わしも介護をやってみた!(25) 管理者は五十嵐氏をどう見ているか。
十一月十三日(土)。
さて管理者富士見さんは五十嵐氏をどう見ているのであろう。
もちろん富士見さんの上には男性所長がいるが現場にはタッチしない。富士見さんを頂点とし、その下に黒岩、久保田という常勤職員が現場をとりしきっている。
富士見さんは五十嵐氏をどう見ているか。私は富士見さんとそういう話をしたことはないが、あるエピソードが富士見さんの五十嵐観を証明している。
一週間ほど前にとんでもないメンバーで入浴介助をすることになった。
私、五十嵐、まったくの新人というたったの三人で八名の利用者を介助することになったのである。馬飼野さんも黒岩氏もいない。ベテランはひとりもいず、私はどういう段取りで入浴させるか悩んだ。
仕事の流れの読めない五十嵐氏、やっと体を洗うことが出来るようになった程度の新人、どうすればよいのか。
あとでこの日のことを知った馬飼野さんが「それじゃ、あなた一人で介助しているようなもんじゃないですか」と呆れていたが、その通りだった。
時間をかけるしかない。あせらず時間をかけてやるしかない。そう思った。
しかし最後に入浴するFさんという下半身マヒの人が問題だった。痴呆はまったくないが不慮の事故で歩けなくなった方で、いつも電動車椅子でセンターまでご自分で十一時過ぎ来訪される。この人の介助がベテランでないと難しかった。
まず体が大きいのでトランス(体の移動介助)に高度な技術が要求された。
また頭のクリアーな方なので、体の拭き方、衣服の着せ方、足への保湿オイルの塗り方、電動車椅子の手すりの外し方などに細かい要求があった。
私だって、やっと頭でやり方は理解できたかなというレベルなのである。この人をどう介助するか。ベテランですらうまくやれないと情け容赦なく叱責されているシーンをよく目撃していた。
大問題が最後に控えている中で入浴はスタートした。
幾つかの問題は発生したが、新人は懸命に動いているし五十嵐氏もトンチンカンは相変わらずだが、まあなんとか動いている。
でも案の定時間は押してしまい、Fさんが入浴する頃には十二時を回ろうとしていて、昼食の時間が来ようとしていた。利用者さんが全員入浴を終らないと食事を始められない決まりになっていて、いよいよ私は焦り始めた。
Fさんの体は私が洗うことにした、五十嵐氏では手が遅過ぎると判断したのである。とにかく時間が押している。新人には浴槽掃除を指示し、五十嵐さんには脱衣所の着衣を担当してもらった。
私はFさんに「今日はベテランがいなくて入浴が遅くなってしまいました。どうもすみません」と謝りながら体を洗い始めた。
背後で新人が懸命に大浴槽の掃除をしている。Fさんは「個浴」というひとりだけで入るお風呂を使う人で、まあ言ってみれば普通の家庭用の小さなお風呂に入るので、大浴槽は掃除を始めてよいのだった。
その時脱衣所の扉が少し開くけはいがした。
見ると五十嵐氏が扉を少し開けてこちらを覗いている。そして私と視線が合うと小声で信じられないことを言った。
「シャワーを浴びてフロアに戻っていましょうか、わたし」と。
心の中で激怒した。
これから一番難しく危険なトランスがあるのである。
何を言っている。この状態が見えないのか。
五十嵐氏の思惑は分かる。おそらく脱衣所の利用者はすべてフロアに出てしまったのである。つまり脱衣所担当の彼のやることはなくなった。彼は手持ち無沙汰になったのである。
Fさんは私が洗っている。掃除も新人がやっている。彼はボサーッと脱衣所に立っているよりフロアに出たほうがいいと判断したのだ。
しかし二人がかりでやるトランスと細々とした衣服の着脱がある。これからが一番難しいところなのである。
それを「シャワーを浴びてフロアに戻っていましょうか」とは何事か。自分の役目は終ったとでもいうのか。先の読めない間抜けぶりに怒鳴る寸前までいったが、もちろん利用者の前では怒鳴れない。
