十月二十七日(月)。
「五十嵐さん」と改まった口調で大先輩の馬飼野さんは言った。
入浴介助が終り利用者もフロアに戻し浴室内の掃除を進めている時のことである。
「五十嵐さん、あなたに言っておかなくてはならないんだけど・・」と更に改まって馬飼野さんは言った。
その日馬飼野さんと五十嵐氏は運転手と添乗員というコンビで朝の送迎をやっていたこともあり、馬飼野さんは新人五十嵐氏を見ていて問題点を見つけたらしいのである。フロアに戻ったらそれを言う時間もなくなってしまう。今この時しかないと馬飼野さんは判断したらしい。
馬飼野さんは言った。
「五十嵐さん、まず指示には無条件に従っていただかないと困ります」
「はい」と五十嵐さんは神妙に答えた。
「私たちが指示を出す時は、ある局面では危険を回避する場合も多々あります」
「はい」
「私たちがあなたの名を呼び、これこれをやってくれと言う時は命の危険すらある場合があるわけです」
「はい」
「ですからすぐ指示に従っていただかないと困るんです。一瞬でも考えられると間に合わないんです。あなたを今朝から見ていてどうもそこが良くない。自分の判断をいれないで欲しいんです」
そう言われて五十嵐さんは少しムッとした表情になった。
まあ言ってみれば無条件に指示に従えということであるから言葉だけストレートに受けとると承服できないものもあるのであろう。
五十嵐氏は言われたことに思い当たることがあるらしく「それはあのことですか?」とある具体例を出した。
馬飼野さんは「あれもそうですけど、そうではなく全般的なことです」と言った。でも五十嵐氏は全般的なことではなく、「あのこと」に対する具体的反論を始めた。それは指示にはちゃんと従ったけど何故遅れたのかという理由である。
それを聞いて馬飼野さんは「ですからそれはあなたの考え方であって、とにかくすぐに従っていただかないと困ると言ってるんです。今やっていることを放り出してでもやってもらわないと間に合わないんです」と言った。
でも五十嵐氏は更に反論した。すると今度は別の具体例が出てくることになった。
将棋好きのご老人がいるのだが、バイタルチェックをやる前に将棋をさせてはならないから将棋板を利用者に渡さないように馬飼野さんは指示した。将棋をすると血圧があがり正しいチェックにならないという配慮である。
でも五十嵐氏はテーブルに出してしまった。
そのことを言及されると五十嵐氏は言った。
「渡したわけではないでしょう。利用者さんに『出して』と言われてしまったので将棋を始めやすいようにテーブルに出してあげただけです。それもちゃんと『血圧を測るまではしないで下さいね』と言いました」と。
馬飼野さんは「それがいけないんです。出すなと指示されたら出さないで欲しいんです。目の前に出したらどうしてもしてしまうでしょう。余計な判断を加えないで欲しいんです。そういうことが多すぎるんです」と言った。
五十嵐氏は承服できずまた少し意見の応酬があり、かなり煮詰まった感じにはなったのだが、長々と議論をしている時間はなく、とりあえず不和を残しその場は終った。
上意下達に無条件に従えないのは分かるし、五十嵐氏の柔軟な対応の何処に問題があるのかも線引きが難しいところである。
何度も書くが、この仕事は優先順位を常に考えていなくてはならないところがあり、利用者さんのふいの立ち上がりによる転倒などは早急に対応しなくてはならないトップ項目である。しかし職員によって微妙に優先順位が違っていることも事実なのである。
それは個々の職員の介護に対する考え方が作用しているせいと思え、様々な人がある志やキャリアを持って介護の世界に入ってきている中で、こだわりのポイントが違っているのである。
では一体五十嵐氏の介護とはどのようなこだわり、理想なのであろう。
五十嵐氏は一人ひとりによく対応するし、私などよりはるかに優しく接する。
ある人とは折り紙を、ある人とは将棋を、ある人とは絵を描いたり、その対応の密度は凄いものである。
しかし五十嵐氏は先輩女性に注意をされる。
「ひとりに対している時間が長すぎる。私たちはたくさんの人々を相手にしているのであって、一人だけを相手にしているわけではない」と。
五十嵐氏は腐った。
そんな言われ方をされるとは思っていなかったのである。
ひとり一人に密度をもって接するのが悪いことなのか、むしろそんな言い方の中にある「効率主義」こそ批判されるべきではないのか。五十嵐氏が黒岩氏にそのことの愚痴をこぼしていたのを私は目撃している。
黒岩氏は自分が批判されていることもあり、非常勤女性のいう事なんて一方的だから気にしないほうがいいよなどと慰め、馬飼野さんの忠告にも、そういう言い方が多いんだよあの人、聞き流すしかないよというアドバイスをしていた。
で、馬飼野さんの方からも私は聞いている。
忠告のあと五十嵐氏がフロアに戻ってから馬飼野さんは言った。
「黒岩さんに一番初めに言ったのもこのことなんです。今までどんなキャリアがあったのか知らないけど介護の現場では、一度自分の思い込みを捨ててもらわないと困るんです。危険なんです。基本は基本として覚えてもらわないと」
これでは確かに女性たちが言うように黒岩と五十嵐は仲間で、それを批判する馬飼野と女性職員の対立という単純な図式が完成してしまう。
さて、では黒岩氏と五十嵐氏は仲間なのであろうか?
