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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

山田ファンの始まり(26)飛ぶ夢をしばらく見ない

 

「山田ファンの始まり(26飛ぶ夢をしばらく見ない

 

 

 

 

 

2016925 新宿朝日カルチャーセンターで、山田さんは「ドラマでふり返る昭和」という講演を行います。

ひょっとすると行かれた方もたくさんいらっしゃるかも知れません。もちろん私も行きました。

 

新宿朝日カルチャーセンターは、私にとっても山田さんにとっても思い出の場所でした。

1973年に「朝日カルチャーセンター新宿教室『シナリオ講座』」の講師を山田さんは引き受けられました。

シナリオを教えるということ自体が珍しかった頃です。多分、初だったのでは。

 

その授業に1日だけ私は招待されました。当時「カリメロ」を書くことになっていた私に、山田さんは具体的な原稿の書き方を教えようと、そのレクチャーの回だけ呼ばれたのです。そういう思い出がありました。

山田さんもまた、講演の中でその時の思い出を語られました。

 

 

講演会の後、私は山田さんに一言ご挨拶をしようと、帰る人でごったがえすフロアで山田さんが出て来るのを待っていました。

するとスタッフの方が「○○さんいらっしゃいますか?」と私を呼びました。

私が手をあげると「先生が待っていてほしいとおっしゃってます。別室にご案内します」と言います。

私は同行していたドラマファンの方々とお茶を飲む予定だったのですが、皆さんが「じゃあ、あいどんさんと山田さん、二人っきりがいいよね」と気を使われ、先に帰ることになりました。

 

別室で山田さんと私は、久しぶりに対面しました。

あのシナリオ講座の日から、40年以上の歳月が流れた懐かしさ、お互いの家族の近況、もうすぐ放送される「五年目のひとり」のことなど、ぺちゃぺちゃ喋りました。どこかでお茶をのみましょうかと言いましたが、山田さんは外出するだけでもかなりお疲れのようで、まして講演会の後です、無理に誘うのはやめました。

 

それで新宿の駅まで二人で歩きました。

歩きながら、歩いている道が映画「飛ぶ夢をしばらく見ない」のラストシーンの道ということに気づきました。高層ビルの谷間のような道で、上を立体交差した道路が複数通っていて、その陰になった道です。

幼女になったヒロインが群衆にまぎれて行く後ろ姿を、長々とロングショットでとらえた、あのラスト。

 

私は、ここ、映画「飛ぶ夢をしばらく見ない」の、ラストシーンの道ですよねと言いました。

すると山田さんは、うん、ああなっちゃうんだよね、と不満げにおっしゃいました。どうしてなんだろう?とも。

 

まあ、原作者としては気に入らないよなあと改めて思いました。

小説と違って、映画的表現上であきらめるところはあきらめた映画として結構よく出来ているなんて私は思っていたのだけど、それは他人事だから言えることで、原作者としてはそういうわけにはいかないよなあと思いました。

映画表現なら映画表現で、自分だったらこうするという気持ちが強く湧いていただろうと思います。

 

幼女が消えていく道路を過ぎて、山田さんは書店に寄って行くからとビルの一角に向かわれました。私はまっすぐ新宿駅に向かうつもりだったので、ではここでと挨拶しました。山田さんは別れしなに「娘さん頑張ってる?」と聞かれました。

○○社の新人賞を受賞して漫画を描いている長女のことです。

賞なんてとったって順風満帆とはいかず、直しばかりやっている娘の心配をされているのです。私は、「毎回、直しで、ひいひい言ってます」と答えました。

山田さんは「頑張ってって言っといて」と笑顔で手を振られました。

「ありがとうございます」と私は頭を下げました。

 

そうやって別れました。

その頃私は、何故か、山田さんと別れの挨拶をするたびに、これが最後になるのではないかという予感の中におり、この時もその予感が強くしました。

そして、これが「健康な山田さん」との最後の別れとなりました。

 

「飛ぶ夢をしばらく見ない」で消えていった幼女と、笑顔でビルの中に入って行った山田さんと、何故か重なってしまう自分がいました。

 

 

20171月山田さんは脳出血で倒れられました。

当初、そのことを私は知りませんでした。

 

「五年目のひとり」のオンエア後、「ドラマ・ファン」上でのみんなの感想をプリントアウトして送ったのですが返事が来ません。いつも即座に手紙が返ってくるのに何故か来ません。忙しいのかなと思いました。

 

しばらくして、朝日新聞に投稿した私の文書が、関東版にも西日本版にも掲載されることがあり、どんな感想がもらえるかと送りました。

しかし返事は来ません。

 

そして更に、初めて絵本のストーリーを書き上げたので、送りました。でも返事は来ません。

これは何かあったと、さすがに鈍い私も思いました。

 

