山田ファンの始まり(18)大衆に向かってドラマを書く
「山田ファンの始まり(18)大衆に向かってドラマを書く」
「山田ファンの始まり(6)」に「カリメロ」のことを書いていますが、そこにこういうエピソードがあります。
カリメロが秘密を作ろうと必死になっている時、母親が部屋に入ってこようとします。
カリメロは「ここは秘密の部屋だ!入っちゃダメ!」と母親を押し出し、バタンとドアを閉めます。
唖然とした母は「カリメロ!」と叱ります。
カリメロは「まだいるの!行ってよ!」と叫びます。
このシーンの台詞は、最初違うものでした。
カリメロは「まだいるの!出てけ!」と叫ぶのです。
それを読んで山田さんは言葉が強すぎると言いました。
「行ってよ!」と「出てけ!」どこが違うんだ?と思われるかも知れませんが、山田さんは母への台詞にしては「出てけ!」は強いと言われるのです。
私はそうかなあと思いました。
九州の私の家では日常茶飯事の台詞でした。
ホームドラマを書く時にはどうしても自分の家庭がベースになりがちです。この時私は自分の家庭がかなり下品な家庭なのかなと思いました。
山田さんもホームドラマを書いていて、こんな台詞はあり得ないと批判されたことがあるとエッセイで書かれています。
家庭に関しては視聴者それぞれの実感があり、誰もが批判できる根拠を持っています。
でもそれを100%活かしていては十人十色の迷宮に入ってしまいます。
この場合も、山田さんはこんな家庭はないと言っているわけではなく、どこかで基準点を定めていて、その観点から批判しているわけです。確かにカリメロは愛らしいキャラクターですからやっぱり「出てけ!」はないでしょう。
台詞というのは視聴者(大衆)に向けて書かれています。
違和感なく台詞が受け取られなければならない。意図的に違和感を演出する気持ちがない限り、不自然と思われることだけは避けなければならない。
基準点というのは殆ど不文律で、個々の作家が独自に築いているものです。
山田さんの不文律は他にもあり、子どもの台詞なのにそうじゃない台詞を選んじゃいけないというものもありました。
私は、例えば「ボクはそんなことは許さない」などと幼い子どもが言うには硬い台詞を書いたりしました。山田さんに指摘されるとすぐ分かるのだけど、ついついストーリーの中心ばかりに目が行っていると、使ってしまうゆとりのなさ。つまり作者の言葉になってしまう。それを言われました。
あと、これはカリメロではありませんが、他の人の作品を見ながら、山田さんは「台詞がナマだよね」という批判をされました。
例えば「幸福」なんて台詞があって、それがナマだということでした。あと「人生」「愛」という言葉も、ちょっとという感じで眉をひそめられました。
私はこう思いました。
大衆に向けて書かれた台詞に、「愛」とか「幸福」という言葉は似合わないということがあると思いました。
あくまでも当時の大衆ということで、いまはかなりの人がエセインテリになっていますからそういう台詞も可能になってきましたが、当時としては、そんな抽象的な言葉で思考していないというか、「愛」なんて概念で総括していないということがあったと思います。言葉として出て来るとすれば「寂しい」とか「つまらない」とか「ひどい」とか、そういう言葉になっていたと思います。
例えば私の母。
私たち子供に向かって「愛してる」なんて言ったことはありませんし、「愛してくれ」とも言ったことはありません。しかしもちろん愛情はありました。
つまり言外に気持ちはあったわけです。
母の愛はご飯を作ることだったと思います。あくまでも単純化すればということですが、ひもじくないように(お腹がすかないように)ご飯を作り続けることだったと思います。毎日毎日家族にご飯を作ることだったと思います。
特にお正月はそうでした。
何日も前から下ごしらえをし、たくさんの御馳走を並べるのが母の愛情だったと思います。もう食べきれないという分量を作っていました。いくら三ヶ日食べると言っても、限度がありました。それでも母はひもじいといけないからと、宴会の終わりころにはご飯を炊いていました。みんなは「もう無理」と音をあげました。それが母の愛情でした。「愛してる」とも「愛して欲しい」とも言わないけどそれが母の愛情でした。エセインテリ化する前の大衆の一タイプではなかったかと思います。
ドラマのことを考える時、若かった私は母に腹を立てていました。
「東芝日曜劇場」の「女と味噌汁」などを見て「いい着物来てるねえ」とか「床の間の生け花がいい」とか言って感心しているのです。
なんということだ、見るべきところはドラマの内容じゃないか、着物とか生け花とか枝葉末節じゃないかと怒りました。
「要するに母は意識が低いんだ!」と思っていました。
そんなことを言う私に、山田さんは「君がそんなこと言えるほど意識が高いとは思わないよ」と反論します。
だって枝葉末節じゃないかと思いましたが、山田さんは違っていました。
山田さんの見据えている世界は広大でした。私も広く見ているつもりでしたが、まるでレベルが違いました。これが本質だと思うことも単に一部に過ぎないのでした。
ある夫婦のすれ違いのドラマを書いたとき「二人の素顔」とタイトルをつけたら、山田さんに「ナマだ」と言われて却下されたこともあります。夫婦の本質だなんて意気込んでいたら「ナマだ」と言われる程度のものでしかなかったのです。
山田さんは「二人で歩いて」というタイトルをつけてくれました。その柔軟さに驚きました。
山田さんはタイトルをつける時に七転八倒すると言っています。「油っ気」が抜けたタイトルに到達するまでが大変だと言っています。
ナマな表現。これを警戒する。
作者はどうしても総括した思考で組み立てているので、そこで辛抱が足りないとナマな言葉を使ってしまう。
大衆に向かってドラマを書く。私は山田さんがどんなアンテナをはっているかということを知ることとなりました。