これもまた微妙である。
というのも黒岩氏は五十嵐氏に対しても苛立っているのである。
例えば五十嵐氏の入浴介助時の仕事が遅いのである。
それはひとり一人の利用者さんに丁寧に対応するゆえに遅いとも言えるのだが、無駄に丁寧というか必要以上に時間をかけているという側面もあるのである。
それを黒岩氏は苛立っている。
「利用者さんにはゆっくりとお風呂に入ってもらいたいけど、それは介助がゆっくりという意味ではない」と斬り捨てる。
いつだったかこういうことがあった。
十名近い入浴者がいるのに五十嵐氏はその人々の入浴が終るまでの間、たった一人しか介助出来なかったのである。一人の脱衣を手伝い、風呂に誘導し、体を洗い、浴槽に誘導し、お湯からあがられた利用者を再び脱衣所に連れて行き、服を着せる。それが終った時には、他の十名近い入浴者の介助は終っていたのである。
勿論ADLのレベルによってとても時間のかかる人とそうではない人がいるので一概に早い遅いは言えないのだが、私などが三人四人介助する間にたった一人なのである。
これは明らかに異常なことと言え、その上五十嵐氏はそのことを自覚していなかった。これでは黒岩氏でなくとも苛立つだろう。
介助というものはやればいいというものではない。
やらないということも介助なのだ。例えば衣服の着脱。手を出さずに見守るという必要もあるのである。あるところまでは手を貸して、あとは時間が許す限り自分でやってもらい自立を促すことも必要なのである。
それが五十嵐氏には出来ない。
ひとりの人間と対応するとその人だけになってしまう。一から十まで面倒をみてしまう。
ここまで手を貸したら次の人に移り、他の人を介助しながら前の人は見守りだけということが出来ない。
ある時など湯上りの利用者の足の爪切りまで始めてしまい、それは足に固定の補助具を装着している人で、フロアに戻って再び補助具を外して爪を切るより今やったほうがいいじゃないかという判断だったらしいが、他にも利用者はおられ、尚且つ介助のあと風呂掃除だの洗濯だのが控えているのに、それはないだろうと馬飼野さんに注意をされた。
その時でも五十嵐氏は不満気だったのである。
この異常とも言える五十嵐氏の集中度は一体なんなのであろう。
フロアの中でもそういうことがよくある。
折り紙などの「工作モノ」を利用者と始める。するとそのことだけになってしまい、近くで利用者が立ち上がるという危険なことが発生しているのにまったく気付かない。慌てて遠くの職員が駆けつけて対応するのだが、そういうことが起きていることにも最後まで気付かない。しかも自分自身で折り紙や絵を描くことに熱中してしまい目の前の利用者すらそっちのけのこともある。
女性たちは批判する。
「自分が楽しんじゃってるんだよね」
ある時非常勤女性の大ベテランが、仕事終了時のミ-ティングで現在の新しい管理体制を批判した。大ベテランとはあの宮口精二の如き剣の達人である。
あ、この際だからこの方の名前は宮口さんとします(今頃なんだ!)。
宮口さんはその批判の中で「新人の方でもいくら注意をしても分からない人がいる。こんな職場では利用者さんが可哀想だ」と新人たちにも鉾先が行ったのである。もちろんどの新人とも言わないし、全体のこととしてのニュアンスを強くして宮口さんは言ったのであるが、五十嵐氏は「それは私のことではないかと思うんですけど」と言い始めた。
宮口さんと五十嵐氏はその日運転手と添乗員という送迎コンビだったのだが、馬飼野さんの時と同じく何かあったらしい。宮口さんは「いえ、あなたのことを言っているわけではないんだけど」と対立を避けようとしたが、五十嵐氏は反論を始めた。
それはこういうことである。
帰りの時間が来て利用者さんを車に乗せてあげている時のことである。
