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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

山田ファンの始まり(27)長生きをするということ

 

 

「山田ファンの始まり(27長生きをするということ

 

 

 

 

 

私はためらいました。

もう手紙なんて書けない。

山田さんの手紙の文字が、書くのに如何に大変だったかということを物語っていました。返事を要求するようなことは出来ないと思いました。リハビリに専念して欲しい。

 

かと言って直接会いにいけるかといったら、とても無理と思いました。どんな状態なのか想像するだけで胸が苦しくなりました。ご家族が懸命の看病をしていらっしゃるだろう、それを邪魔するようなことをしてはならないと思いました。

そして山田さんもリハビリ中の自分を見られたくないのではないかと思いました。

 

もともと、こういうXデイに関してはある決心をしていました。そうなったらもう会うことは出来ないだろうと思っていました。

長い歳月私と付き合っていただきましたが、あくまで付き合っていただいたという気持ちが私には強かった。はるか昔、得体の知れない若者と出会い、なんだか縁が続き、たまたま今日まで付き合いが続いているということに過ぎず、山田さんがこういう付き合いを強く望んでいたわけではないだろうと思っていました。

 

そもそも人間関係とは、当たり前ですが、相手があってのことです。

山田さんは私を相手にした時、私のわかる範囲、私の関心がある世界に対して言葉を出しておられたと思います。私もまた山田さんが見せてくれる範囲でしか言葉が出せなかった。

 

ある時、大変珍しいことですが客が重なり、山田さんのご親戚なのか若い男性と一緒にリビングで話をしたことがありました。

その時私は山田さんと若い男性の会話に入って行けませんでした。

二人はイギリスの小さな町の路地裏にあるレストランの話をされていました。まだ海外旅行が一般化されてなかった頃です。海外ツアーなんてなかった頃に、お二人は、そんなコアな路地の話をされていたのです。しかもそれはマウントをとるような、貧乏人の姑息な話し方ではなく、老舗を見つけた喜びを素直に溢れさせて語っておられたのです。分かる分かるという共感を結んでおられたのです。

 

私は階級差というものを感じました。生活のレベルが違う。山田さんはそういうことを言わないし、ひけらかす人ではないから気づかないけど、山田さんは上流階級の人なのだと思いました。山田さんの交際範囲の広さを思って私は震え上がりました。必然的に私は付き合ってもらっているのだと思うしかありませんでした。

 

あの「ぼくたちはゴミのような存在だ」と言われた時から、山田さんは想像力の翼をどんどん広げられ、日本に、世界に波動を発する人間になられました。

それに呼応した才能ある方からたくさんの賛辞がよせられていました。山田さんと語りあいたい人はたくさんいて、当然相手は私ではないと思っていました。奇縁の中で私は、今も山田さんの友人でしたが、それはまさに奇縁だと思っていました。

 

しかも、あくまでも私と山田さんとの間のことです。ご家族とはまた別個です。山田さんとは奇縁があるけど、ご家族とはそんなものはないと思いました。お子さんが小さかった頃は、ちょっと変わったお兄ちゃんって感じで交流がありましたが、成人されてからはまったく交流はありません。奥様とも必要以上の交流はなかった。

山田さんが倒れられ、ご家族の庇護下に置かれた以上、そんな遠慮もあって、私は簡単に会いに行くわけにはいかないと思いました。

 

 

その頃山田さんの本の企画があって、編集の方と会う機会がありました。

編集の方々は定期的に山田さんを取材されていて、そこから山田さんの状態が漏れ伝わって来ました。

脳出血ですから、片麻痺とかになっておられるのではないかとか心配しましたが、そういうことはなさそうでした。

 

編集の方はご家族とも連絡を取っておられ、そんな中から、山田さんが私と会いたがっているという話がご家族から伝えられました。驚きました。何故?と思いました。

山田さんにはたくさんの人からオファーがあるはずでした。長年付き合ったテレビマンもおられるはずです。

 

 

戸惑いながらも、2018年4月15日私は山田さんとお会いしました。

お体が一回り小さくなっておられましたが、にこやかでお元気でした。

私は10年ほど前から、介護福祉士としてたくさんのこういう方に会って来ましたが、その経験から言っても、ひどい後遺症はないと思えました。歩行も出来ましたし、発語も、聞き取れない部分もありましたが、まずまずと言えました。

 

お互いの家族のことなどを語りあいました。ドラマのこと、映画のことなどを語りあいました。ああ、こういうことはご家族では、話せないよなあと思うことも話しました。

 

話して分かりましたが、山田さんにはもうお友達がいないのだということでした。みんな亡くなっておられる。田向正建さんが生きておられたら、私の出番はなかったはずです。木下恵介さんが生きていらっしゃれば、また、局面は変わったはずです。

一緒にドラマを作って来たスタッフもみんな鬼籍に入っておられる。「太一ちゃん」と呼ぶ人は一人もいない。

長生きするとはそういうことです。

私はかろうじて、山田さんが歩いてきた創作の世界を、共感を交えて語りあうことが出来る数少ない人間だったのです。

 

山田さんにはたくさんの手紙や本が送られてきていました。

再演したいという舞台の話も来ていました。それに返事を書きたいのだけど、文章を思いつくことができても、何故か手の方が動きません。あのかなくぎ流の文字すら簡単には書けないのです。あれだけ筆まめに返事を書いておられた方です。辛いだろうと思いました。私にペラ4枚もの手紙がよく書けたなと改めて思いました。

 

私は口述筆記をすることにしました。

パソコンで起こして、プリントアウトしてサインだけすればいいのです。

山田さんはあくまでも自分で書きたいという気持ちにこだわられましたが、難しいと思いました。断念していただく以外ありませんでした。

そうやって病後の山田さんとの付き合いが始まりました。

 

 

 

 

 

 

山田ファンの始まり(28)山田太一賞」に続く。

 

2021.11.13
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