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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

山田ファンの始まり(20)大衆をどうとらえるか

「山田ファンの始まり(20)大衆をどうとらえるか

 

 

当時「左がかった」勢力は、庶民、労働者、夜学生など、報われぬ人々を描こうとしていました。それは山田さんが拾い上げる人々と重なっているところがありました。でも啓蒙目的とチャイエフスキー的野心では似ていて非なりでした。

しかしそのことをどれくらいの人が分かっていたことでしょう。

 


ここからはビックリするほど独断と偏見を書きますが、名前が似ているということで、今でも間違われる山田洋次監督。この人の描く世界も、とても山田ドラマと似ています。

 

でも私は、この人の入口は、山田太一とは違うと思っていました。「左がかった」勢力だと思っていました。入党していたとか、そんなことは知りませんが、とてもシンパシーを持っているらしく、共産党が呼びかける署名運動などに連座していることがよくありました。

 

 

「男はつらいよ」で寅さんがタコ社長の工場に入ってきて「労働者諸君!元気でやってるか?」と声をかけるシーンがよくあります。

「労働者諸君!」という呼びかけは、初期の山田洋次にとって真面目な呼びかけであり、創作の原動力だったと思います。その名残りがあの台詞であって、揶揄気味に言えるほど成熟したのが「男はつらいよ」ではなかったかと思っています。

 

山田洋次は才能があるから、「左がかった」動機から入っても、やはりちゃんと人間ドラマになってしまう。教条的にならない。そこが凄いところです。登山口は違っても登ってみれば山の頂上に着くのと一緒で、人間ドラマのてっぺんにいる。

同じく山田太一も登山口は違っても人間ドラマのてっぺんに到達する。

 

でも、山田洋次は自分で監督している映画は高みに達するけど、山田洋次が演出していない、脚本だけのテレビドラマなんかはひどいものです。

古くて教条的だしセンスがない。特に「東芝日曜劇場」の一連作(「乙姫先生」など)。「左がかった」勢力の観念だなあとしみじみ思ってしまう。そこが山田太一と全然違うところです。

 

と、山田洋次ファンの方がお怒りなることを書いていますが、こんな、山田洋次をくさして何が言いたいかというと、大衆と言った時に階級構造としての側面ばかり見ると言うのは考えものだということです。

 

当時吉本隆明はこう言っていました。資本家と労働者なんて分け方したって現実は複雑化してきている、とらえきれなくなっている。例えばサラリーマンが働きながらアパート経営をしているなんてことがあるわけで、搾取される労働者でありながら資本家でもあるということが起きている。図式が通じなくなってきていると指摘していたのです。

 

既成の理論(権威)に惑わされることなく、自然な目で大衆を見つめること、それが必要でした。

山田さんはそういう視線を獲得していました。でも評価は「左がかった」人々から甘っちょろいと言われていました。まったくです。

 

 

そんな頃私は「新選組吉村貫一郎」という漫画を描いて出版社に持ちこもうとしていました。

吉村貫一郎というのは南部藩の武士で、生活困窮のため新選組に入った男でした。剣の腕もたち活躍しますが、やがて幕府側は劣勢となり、新選組も総崩れとなります。

 

吉村貫一郎は追い詰められ、会津藩の藩邸に逃げ込みます。吉村貫一郎は故郷に妻子を残してきており、死ぬわけにはいかないのです。藩邸にかくまってくれと命乞いをします。しかし会津藩はこう言います。

 

「君は新選組として倒幕派を散々殺してきたじゃないか、それを今頃そんなことを言うのは身勝手じゃないか」

吉村貫一郎はこう言います。

「私は生活のために新選組に入ったのであって、尊王だの佐幕だのどうでもいいのです。生活のためならどちらでも良かったのです」

すると会津藩の武士は激怒します。

「それはいい加減というものではないか!恥を知れ!」

当然の怒りだと言えます。しかし政治というものは大衆にとってそういうものでもあったと思います。

 

吉村貫一郎は抗弁の甲斐なく、藩邸で切腹させられます。

手持ちのわずかな金を「妻子に届けて欲しい」という伝言を残して。

 


この幕末に早くも現れていたマイホーム主義者に私は感銘していました。「共同幻想(政治などの共同に対する幻想)」と「対なる幻想(恋人、家族に対する幻想)」と「個人幻想(個人だけの幻想)」の3つの世界に、同時に誠実であることは難しいことなのだという「共同幻想論」の理論を証明したような逸話でした。

 

吉村貫一郎は家族に対して誠実であろうとして、政治的には不誠実でいい加減という存在になっていたのです。これは描くべきことだと思いました。




幕末の資料なども山田さんに借り、「ここは吉村貫一郎が凄く剣が強いというシーンを入れておいたほうがいいよ」なんて山田さんのアドバイスをうけながら完成させました。

 

しかしこの作品は陽の目をみませんでした。

編集者がビビったからです。この話は子母澤寛の「新選組始末記」に1ページほど書かれているエピソードを膨らませて書いたのですが、編集者はそこにビビりました。

原作料をとられるというのです。

例えば映画「座頭市」だって原作子母澤寛となっているけど、「盲目の博打うちがいた」とそれだけ書かれているだけなのです。なのに高い原作料を払っているというのです。俺は責任とれねえと編集者は撤退しました。「そんなこと持ち出されたら参っちゃうねえ」と山田さんも残念がりました。

当時吉村貫一郎については子母澤寛以外書いていませんでしたが、後年「壬生義士伝」として浅田次郎氏が小説で書いています。どんな内容なのかは知りませんし、その後の調べでは、実在した人物ではないという話もあります。

 

さて、山田さんは大衆と政治といった時にどういう風に書いていたのでしょうか。

「パンとあこがれ」(1969年TBS)にこういうシーンがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山田ファンの始まり(21)政治と大衆」に続く。



 

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