五十嵐氏はある方を運転助手席に乗せたあと、シートベルトをつけない状態で次の利用者を後部座席に座らせようとしていた。
それを見た宮口さんは五十嵐氏に注意をした。何故ちゃんとシートベルトをつけるところまでやって次の人に移らないのか、運転助手席はただでも一般座席より高い位置にあり、転落の危険性があるじゃないかと。
その時のことだろうと五十嵐氏は言っているのである。
「いえ、そのことはそのこととして私はもっと一般的な傾向を言ってるんです」と宮口さんは言ったが五十嵐氏は反論した。
五十嵐氏の言い分はこうである。
利用者さんの車への誘導は職員がひとりずつ連れていくことになっているのだが、その状態であれば五十嵐氏もそうしただろう、ところがその時五十嵐氏の後ろにもう一人ついて来てしまっていたのである。
二人の人間に同時に対応することは出来ない。
そこで仕方なくああいう対応になったと五十嵐氏は主張した。
助手席に乗せた方はある程度足腰のしっかりした方でADLも確かな方だったから、シートベルトをかけない状態でもひととき大丈夫だと判断したという。
しかしもう一人はそうではなかったので、とりあえず助手席の方は放っておいてそちらの方を重点的に対応した。ADLを考えた結果そういう対応をしたと主張。
五十嵐氏は「それとももう一回利用者さん二人を出入り口の椅子まで連れ帰り、セオリー通り一人ずつ連れて行けばよかったのですか、それこそ危険じゃありませんか、一人で二人を誘導することになるんですよ」と言い、咄嗟のこととはいえ自分が如何に思慮を重ねた上でそのような行動をとったのかということを力説し語気を荒げた。
宮口さんはその言葉を「あなたは自己弁護をしているだけじゃないですか」と一言で斬り捨てた。常勤職員が慌てて険悪さを和らげようと、不測の事態には完璧な対応は有り得ないし、批判はあるだろうけど仕方ないじゃないかととりなした。
宮口さんはその常勤職員に噛み付いた。そもそもどうしてそういう事が起きるのかと言っているのだと。基本がなっていないからだと。いい加減な管理と新人教育体制で利用者さんを危険な状態にさらしているじゃないかと宮口さんは言った。
しかし常勤職員は元々ベテラン非常勤職員を煙たがっていることもあり「まあまあ」という対応を示し、その場の扱いはまるで宮口さんのヒステリーというニュアンスとなった。
宮口さんも「もう何を言っても同じね」と捨て台詞を吐いてそっぽを向いてしまい議題は別のところに移った。
私はその時具体的な事情がよく呑み込めなかったので一切喋らなかったが、確かに不測の事態を招いた最初の過ちは、ひとりずつ連れて行くことになっているのに、後ろにもうひとりついて来た事にある。
常に回りに注意をする。ひとり一人を的確に誘導するという基本をまっとうしていれば早期にそのことに気付いていた筈である。宮口さんはそのことを言っているのに、その後に発生した不測時の対応を如何にするかという問題にすりかわってしまった。
宮口さんも無念であろう。
しかし何よりも問題なのは五十嵐氏にまったくそのことの反省がないということである。
まずその基本をまっとう出来なかった事を詫びてから反論するならともかく、不測の事態に対する自分の判断を自慢とも思える口調で語り、自分は精一杯やっている、一点の曇りもないと主張する姿をどう捉えればいいのか。
彼はひとり一人に丁寧に対応するために、周りを見ろと言ってもひとりの人間と向き合うとそれだけになってしまう。それは愛情の深さとも言えるのだが、たくさんの利用者の中でのひとりと対しているのだという視角の広さが残念ながらない。全体を見ることに限界がある。それが危険さを招いている。
これは訓練不足のせいなのか?訓練すれば獲得出来るのか?
