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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

山田ファンの始まり(24)歴史とは何か

 

「山田ファンの始まり(24歴史とは何か

 

 

 

 

話が前後しますが、1980年山田さんは大河ドラマ「獅子の時代」(NHK)を発表します。

大河ドラマと言うのは、役者だけではなく、脚本家にとっても檜舞台といえ、ライターとしてトップの座についた証と言えたでしょう。作家として大きく羽を広げるチャンスでした。

 

しかし大河のオファーがあった山田さんに、私はこんな変なことを言いました。

「山田さんが大河ドラマを書くなんてピンと来ません」

山田さんは「君と似たようなもの書いているからね」と苦笑しました。

 

当時私は大河ドラマが嫌いでした。

 

ドラマというのはある程度の単純化を前提とするものですが、大河ドラマの単純化が私にはどうしても気にいりませんでした。

 

英雄や大人物が歴史のポイントポイントで判断を下し、世の中が動いて行く。

政治の中枢は権謀術数で彩られており、清濁併せ呑むという器量が問われる。下層庶民はその流れの中で右往左往する存在でしかない。

それが気に入らなかった。

 

 

 

学園ドラマで、非行少年はドラマの対象となるし、優等生やスポーツマンもなる。しかし、その中間にいる普通で平凡な生徒、とりたてて何もない生徒は、取り上げられることはない。

だが、そこにドラマがないかというと、そんなことはない。生きることは思いがけないエピソードで彩られており、派手なエピソードばかりがドラマではない。

学園ドラマだけではなく一般のドラマもそういう狭さの中にいる。

 

大河ドラマのような切り取り方が、ドラマなのだという観念がドラマを狭くしている。実はとるに足りない人々、普通の人々の中にはドラマの鉱脈が山のようにあるし、歴史はそういう人々によっても裏打ちされてきた。

そう思っていました。

そして「王様が誰に殺されたなどという話より隣の肉屋はどうして奥さんと結婚したという話に興味がある」というチャイエフスキーの言葉に共感した山田さんも同じだと思っていました。だからこそピンと来なかったのです。

 

 




昔「ミステリーゾーン」だったか「アウターリミッツ」だったか、米TVドラマでこういう話がありました。

 

世界を核戦争で破滅させてしまう独裁者のいる未来から、タイムマシンで兵士がやって来ます。

兵士はやがて独裁者を生むことになる女性の結婚を阻止しようとします。兵士は核戦争で醜い容姿(ケロイド)になっており、女性はモンスターの出現に怯え、逃げ回ります。

それでも兵士はなんとか女性を説得し、結婚式場から連れ出し、タイムマシンに乗せて未来に向かいます。

 


異次元空間を移動中に、兵士はハッと気付きます。しまった、未来は変わったんだ。だから私は生まれていないんだ。そう言った瞬間に兵士は消えてしまいます。

タイムマシンの中には女性がひとり取り残され、いつまでも異次元空間をさまよい、泣き声だけが響いているというラストです。

 



これを友人に話したら、どうしてそんなことになるんだ?と聞いてきます。分からないと言います。未来が変わる、独裁者が生まれなくなるということは分かる。でもどうして一兵士までいなくなるんだ?と言うのです。

意外な問いでした。

 

そのことを、更に別の友人に話しました。「困った、どうしても分かってくれない奴がいるんだ」と。

すると友人はそのドラマを見ていて、「お前のような話し方をすれば、そりゃあ分かんなくなるよ」と言うのです。

「その兵士は独裁者の息子だったんだよ、だから消えたんだ」というのです。そんな経緯あったっけ?と思いました。私は納得がいきませんでした。

 

後日そのドラマを見る機会があり、確かめるとそんなエピソードはありませんでした。息子ではなく、一兵士に過ぎなかったのです。

 




ここで友人たちは、私とまったく違う歴史観を持っているのだと思いました。つまり考えが大河ドラマなんです。歴史は徳川家康や織田信長や豊臣秀吉が動かしていて、その他大勢は関係ないと思っているのです。

彼らの疑問は、言ってみれば、徳川家康が生まれないように細工したのに、何故下っ端の足軽まで消えてしまうんだという疑問でした。

それはそうだと思われる方も一杯いらっしゃるでしょう。

家康がいなくなれば家康の血筋のみが影響を受けるだけだと思う方はたくさんいらっしゃるでしょう。

しかし歴史とはそういうものでしょうか。現実とはそういうものでしょうか。

 




「パンとあこがれ」(1969TBS)に、相馬綾のこういう台詞があります。

 

「どうして人の命が一人のものだと言えるだろう。兄の声、母の働く姿、そのひとつひとつが私の生きる支えになっていないとどうして言えるだろう。そしてとりわけあの機の音。あの機の音が私の生きる支えになっていないとどうして言えるだろう。そのすべてのことが今の私を作った。自分はひとりぽっちだとか、自分は人にとっていないも同然だとかいう考えを私は憎みます。帰ってくる哲夫に見せたいのは、諦めた私達ではないはずです。74歳と69歳の老人がそれでも尚あこがれを持ったという姿を刻みたいのです」

 




私たちは生きている限り、互いに影響を与え合っている。それは親兄弟だけではない。

自分の波紋と他者の波紋が複合し、更なる波紋が発生するダイナミズムの中にいる。

歴史的にキーポイントとなる偉人の判断も、そこにいたるまでには無数の名もなき先人の影響の果てにある。
誰一人欠けても私たちが知っている歴史にはならない。
血筋だけの問題ではない。
徳川家康が生まれなくても足軽はいるかもしれないが、それはパラレルワールドであり、私たちの歴史の足軽ではない。
徳川家康が「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」という境地になるまでには先人や周りの人々の影響が多々あったはずです。それは英雄伝説には出て来ない無数の人々の何百年にわたる習性の影響だったかもしれない。

 

言ってみれば壮大なドミノ倒しのようなもので、どのピースが抜けてもドミノ倒しは達成されない。
徳川家康や毛沢東やナポレオンというピースだけで歴史が構成されているわけではない。名前すら定かでない無数の人々があってこそドミノ倒しは完成する。
どんなに無名の人も、波紋というか、波動を発して生きており、それは影響を与え合い、波動の集積が世界というものになっていく。
だから核戦争を起こす独裁者の誕生を阻止したら一兵士も消えてしまうのです。

 

 

山田ファンの始まり(25)大河ドラマが歴史か?」に続く。



2021,11,3

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