そしてもうひとつ厄介な事情を思い出した。朝のミーティングで五十嵐氏は十二時半から休憩に入る予定を組まれていたのである。だから確かに時間的にもうフロアに戻り、食事を早急に済まさなくてはいけない時間が来ていた。そういうこともあって五十嵐氏は言っているのだ。しかしその予定は入浴が滞りなく終っていればの話である。どうせフロアに出てもFさんが終らない限り食事は始められないのだ。
彼の思考能力の限界に怒りを覚えながらも私はこう言った。
「シャワーを浴びて乾いた服に着替えて待っていて下さい。脱衣所でのトランスがあります」
言葉は普通だが、私は相当陰険なイントネーションで言ったように思う。それを彼がどんな表情で聞いたか、まったく見る気もなかった。
私は「ふざけるな!」と心の中で怒鳴りながらFさんの体を洗った。
すると背後で新人がボーッと立っている。どうやら浴槽掃除の順番を思い出せないらしい。私はこれまた言葉は丁寧だが陰険に次の段取りを指示した。新人は「ああ、そうでしたね」と呑気な苦笑いをして動き始めた。
しまったと私は思った。
トランスは脱衣所だけではなくお風呂の中でもあるのだ。
「個浴」に入ってもらう時当然二人がかりのトランスがあるのである。五十嵐氏が服を着替えてしまったら、当然お湯に体をつけてのトランスは出来ない。しかしそれに気付いた時には五十嵐氏はシャワーを浴びて着替えにはいっていた。
この未熟な新人とトランスをやるしかないのだと私は悟らざるを得なかった。新人がどれ位トランスの技術を身につけているのかまったく分からなかった。
しかしもう遅い。新人とやるしかないのである。
トランスは体側を抱える人と足側を抱える人とに分かれ、当然体側を抱える人に高度な技術が要求される。当然体側は私がやり新人には足を抱えてもらう。体側さえしっかりしていれば、Fさんを落っことしたりは絶対しない。それで行くしかない。
体の洗いが終りトランスの時が来た。
新人を呼んで足を抱えさせ、まずどういう動き方でトランスをするか言葉で説明した。それは利用者さんへの説明でもあり、新人相手でなくとも毎回必ず行うものである。
「いいですか、まず最初にFさんに横移動をしていただきます。車椅子から浴槽のこの位置まで移動します。お尻をこの位置に乗せ腰掛けるような感じになります。それから縦移動で浴槽の中に入っていただきます。分かりますか。タイミングは体を持っている私の方が指示します。足はちゃんと抱えられましたか?準備はOKですか?では行きますよ」
そしてトランスを行った。
新人は失敗した。
足を抱えたはいいが、一気に浴槽の中まで運び込むことは出来なかった。浴槽のふちに引っ掛かってしまい、体はちゃんと横移動をし浴槽に腰掛けられはしたが足は入りきれなかったのである。
Fさんは怒った。
「それじゃ駄目じゃないか。もっと高く持ち上げなきゃ。何やってるんだ」
新人はすみませんと謝りながら再度挑戦しなんとか足を入れることに成功した。そして次の縦移動はうまくいった。
なんとか大きな事故にならずに一回目のトランスは終った。
しかしお風呂から上がる時に再びトランスである。今度はお風呂から車椅子ではなくストレッチャーに乗せなくてはならない。これもまた要領のいる難しい仕事なのである。
やっぱり五十嵐氏を着替えさせたのは失敗だった。流れの読めない五十嵐氏だが多少のトランスのキャリアはある。ただ彼はたとえ足を抱えていても自分勝手なタイミングをとろうとする。タイミングは体を抱えている人がとると決められているのに、いざトランスとなると、そのことのみに懸命になってしまい、足を抱えているのに自分のタイミングで「いいですか?せーの」などと動くのである。
これは何回言っても直らない。あげくは「ああ、そちらでタイミングとって下さい」などという「俺はひいてやったぜ」的な発言もする。つまり主導権を握られるのがイヤという気持ちなのだ。だったら体を抱えればよいのだが何故かそちらの技術には余り関わろうとしない。