どうも私が思うに無理なのではないかと思い始めている。
五十嵐氏はまるでひとり一人の恋人になろうとでもしているかのごとく接するが、それは彼の「心の闇」が作用しているのではないかと思えるためである。
五十嵐氏は「人間に対する距離」が近すぎる。
彼が如何なる理由によって介護の世界に入って来たのかを私は知らないが、彼の異常なほどの人間に対する近さは逆に「愛されたい」という渇望に思える。確かな繋がりを得たいという無意識の熱望があるように思える。
そして自分を批判された時に異様なほど細かく反論するあのプライドの高さは明らかに自己愛の大きさを物語り、それは任意の他者にも向かっているはずである。
全体の中のひとりではなく「オンリーワン」の関係を至上とするかのような姿勢は介護と言えるのか。
私は彼を批判する根拠をたくさん持っている。ケアセンターの介護はひとりでなせるものではなくチームワークである。だから様々な不都合が発生している。
黒岩氏どころではなく私もイライラし通しである。
しかしストレートに批判するのは避けている。何故なら彼のようなタイプが間違いなくストーカーのような行為をする病的なタイプに思えるからである。迂闊にプライドを傷つけるのは危険である。
人間に対する見当違いの距離の近さ、それを「愛」と思い込んでいる人はごまんといる。彼もそのひとりだと思える。恨みを買うというはっきりとした覚悟がなければ、そして彼の心の核心を打ち砕き、再生させるという覚悟がなければ批判や忠告は出来ないと思っている。
先日五十嵐氏と送迎のコンビを組んだ。二回目である。
前回は私が運転で彼が添乗だったのだが、五十嵐氏は少しプライドが傷ついたようだった。五十嵐氏は運転と添乗というと、添乗という役回りを一段低くみているらしく「こんな組み合わせもう二度とないでしょうね」などという発言をした。私は発言の趣旨がその時飲み込めなかったが、後でプライドなんだなあと思った。
しかし今回は五十嵐氏が運転、私が添乗という役回りである。ホッとした。
夕刻の送迎が終りセンターに帰る途中二人だけになったので雑談となり、五十嵐氏は今度飲みに行きましょうよなどといい、私もそうだねと気軽に応えた。
そいう話をしながら私は運転席のあることが気になっていた。
運転席のハンドル脇にその日の「送迎表」という小さなメモが貼り付けてあるのだが、それがいつまでも貼ってあることが気になっていたのである。
「送迎表」とは利用者を送り届ける順番と座席位置を示したものである。順番は利用者の住所に沿って組まれており、独居老人のお宅では迎えのヘルパーの都合で何時まで到着、あるいは何時以後でなくてはならないといった細かい指示が書いてある。大切なメモである。
しかしそれはその日限りのもので送迎が終ると無用のものとなり運転手が破棄するのだが、五十嵐氏はよく貼ったままにしていることが多いのである。「送迎表」には運転手と添乗員の名前が書かれており、誰が外し忘れたかということがすぐ分かる。
だから翌日に乗車した運転手が気付き、それを取り除きその日の「送迎表」を貼ることとなりひと手間増えることとなる。私だけでも四五回そういうことにあったので、また忘れるんじゃないかと気になっていた。
いよいよセンターまであと少しというところで私は明るさを装って言った。
「それ、もう外しておいたほうがいいんじゃない。また忘れちゃうよ。五十嵐さんのメモよく貼り付けたままだよ」と。
すると五十嵐氏は「え~~。それは有り得ないなあ」と笑い「それ、私が添乗の時のやつでしょう。私は絶対忘れませんよ」と更に笑った。
「ううん、五十嵐さんが運転手の時のやつだよ。一回二回じゃなくてもう四五回あるよ」と私が言うと五十嵐氏は「絶対そんなことありませんよ」とまた笑った。
そして忘れない理由を言った。
以前とり忘れたことがあり、先輩に前日のメモが貼ってあると次に乗車する者が混乱するからと注意をされ、それ以来毎回事務所に返却する運転日報のファイルにメモを貼り付けて戻しているのだと言った。
そうしないと気持ちが悪いのだとも言い、それだけ気をつけているのだから絶対あり得ませんと五十嵐氏は笑った。
私は呆れた。
いくら心がけているにせよ、それが達成されていないのではという疑いをなぜ持たないのかと思った。もう何回忘れているんだ、一回や二回じゃないから言ってるんだぞと思った。
メモのとり忘れを見る度に、大した手間ではないが「やる事に一々完成度のないヤツだな」と苛立っている私にしてみれば、そこまで能天気な自信を見せられて二の句が出ない状態になった。でも私は「そうか添乗の時のものかも知れませんねえ」とごまかして笑うしかなかったのである。
彼は自分を信じている。ある範囲の中で人を愛している。好青年と言ってよいだろう。
しかし介護者としては人格的に危険だという思いが拭えない。
様々な問題を孕みながら、それでも彼はキャリアをつけていっている。このまま行けば、いつのまにか彼は職場の大先輩になってしまうのである。事実後輩は続々と入って来ており、彼は私同様中堅どころになりつつあるのである。新人は私だけではなく当然五十嵐氏にも教えを乞うて相談している。
彼はどんなことを教えているのか。かなり暗澹たる気持ちに私は成らざるを得ない。
「わしも介護をやってみた!」(24) 五十嵐氏との関係。