山田ファンの始まり(28)山田太一賞
「山田ファンの始まり(28)山田太一賞」
山田さんは私が訪問すると、すぐ散歩に行こうと言われます。
倒れてからというもの、一人で散歩することが許されなくなっている山田さんです。安全優先で、うっかり転倒などして大腿骨折なんかしたら大変。ヘルパーや私が来た時だけしか散歩は許されていません。
散歩中はいろんな話をされます。
でも私は、山田さんが転倒しないように必死の警戒をしており、よく話が呑み込めないのに、頷いています。すみません。
その頃、丁度タピオカブームで、つい調子に乗って駅前まで行ったら、新しいタピオカ店が出来ていました。
山田さんは当然ご存知なくて、タピオカのキラキラしたポップの前で、結構丁寧に説明をしました。すると山田さん、突然ポケットに手を突っ込み小さな財布を出すと、中に入ろうとされます。
私が飲みたがっていると思われたらしい。
慌てて「買いませんよ!凄く甘いんだから!」と言いました。すると山田さん、なんだ、という顔をされて財布をしまわれました。
なんという瞬発力。行動力。凄いなと思いました。
散歩中はそういうエネルギーに溢れておられ、本当は一人で気ままに散歩したいんだろうなと思います。
雑談になると「いつ死ぬんだろうね」なんて話をペロっとします。
山田さんと私は、どちらが先に死んでもおかしくない老人です。まさかあの出会った日に、こんな日がくるとは思いませんでした。
不思議ですが、会うと、二人ともあの頃の年齢に戻ります。戻ったままで、いつ死ぬんだろうなんて年寄りの会話をしているのです。笑ってしまいます。
私も山田さんも戦争のない平和な時代を生きることが出来ました。まあ、山田さんは小さい頃戦争があったけど、終戦後は平和を生きました。私は文字通り「戦争を知らない子供たち」を生き、そのまま年寄りになりました。貴重なことだと思います。
でも平和だと言っても、当然ですが平穏ではない。
「藍より青く」(NHK)で大学生の息子(周太郎)が、いい大学、いい会社に行くというコースに悩み大学をやめようとするところがあります。
母親真紀はこう言います。
「周太郎。お母さんもね、この頃そんなことを言う人がいるのを知ってる。新聞なんかでも読むことがある。サラリーマンは見当がついているとか。エスカレーターだとか。
でも、そんなこと決してないのよ。勤めてみればそんな簡単なもんじゃないことは、よくわかるはずよ。
あなたは官庁へ勤めることが、見当のついた人生だと言ったけど、そんなことはない。その中で生きてみれば、そりゃあ、努力もいるし、運もいるし、やりがいももちろんあるのよ。ひと口に、毎日通って五十五で定年と言えば、わかってしまった人生のように思えるかもしれん。
でも、そんなことを言えば、人間の人生なんて、誰てちゃ見当がついとる。生れて、年をとって、死ぬだけたい。だからて、見当がついたから、生きとるのをやめようと何人の人が思うかしら?見当などつかないのよ。見当がついたと思うのは、お母さん、とんでもない思い上がりだと思う」
理不尽な虐殺があるわけでもなく、極端な生死の問題があるわけでもない平和な時代。紛争のある国に比べれば、なまくらな人生を生きていると思われがちですが、そんなことはなく、細かなたくさんの「平和の問題」があるということです。平和とは結果的に平和が維持されたということに過ぎず、いつ戦争に針が振れるかという危機感の中での平和だったのですから。
山田さんは「藍より青く」(NHK)を書き始めたとき、モチーフを私にこう言われました。
「戦争というものを天災として受け止めた人々を描きたい」
戦争が何故起こるのか?何故軍国主義になったのか?という問題ではなく、まるで台風や地震のように、降りかかってきたものとして、大衆が懸命に対応した世界を描くという意味と私は解釈しました。
私の父や母にとっても戦争は天災扱いだったと思います。
いえそれだけではなく、60年安保も、70年安保も、バブルも、降りかかった出来事で、本人たちはひたすら真面目に働くだけの人生だったと思います。それでいいのかという問題は当然あるわけですが、そういう対応で、その中心にあったのは、私たち家族で、家族を守るために真面目に働くことしか考えていなかったと思います。
叔父に理不尽な借金をさせられても、真面目に働くしか方法を持っていなくて、その後も叔父と親戚付き合いは続けていた。叔父の一発当てたいという欲望は続いていて返済すらしなかったのに。
叔父が父母にやっと返済をし始めたのは、もう叔父が老年期に入ってから。
父は90歳で亡くなり、母はその3年後にやはり90歳で亡くなりました。すると叔父は「もう返し終わったから」と返済の終了を私たちに告げた。
そんなわけないだろと思ったけど、両親と叔父との約束なので、どういう内容だったのか分からない。全額返済じゃなかったのかも知れない。終わったと言われればそれを受けとめるしかなかった。
叔父は母にとって実の弟。家族だ。どんなことがあっても家族に対して味方だったのだと思う。そういう「負」を抱えた家族の例は結構聞く。「借金がつっかい棒」という人生を父と母はおくった。子どもを、孫を、家族を大事にして生きた。
そんな両親を、大河ドラマ史観を持った人は、雑魚キャラにもならない者の死としか思わないだろう。
私は山田さんに聞きました。
「山田さんが死んだあと『山田太一賞』なんて作られたらどうします?」と。
すると「そんなこと絶対に許さない」と山田さんは怒ります。
「でも、死んじゃったあとですよ。どうにもならないですよ」というと「絶対に許さない!」と益々怒られます。
これだけの業績を残したのです。雑魚キャラじゃない。そういう動きはあると思っているのですが、ご本人はまったく想定されていないようです。
ある高名な作家が
「自分が死んで、自分の名前が冠された賞が発生して、自分が見てもいない作品が受賞するなんて許せない。自分が読んで納得したのならともかく、そんな無責任なことは絶対出来ない。記念館も願い下げだ。黒澤明の記念館だって閉鎖したじゃないか、やめてくれ」
そう言って、生前からあった賞設立の動きを阻止した大作家もいらっしゃいます。
山田さんも、お気持ちはそのあたりでしょうか。
山田ファンの始まり(29)終「コロナ禍を生きる 終」に続く。
2021.11.13