八月三日(火)。
ある時ミーティングが四時五十分頃に終り、五時まではタイムカードを押すわけにはいかないのでフロアの椅子に腰掛けて時間潰しをしていた。
すると黒岩氏が話しかけて来た。
「どうですか、仕事なれられましたか?」と聞いて来る。
私は「まあ、少しはね。分からないことが分からないという段階から、やっと質問することが出て来たというところでしょうか」と自嘲気味に答え、利用者さんの名前やADL(日常生活動作能力)が十全に把握出来ていないこと、車椅子の方の衣服着脱が苦手などということを話した。
黒岩氏は「質問することが出て来たというのは大変な進歩ですねえ」とにこやかに言った。
私は「まあ、ホントにちょびっとってところですがまだまだです」と言い、やたらと怒りっぽいある車椅子の利用者さんの話をした。特に苦手だったのだ。
「あの人には申し訳ないけど嫌ですねえ。いつもあの人が入浴する度に担当にならなければいいなと思います。特に着脱はお気に召さないと怒鳴りますからねあの人、逃げたい気持ちで一杯です」と言ったら、黒岩氏も「私も未だになれません。まあ、悪い人じゃないんですけどね。本音を言うと私も『誰かやってくれ~』という気持ちです」と言い、二人で笑った。
そしてふと「仕事以外ではどうですか?」と黒岩氏は聞いて来た。「特に人間関係で」と更に聞いて来る。「ここの人たちはいろいろ個性があるから」と黒岩氏は苦笑気味に言う。
どういう意味なのかニュアンスが分からない。黒岩氏のここでの「逆風体験」から「ここの連中は、まったく」というニュアンスで言っているのか、それとも一般論としていろんな人々がいるから苦労があるでしょうという意味なのか分からなかった。
黒岩氏は私が女性非常勤職員から「つらい事があったらなんでも相談して下さいね」と言われていることなど知らない。私と同じ新人の「イケメン五十嵐氏」のように、女性非常勤職員にぞんざいに言われているのではという現実とは逆の想像をしている可能性は大きい。
五十嵐氏の問題は一言で言えないものがあるのだが、黒岩氏は黒岩氏で五十嵐氏の問題に彼なりのアドバイスをしていて、そのエピソードは彼の「センター内人間関係マップ」にある確信を与えていると思われる。
自分への「逆風」はあくまでも非常勤職員側の問題であり、自分の正しさに揺るぎはないという確信を与えていると思われる。
つまりそこで五十嵐氏の微妙な立場に自分が少なからず影響を与えているなどという想像はしていないのである。そして五十嵐氏も気付いてはいない。これは残酷だが滑稽な姿である。
黒岩氏の質問に私は一般論として答える術しかなく「いろんな人が居ますからね。私は様々な職場体験があるのでその辺は慣れっこです」と答えた。
黒岩氏は「そうですか」とにこやかに言い、少しだけ本当なのかなという表情をした。
黒岩氏のこの私への「配慮」は私へのためと言うより、他のベテラン非常勤に対する愚痴や悪口を私から聞いて、それを黒岩氏自身の立場の補強材料にでもしようとしているのだろうかと邪推した。
センター内の人間関係を壊している、諸悪の根源の如く言われる黒岩氏が人間関係のことを心配しているというのはこれまた皮肉だが、黒岩氏の心配はあながち間違いではないことが八月になって分かることになる。
五十嵐氏の何日か後に入った二十代の、同じく新人女性のタイムカードの八月分がなかったのである。正式発表はまだないが辞めてしまったらしい。
それを聞いたのはある非常勤女性からである。
またかというニュアンスで女性が言ったので私は驚いた。そういうことはよくあるらしい。
私は男性なので上司は黒岩氏一人だが、女性の場合はもっとたくさんの人数がいるので上司や先輩は一人ではなく、力関係が更に複雑らしい。
つまり私に「困ったことがあったら何でも言って下さいね」と言っている人たちの間にも様々な確執があり、新人はその洗礼を否応なく受けるらしい。そしてそのことに耐えられず辞める者は珍しくないという。
「寺尾さんはどうですか」などとその女性は黒岩氏のような質問をしたが、「でも男性は黒岩さんだけだからね」と単純でいいなあというニュアンスで言った。それ程に複雑であるらしい。すると黒岩氏はそのことを言っていたのではないかという疑念が湧いて来る。
まだ出勤はしていないがすでに三名の女性のタイムカードが増えており、近々新人が登場しその試練の中に入って来る。定着するのか脱落するのか、それによってまた人間関係マップは変動する。
まさしく人の職場は生きものである。
(16)片付けたいの に続く。