され始めていました。私はそういう劇画誌に、ペーソスを主体とした漫画を書き始めました。連載も持って、コンスタンスに発表していきました。
山田さんもまめに見てくれていて、「あれ読んだよー」と連絡をくれました。忙しいのに本屋をめぐって探すとのことでした。ありがとうございますと感謝しました。
漫画の月刊評論に取り上げられて「反社会的な毒をぶちまけたような世界」なんて評されて「え?ペーソスのつもりだったのに、オレそんなもの描いてるのか?」とびっくりするようなこともありました。
原稿を頼みに来た編集者が、私の描いた漫画を全部スクラップしていて「これは可哀想な話でしたねえ」なんて思い入れを語ってくれた時は、こんな人がいるんだと驚きました。山田さんが、そういうことあると嬉しいよねえと、自分のことのように喜んでくれました。
その頃山田さんは「高原へいらっしゃい」(1976年TBS)「男たちの旅路」(1976~77年NHK)「岸辺のアルバム」(1977年TBS)と話題作を書き進めていました。「男たちの旅路」は「山田太一シリーズ」という脚本家名を冠にしたシリーズで、脚本家の地位向上に一役買いました。
しかし、それでもテレビドラマは舐められていました。
ネット上には映画関係者のものと思われるHPがあり、映画は監督のものなのに、テレビは脚本家がクローズアップされる。それはひとえにテレビドラマの後進性のなせる業だなどと言っていました。
「月刊シナリオ」という老舗の映画雑誌があります。
1973年には山田さんのテレビドラマ「同棲時代」のシナリオが掲載されていますが、映画関係者から「テレビのシナリオは載せるな」と抗議があったそうです。
何故かそんな頃に「月刊シナリオ」からエッセイの依頼があり、山田さんは「私にとってのテレビドラマ」(「昼下がりの悪魔」所収)というエッセイを書きました。
もし皆さんがエッセイ集をお持ちでしたら、そういう背景を想像して読み返してください。山田さんの怒りの声が聞こえるでしょう。こんな映画オンリーでテレビドラマを蔑視した雑誌が、おれにエッセイを頼むんじゃねえ!という叫びが聞こえてくるはずです。もちろん編集部内にも温度差があり、テレビドラマ派の編集者からの依頼だったはずですが、それでもそういう風に書かざるを得なかったのでしょう。
では、なぜ監督ではなく、テレビ界では脚本家がクローズアップされるようになったのか?
むかし山田さんはこう言っていました。まだラテ欄に脚本家名なんてろくに書かれなかった頃ですが、それでも脚本家の存在を山田さんはこう言っていました。
結局、テレビ局のディレクターはサラリーマンだということ。局の人事異動で、「今回演出やります○○です」なんて言ってやってくる。そしてある時人事異動でどっかに行っちゃう。社内事情でそうなってしまう。そうなると、ドラマの個性を決めるのはずっと継続して書いている脚本家になってしまう。
人事異動だから演出に適正がない人が来ることも当然ある。
かつて連続ドラマで3人のディレクターが来て、そのうちの1人がとにかくセンスがないということがあって、その人の回だけとても苦労をした。どんなに失敗しても最低限ここまでは伝わるというホンを書いた。でもその人は失敗した。そんな構造の中にあるから脚本家の力がより試されることになる。
テレビドラマの後進性なんて言われながらも、山田さんは「ふぞろいの林檎たち」「岸辺のアルバム」などを書き、社会現象まで巻き起こします。
「山田太一ファンです」と発言する人が増えてきます。
しかし「へ~~山田太一ファンなんだあ、ふぞろいが好きなんだあ、真面目なんだあ」なんて揶揄気味に言われました。
「噂の真相」(1979年-2004年)という雑誌で、週刊誌記者の匿名鼎談が毎月行われていたのですが、その中で山田太一のことを好意的に取り上げた記者がいました。すると他の記者から「お前は山田太一に甘いんだよ」なんて揶揄されていました。
何故揶揄されたのか。
山田太一という名前は世間に浸透してきたけど、品行方正でNHKみたいな、クソ真面目なイメージがあったのだと思います。「若い根っこの会」(完全な死語)みたいなものを感じていたのだと思います。
かつて山田太一を馬鹿にしていた漫画仲間も同じスタンスでした。
世の中は権謀術数で動いており、どれくらい政治的であるかということが問われている。人間の本質は哀しいかなエゴイズムだ。
山田ドラマは誠実さだとか、小さな思いやりとかを取り上げていて甘っちょろい。権力に利用されるだけだ。
しかし、そうだろうか? と私は思っていました。
山田さんは、エッセイ「軽蔑もいっぱい」(「街への挨拶」所収)でこう言っています。
「われわれの多くの感受性は、他人への敬意からは偽善を、友情からはホモを、親愛からは利害を連想するというようなぐあいに、すれっからしている」
「すれっからしている」という砕けた表現で山田さんは言っていますが、これは重要な言葉です。すれっからしになって大事なことを見逃していないかと言っているのです。
山田ファンの始まり(10)「一皮の厚み」に続く。
2021.5.31