でもそんな人間でも、この場合にはキャリアのある程度ある奴のほうが良かった。ストレッチャーへの移動で新人が失敗し、足を床に転落させたら私も引っぱられる可能性がある。そのことを考えたら後悔の気持ちが溢れた。
何しろFさんは体が大きい。普通のご老人なら痩せているので、ある程度腕力でなんとかなるが、Fさんの体重は腕力だけではなく要領が要求された。
短い時間だがトランスの要領を再度新人に説明し、また緊張しすぎて失敗しないようにも配慮して言葉をかけた。
そしてそれが功を奏したのか、二回目のトランス、ストレッチャーへの移動は奇跡的にうまくいった。
さあいよいよ脱衣所での着衣とトランスである。ストレッチャーに横になったままで体を拭き、ある程度のところまで着衣を行う。紙おむつやズボンもあるところまでは穿かせる。
そしてFさんの足をひとりが高く持ち上げ、お尻がある程度上がったところでズボンと紙おむつを正しい位置にもう一人が引っぱる作業が始まった。この紙おむつの位置が微妙で難しかった。当然その難しい引っぱる方を私がやった。
ところがいくら五十嵐氏が持ち上げても紙おむつとズボンは正しい位置に引っぱれなかった。つまり持ち上げ方が足りないのである。体重がある為に通常より今一歩の力がいるのである。とはいえ五十嵐氏より体が小さく、おそらく力もないであろう馬飼野さんはちゃんと持ち上げている。技術の問題と言えた。
Fさんがじれて五十嵐氏に怒った。
「それじゃ駄目だよ。全然お尻が持ち上がってないじゃないか、ちゃんと持ち上げろよ」
五十嵐氏は再度挑戦したが上がらなかった。Fさんは「だからそれじゃ駄目なんだよ。上がってないじゃないか」と怒鳴った。
五十嵐氏はFさんにではなく私に向かって「これは無理ですよ、車椅子に移動してからやりましょう」と言った。
それを聞いたFさんが怒った。
「ここでやるんだよ。これで出来るんだから」
怒って当然である。
利用者さんの指示に不平を言い、自分のアイデアを出しているのである。どうしてそんなことを言うのか。余程利用者さんが理不尽な要求をしているならともかく、このやり方で今までやってきたことはこれまで見てきた筈である。ベテランたちも総てこのやり方だったし、実際理に叶ったやり方なのである。
しかもFさんにではなく私に言ったということも問題だった。
彼はFさんを痴呆者だと一瞬にせよ勘違いしたのではないか。或いは利用者というのはある局面からは無視していいとでも思っているのか。
彼の利用者さんへの対応は「愛」に溢れているのだが、でもそれは「赤ちゃん言葉」が主流を占めていた。まるで幼子の相手をするように彼は「愛情をこめて」接するのである。
これは完全にスタンスを踏み外していたし、二級のヘルパー講座でもそれは教えられている。「赤ちゃん言葉」がどれ位利用者を傷つけるか。
でも彼はそういう講座に行っていない。「二級のヘルパー講座って受ける必要あるんですか?」と私に聞いたくらいである。
黒岩氏だって馬鹿にして受けてはいない。あんなものは受講料だけ払えば誰でもとれる資格とも言えない資格だと五十嵐氏に言っていたのを私は聞いている。
残念ながら確かにそういうレベルのものである。金を出してある一定の講習を受ければ誰でも資格を取得できるものである。
しかしだからといって無駄なものではない。そこには確実にある知恵が披瀝されている。
それを金さえ出して一定の講義さえ受ければ簡単に取得出来るライセンスなのだなどと揶揄すべきものではないと私は思う。
知っている知らない。レクチュアを受けているいない。その差はあれど肝心なことは自分が体験の中で獲得できるかである。レクチュアを受けていても獲得できない人はたくさんいる。
だからそれはいい。
彼は利用者を無意識のうちに下位のものとみなしているのではないか?
