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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

山田ファンの始まり(10)一皮の厚み

 

 

「山田ファンの始まり(10一皮の厚み

 

 

 

「どん底じゃないのに、どん底の用心で生きちゃいけないよね」という台詞があります。

山田さんの最後の連続ドラマ「ありふれた奇跡」(2009年フジテレビ)の台詞です。

「人間ってものが嘘つきで、冷たくて、インチキで、ケチで、裏切りで、自分が大事で、気を許せない」といつも言っている翔太爺ちゃんが言う台詞です。

 

 

「人間、一皮むけば色と欲」

「一皮むけば金の亡者だ」

などと言う言葉が昔からあります。

 

辞書に「一皮とは、本質・素質を覆い包むもの。物事のうわべの姿など」とあります。

しかし、一皮の下に本質があるという考えはどれほど有効なのでしょうか?

 

山田ドラマは、昔から終始一貫この「一皮の下の本質」という考えに異議を唱えてきたと私は思っています。

 

 

例えば戦争ということがあり、戦場に行った人々も、銃後の人々も、辛酸を舐め尽くし、人間のおぞましい部分をたくさん体験した時代がありました。

「カルネアデスの船板」ではありませんが、人間が生存しようとするぎりぎりの局面で、やりきれない、悲しいことがあるのは事実です。衣食足りて礼節を知るというけど、人間としてのモラルや思いやりを期待できるのは、ある程度の恵まれた環境があってのことで、そんな環境が壊れた極限状況では一皮の下の人間が噴出するというのは本当のことでしょう。

 

 

綺麗ごとを言っても最後はわが身が可愛い、身内が大事、人はエゴイスティックなものだという人間の部分。結局人間に愛なんてないんだという部分。

 

 

それらのことは本質といえば本質だと思います。

私は戦時下のような極限体験はないけど、わが身のエゴイスティックな部分をちょっと想起するだけで、きっとそうだろうなと思えるところがあり、痛い気持ちです。

今の恵まれた環境が私を多少とも人間らしいモラリストにしているかもしれないけど、自分か他者かどちらかしか生存し得ないという二者択一状況が出現したら、とても自信がない。自分は脆弱に、自己の生存に悲鳴をあげてしがみつくだろうなと、苦く思って生きています。

 

 

しかし、それでは、その人間の本質を覆っている一枚の皮、ひとかわは虚偽なのでしょうか。

本質を覆い隠している一皮は、極限状況が襲えば簡単に砕け散るものかも知れませんが、でもそれは虚偽なのでしょうか。権謀術数主義の前では単なる甘っちょろい感傷なのでしょうか。

そこが問題だと私は思っています。

 

 

60年代後半から70年代にかけて、いろんな芸術が人間の本質、本音を描こうとしていました。人間のエゴイズム。政治の権謀術数。世界のパワーバランス。性と政治。様々な媒体が人間の本質をあばこうとしていました。

そんな時代にスタートした、山田ドラマは、本質はそうかも知れないがという、留保をつけた世界を描き続けました。

 

例えば「岸辺のアルバム」で、最後に家族がひとときのことかも知れないけど、肩寄せ合って歩いて行くラストシーンがありました。

それはこう批判されました。

追求が甘い、崩壊させるならもっと徹底的にやるのが本質的だと。

 

 

もう一度書きます。

 

「人間、一皮むけば色と欲」

という言葉があります。

 

一皮むけば本質があるかも知れない。

でも本質がむき出しにされるまでは「一皮の厚み」がある。人間は結局エゴイスティックなものかも知れない、愛のない悲しい生き物かも知れない。でも「一皮の厚み」がある。

 

山田ドラマはその「一皮の厚み」を描いてきたと思います。

一見、商業主義的人気取りの如き大団円や、ハッピーエンドは、決してそういうことではなく「一皮の厚み」が人間にはあるという主張なのだと私は理解しています。

人間には「一皮の厚み」があるじゃないか、そのことに自信を持たなくてどうすると山田ドラマは言っているのだと思っています。

 

 

 

 

 

山田ファンの始まり(11)連続ドラマは書かない」に続く。

 

 2021.6.1

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