わしも介護をやってみた!(28) 欠席裁判。
十一月十九日(金)。
朝の始業前のフロアで馬飼野さんが話しかけて来た。
昨日のミーティングで馬飼野さんが提言したことについてである。
昨日私は四時半上がりのためにミーティングに参加出来なかったので、私にだけ「報告」してくれるのである。
四時半上がりとは仕事中休憩をとることが出来なかった職員が三十分早く仕事を終了することである。全員が時間をずらして休憩をするのでスケジュール上、出勤者が多い時にはどうしても休憩出来ない人が発生する。だから私はミーティングに参加出来なかったのである。
馬飼野さんの話によると職員の言葉遣いの乱れについて提言したそうである。
あくまでも利用者さんに対しては敬語を使ってもらいたい。利用者さんは私たちの人生の大先輩でありお客様なのだという気持ちで接して貰いたい。
新人の方がたくさん入られてその辺が乱れてきていると思う。特に幼児語を使ったりしている職員が見受けられる。もう一度新人の方々に富士見さんの方から言って貰いたい。指導して貰いたい。
そう提言したそうである。
そして新人とは五十嵐さん以降の方々ですとはっきり名指しで言ったそうである。五十嵐氏の幼児語は目に余るものがある。馬飼野さんも苛立っている。五十嵐氏は、痴呆者や大人しいお婆ちゃんには間違いなく甘い口調で赤ちゃんに接するような対応をする。
「お茶もう一杯のむ?」なんて甘く囁くように言う。即座に先輩女性職員の「のむ?じゃなくてのみませんか?でしょう」という叱責が飛ぶが直らない。幼児語が彼の利用者さんに対する「愛情」なのだ。
そんなミーティングの話を馬飼野さんに聞いたあと、送迎前のミーティングが事務所で始まった。送迎予定表を見ると、皮肉なことに五十嵐氏と送迎のコンビを組むことになっていた。
私が運転で五十嵐氏が添乗である。
朝、利用者さんのお宅に向かう途中、つかの間ではあるが運転手と添乗員の二人だけの時間になる。ちょっと緊張したが、差し障りのない範囲の雑談をしていて、はっきりと五十嵐氏は駐車場で私たちの話を聞いていないことを確信した。自然すぎる。おまけに仕事の愚痴まで私にこぼし始める。100%の確率で聞いていないと思った。
やがて利用者さんを乗せ始めると、五十嵐氏の対応に昨日のミーティングの成果がなかったことに気付いた。
彼の幼児語対応は改められていない。
時折思い出したように敬語っぽくなったりはするが、時間が経つにつれ、利用者さんが増えるにつれ、幼児語一色になって行った。
その日の終業時、今度は五十嵐氏が四時半上がりでミーティングには参加しなかった。その偶然ではあれ五十嵐氏がいなかったことが結果として「欠席裁判」という事態を招いた。
まず黒岩氏の方から、ある利用者(お婆さん)のご家族から「センターであまり構わないで欲しい」という要望があったという話が出た。
そのお婆さんはさして痴呆があるわけではないし、足腰が弱っているだけで、基本的には何でも自分でやりたいという意志を持っておられる。それがセンターに来ると、何もかも先回りしてやられてしまい困ると家族に愚痴をこぼされたそうである。
構い過ぎる職員がいるということである。
一番構っているのは五十嵐氏だった。しかも幼児語対応でべちゃべちゃくっつくように接する。
馬飼野さんは構い過ぎるという問題とともに、言葉の乱れについてもう一度発言した。昨日とは違う新人さんが今日もいたので、同じ主旨の発言を馬飼野さんはしたのである。
もちろん五十嵐氏の対応を目に余る例として出し「五十嵐さんには昨日十分に言いましたので今日は言葉遣い改まったろうと思っていますが」と馬飼野さんは言った。
それを聞いて私は「いえ全然改まっていません」と言い今朝の状態を話した。
馬飼野さんは「え?」と苦笑いをし他の職員も笑った。
「いえ、彼にはこういう公の席ではなくとも、もう三回ほど言い聞かせているんですよ。お風呂の中でとか。でもなんというのか全然直らない」と馬飼野さんは言った。
そこでここをチャンスとばかりに私は自分なりの五十嵐観を語った。
要するに人間に対する距離が近すぎるのであり、彼の幼児語対応は親愛の情の表れであり、何をやっても一対一対応でしか行動出来ないのはそのせいであると。だからある意味「心の病」であり、改めろと言っても出来ないのではないかと言った。
すると他の職員からも次々と苦情が出て、まさしく欠席裁判となり黒岩氏は苦渋の表情となった。
それは、黒岩氏が欠席裁判という陰口が卑怯だと嫌っているわけではなく、そのような職員を放置している管理側の体制が問われていることに自ずと気付いたからである。
馬飼野さんは「黒岩さんの方から一言五十嵐さんに言っていただけますか、私が言ってもおそらくヘンなじじいに言われているとしか思っていないのでしょうから、黒岩さんのほうから一度言っていただけますか」と言った。
黒岩氏は苦りきった表情で「手は打ちます」と怒ったように言うと、その話題を打ち切り次の議題に移った。
さて黒岩氏はちゃんと言うことが出来るのだろうか。
言ったにせよ、それは効果が表れるのだろうか。
その日富士見さんは休みだったが、とにかくこのようなことがきっかけで、特別「直訴」しなくても「五十嵐問題」は議場にあがり、私だけではなく多くの人が問題視しているという現実が明らかになったのである。
(29) マツケンサンバ に続く。