そして返事が来たのは7月6日でした。倒れて半年後です。

その日私は早稲田大学で開催中の「山田太一展」に行っていました。一回見ていたのですが、私はもう二度と見ることが出来ないのではないかという得体の知れない恐怖感にとらえられ見にいったのです。そして帰って来たら手紙が届いていました。

ペラ4枚に及ぶ手紙でした。

 

見て驚きました。いつもの山田さんの字ではありませんでした。

凜とした、思い切りのいい躍動感のある文字だったのに、そこにあるのは凜としたものはひとかけらもなく、俗にかなくぎ流という言葉がありますが、まさにそんな文字で、判読するのに難渋する文字でした。

それでもなんとか読み解くと、返事が遅くなって申し訳ない、1月に脳出血で倒れ病院にいるとあり、何回か転院しリハビリ中と書いてありました。やっと手紙が書けるところまで復帰したと書いてありました。

私は「遂に」という気持ちになりました。

 

 

 

 

 

山田ファンの始まり(27)長生きをするということ」に続く。

2021.11.13
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山田ファンの始まり(27)長生きをするということ

 

 

「山田ファンの始まり(27長生きをするということ

 

 

 

 

 

私はためらいました。

もう手紙なんて書けない。

山田さんの手紙の文字が、書くのに如何に大変だったかということを物語っていました。返事を要求するようなことは出来ないと思いました。リハビリに専念して欲しい。

 

かと言って直接会いにいけるかといったら、とても無理と思いました。どんな状態なのか想像するだけで胸が苦しくなりました。ご家族が懸命の看病をしていらっしゃるだろう、それを邪魔するようなことをしてはならないと思いました。

そして山田さんもリハビリ中の自分を見られたくないのではないかと思いました。

 

もともと、こういうXデイに関してはある決心をしていました。そうなったらもう会うことは出来ないだろうと思っていました。

長い歳月私と付き合っていただきましたが、あくまで付き合っていただいたという気持ちが私には強かった。はるか昔、得体の知れない若者と出会い、なんだか縁が続き、たまたま今日まで付き合いが続いているということに過ぎず、山田さんがこういう付き合いを強く望んでいたわけではないだろうと思っていました。

 

そもそも人間関係とは、当たり前ですが、相手があってのことです。

山田さんは私を相手にした時、私のわかる範囲、私の関心がある世界に対して言葉を出しておられたと思います。私もまた山田さんが見せてくれる範囲でしか言葉が出せなかった。

 

ある時、大変珍しいことですが客が重なり、山田さんのご親戚なのか若い男性と一緒にリビングで話をしたことがありました。

その時私は山田さんと若い男性の会話に入って行けませんでした。

二人はイギリスの小さな町の路地裏にあるレストランの話をされていました。まだ海外旅行が一般化されてなかった頃です。海外ツアーなんてなかった頃に、お二人は、そんなコアな路地の話をされていたのです。しかもそれはマウントをとるような、貧乏人の姑息な話し方ではなく、老舗を見つけた喜びを素直に溢れさせて語っておられたのです。分かる分かるという共感を結んでおられたのです。

 

私は階級差というものを感じました。生活のレベルが違う。山田さんはそういうことを言わないし、ひけらかす人ではないから気づかないけど、山田さんは上流階級の人なのだと思いました。山田さんの交際範囲の広さを思って私は震え上がりました。必然的に私は付き合ってもらっているのだと思うしかありませんでした。

 

あの「ぼくたちはゴミのような存在だ」と言われた時から、山田さんは想像力の翼をどんどん広げられ、日本に、世界に波動を発する人間になられました。

それに呼応した才能ある方からたくさんの賛辞がよせられていました。山田さんと語りあいたい人はたくさんいて、当然相手は私ではないと思っていました。奇縁の中で私は、今も山田さんの友人でしたが、それはまさに奇縁だと思っていました。

 

しかも、あくまでも私と山田さんとの間のことです。ご家族とはまた別個です。山田さんとは奇縁があるけど、ご家族とはそんなものはないと思いました。お子さんが小さかった頃は、ちょっと変わったお兄ちゃんって感じで交流がありましたが、成人されてからはまったく交流はありません。奥様とも必要以上の交流はなかった。

山田さんが倒れられ、ご家族の庇護下に置かれた以上、そんな遠慮もあって、私は簡単に会いに行くわけにはいかないと思いました。

 

 

その頃山田さんの本の企画があって、編集の方と会う機会がありました。

編集の方々は定期的に山田さんを取材されていて、そこから山田さんの状態が漏れ伝わって来ました。

脳出血ですから、片麻痺とかになっておられるのではないかとか心配しましたが、そういうことはなさそうでした。

 