彼の愛情溢れる個々への対応は彼なりの「一方的慈悲」ではないのか?
まあとにかくそれはいい。そんなことを詮索している時間はない。現実は目の前にある。
私は「もう一回持ち上げて下さい」と怒りをこらえて言った。五十嵐氏は渋々ではあったが再び持ち上げた。自棄といった感じだった。今度はうまくいった。
「そうだ、それでいいんだ」とFさんは言った。次にシャツを着せてストレッチャーから電動車椅子へのトランス。一つひとつ細かい指示をFさんに貰いながら進める。
でも五十嵐氏にFさんの怒声がとぶ。
「違うだろう!靴下はズボンの上に被せるんだよ、いつになったら覚えるんだ。足の固定ベルトをこのあと足にかけるんだ。皺になってたら駄目なんだよ。何回も見ているだろう」
怒って当然である。
五十嵐氏は私とまったく同じ回数Fさんに会い、先輩のやることを見、そしていくつかは手伝っている。でもまったく五十嵐氏は覚えていない。そして自分のやり方が否定された不満を笑顔ではあるが滲ませる。
とにかく叱責を受け続けながらもFさんの着衣は終りフロアに戻ってもらった。
五十嵐氏も同時にフロアに戻し、私は掃除の手伝いに入った。急がねばならない。私と新人も食事の時間が大幅に遅れてしまう。
やっと掃除が終り、私たち二人もシャワーを浴びて服を着替えた時には一時近くになっていた。
すると五十嵐氏が苦笑いをしながら脱衣所に入って来た。
「言いたい放題ですよ、Fさん」と言う。
どうやら食事の席がFさんの隣になってしまい、食事の間中五十嵐氏は説教されたらしい。「思いついた文句は全部言ってる感じですよ」と笑い、フロアに出たら私もFさんに叱責されると思ったのだろうか「気にしないほうがいいですよ。聞き流して下さい」と言った。そして「遅れたけど、これから休憩に入ります」という報告をして脱衣所を出て行った。
私は、おいおい、まったく読めない奴というのは本当に読めないのだなという徒労感に襲われた。
とにかくなんとも大変な一日だったのだが、そのことを今思う時、管理者はどうしてこのメンバーで入浴介助が出来ると判断したのかという疑問が残った。
私と五十嵐氏は数日違いのほぼ同期である。ひょっとすると管理者にとってこのメンバーというのは、ベテラン二人と新人一人という構成のつもりだったのではないか。五十嵐氏を私と共に、すでにベテラン扱いしているのではないか。
女性管理者富士見さんは男性の入浴の実態を把握できていないのではないか。同性介護の原則では富士見さんがこのような実態を体験することは不可能である。だから男性リーダーの黒岩氏がある程度報告していると私は思っていたが、それは行われていないのではないか。だからこのメンバーで可能という判断を下したのではないか。
伊豆さんは昨日車の中で話し聞きながら、あまりの酷さに呆れ果て「お忙しくなかったら、今からセンターに戻って富士見さんに話しをしませんか」と管理者に抗議しましょうというニュアンスの発言をした。
しかし私はその時センターに戻れば黒岩氏もいるので「頭越し」の抗議はまずいと思った。それに五十嵐氏の危ない人格も考え合わせると、もう少し様子を見てからにしましょうと言った。
他の男性職員の意見も聞いて対応しましょうということになった。
「わしも介護をやってみた!」(26) 五十嵐氏は聞いていたか。