編集の方はご家族とも連絡を取っておられ、そんな中から、山田さんが私と会いたがっているという話がご家族から伝えられました。驚きました。何故?と思いました。

山田さんにはたくさんの人からオファーがあるはずでした。長年付き合ったテレビマンもおられるはずです。

 

 

戸惑いながらも、2018年4月15日私は山田さんとお会いしました。

お体が一回り小さくなっておられましたが、にこやかでお元気でした。

私は10年ほど前から、介護福祉士としてたくさんのこういう方に会って来ましたが、その経験から言っても、ひどい後遺症はないと思えました。歩行も出来ましたし、発語も、聞き取れない部分もありましたが、まずまずと言えました。

 

お互いの家族のことなどを語りあいました。ドラマのこと、映画のことなどを語りあいました。ああ、こういうことはご家族では、話せないよなあと思うことも話しました。

 

話して分かりましたが、山田さんにはもうお友達がいないのだということでした。みんな亡くなっておられる。田向正建さんが生きておられたら、私の出番はなかったはずです。木下恵介さんが生きていらっしゃれば、また、局面は変わったはずです。

一緒にドラマを作って来たスタッフもみんな鬼籍に入っておられる。「太一ちゃん」と呼ぶ人は一人もいない。

長生きするとはそういうことです。

私はかろうじて、山田さんが歩いてきた創作の世界を、共感を交えて語りあうことが出来る数少ない人間だったのです。

 

山田さんにはたくさんの手紙や本が送られてきていました。

再演したいという舞台の話も来ていました。それに返事を書きたいのだけど、文章を思いつくことができても、何故か手の方が動きません。あのかなくぎ流の文字すら簡単には書けないのです。あれだけ筆まめに返事を書いておられた方です。辛いだろうと思いました。私にペラ4枚もの手紙がよく書けたなと改めて思いました。

 

私は口述筆記をすることにしました。

パソコンで起こして、プリントアウトしてサインだけすればいいのです。

山田さんはあくまでも自分で書きたいという気持ちにこだわられましたが、難しいと思いました。断念していただく以外ありませんでした。

そうやって病後の山田さんとの付き合いが始まりました。

 

 

 

 

 

 

山田ファンの始まり(28)山田太一賞」に続く。

 

2021.11.13

山田ファンの始まり(28)山田太一賞

「山田ファンの始まり(28山田太一賞

 

 

 

 

山田さんは私が訪問すると、すぐ散歩に行こうと言われます。

倒れてからというもの、一人で散歩することが許されなくなっている山田さんです。安全優先で、うっかり転倒などして大腿骨折なんかしたら大変。ヘルパーや私が来た時だけしか散歩は許されていません。

 

散歩中はいろんな話をされます。

でも私は、山田さんが転倒しないように必死の警戒をしており、よく話が呑み込めないのに、頷いています。すみません。

その頃、丁度タピオカブームで、つい調子に乗って駅前まで行ったら、新しいタピオカ店が出来ていました。

山田さんは当然ご存知なくて、タピオカのキラキラしたポップの前で、結構丁寧に説明をしました。すると山田さん、突然ポケットに手を突っ込み小さな財布を出すと、中に入ろうとされます。

私が飲みたがっていると思われたらしい。

慌てて「買いませんよ!凄く甘いんだから!」と言いました。すると山田さん、なんだ、という顔をされて財布をしまわれました。

なんという瞬発力。行動力。凄いなと思いました。

散歩中はそういうエネルギーに溢れておられ、本当は一人で気ままに散歩したいんだろうなと思います。

 

 

雑談になると「いつ死ぬんだろうね」なんて話をペロっとします。

山田さんと私は、どちらが先に死んでもおかしくない老人です。まさかあの出会った日に、こんな日がくるとは思いませんでした。

不思議ですが、会うと、二人ともあの頃の年齢に戻ります。戻ったままで、いつ死ぬんだろうなんて年寄りの会話をしているのです。笑ってしまいます。

 

私も山田さんも戦争のない平和な時代を生きることが出来ました。まあ、山田さんは小さい頃戦争があったけど、終戦後は平和を生きました。私は文字通り「戦争を知らない子供たち」を生き、そのまま年寄りになりました。貴重なことだと思います。

でも平和だと言っても、当然ですが平穏ではない。

 

「藍より青く」(NHK)で大学生の息子(周太郎)が、いい大学、いい会社に行くというコースに悩み大学をやめようとするところがあります。

母親真紀はこう言います。

「周太郎。お母さんもね、この頃そんなことを言う人がいるのを知ってる。新聞なんかでも読むことがある。サラリーマンは見当がついているとか。エスカレーターだとか。

でも、そんなこと決してないのよ。勤めてみればそんな簡単なもんじゃないことは、よくわかるはずよ。

あなたは官庁へ勤めることが、見当のついた人生だと言ったけど、そんなことはない。その中で生きてみれば、そりゃあ、努力もいるし、運もいるし、やりがいももちろんあるのよ。ひと口に、毎日通って五十五で定年と言えば、わかってしまった人生のように思えるかもしれん。

でも、そんなことを言えば、人間の人生なんて、誰てちゃ見当がついとる。生れて、年をとって、死ぬだけたい。だからて、見当がついたから、生きとるのをやめようと何人の人が思うかしら?見当などつかないのよ。見当がついたと思うのは、お母さん、とんでもない思い上がりだと思う」

 

理不尽な虐殺があるわけでもなく、極端な生死の問題があるわけでもない平和な時代。紛争のある国に比べれば、なまくらな人生を生きていると思われがちですが、そんなことはなく、細かなたくさんの「平和の問題」があるということです。平和とは結果的に平和が維持されたということに過ぎず、いつ戦争に針が振れるかという危機感の中での平和だったのですから。

 

 

山田さんは「藍より青く」(NHK)を書き始めたとき、モチーフを私にこう言われました。

「戦争というものを天災として受け止めた人々を描きたい」

 

戦争が何故起こるのか?何故軍国主義になったのか?という問題ではなく、まるで台風や地震のように、降りかかってきたものとして、大衆が懸命に対応した世界を描くという意味と私は解釈しました。

 

私の父や母にとっても戦争は天災扱いだったと思います。

いえそれだけではなく、60年安保も、70年安保も、バブルも、降りかかった出来事で、本人たちはひたすら真面目に働くだけの人生だったと思います。それでいいのかという問題は当然あるわけですが、そういう対応で、その中心にあったのは、私たち家族で、家族を守るために真面目に働くことしか考えていなかったと思います。

 

叔父に理不尽な借金をさせられても、真面目に働くしか方法を持っていなくて、その後も叔父と親戚付き合いは続けていた。叔父の一発当てたいという欲望は続いていて返済すらしなかったのに。

 

叔父が父母にやっと返済をし始めたのは、もう叔父が老年期に入ってから。

父は90歳で亡くなり、母はその3年後にやはり90歳で亡くなりました。すると叔父は「もう返し終わったから」と返済の終了を私たちに告げた。

そんなわけないだろと思ったけど、両親と叔父との約束なので、どういう内容だったのか分からない。全額返済じゃなかったのかも知れない。終わったと言われればそれを受けとめるしかなかった。

叔父は母にとって実の弟。家族だ。どんなことがあっても家族に対して味方だったのだと思う。そういう「負」を抱えた家族の例は結構聞く。「借金がつっかい棒」という人生を父と母はおくった。子どもを、孫を、家族を大事にして生きた。

そんな両親を、大河ドラマ史観を持った人は、雑魚キャラにもならない者の死としか思わないだろう。

 

私は山田さんに聞きました。

「山田さんが死んだあと『山田太一賞』なんて作られたらどうします?」と。

すると「そんなこと絶対に許さない」と山田さんは怒ります。

「でも、死んじゃったあとですよ。どうにもならないですよ」というと「絶対に許さない!」と益々怒られます。

これだけの業績を残したのです。雑魚キャラじゃない。そういう動きはあると思っているのですが、ご本人はまったく想定されていないようです。

 

ある高名な作家が
「自分が死んで、自分の名前が冠された賞が発生して、自分が見てもいない作品が受賞するなんて許せない。自分が読んで納得したのならともかく、そんな無責任なことは絶対出来ない。記念館も願い下げだ。黒澤明の記念館だって閉鎖したじゃないか、やめてくれ」

そう言って、生前からあった賞設立の動きを阻止した大作家もいらっしゃいます。




山田さんも、お気持ちはそのあたりでしょうか。

 

 

 

 

山田ファンの始まり(29)終コロナ禍を生きる 終」に続く。

2021.11.13

山田ファンの始まり(29)コロナ禍を生きる 終

「山田ファンの始まり(29コロナ禍を生きる 終」

 

 

 

 

 

1972年に「刑事コロンボ」が初めてNHKで放送された時のことを、覚えておられるでしょうか?

日本の推理ドラマが犯人探しばっかりやっていた時に、倒叙法というスタイルを取り入れて、犯人探しじゃないミステリーの魅力を一般の視聴者に提供しました。

一部のミステリーファンしか知らなかった世界を、見事なエンタメとして展開し、コロンボのむさくるしいキャラクターも相まってマスコミの話題となりました。今でも繰り返し放送されるミステリードラマの金字塔です。

 

その話題真っ盛りの時に、私はたまたま山田宅を訪ねることがあり、開口一番「コロンボ見ましたか?」と山田さんに聞きました。

すると山田さんはこう言いました。

「やな奴だねぇ、あいつ」

え?何を言ってるんだ?と思いました。

「あいつは、最初っから分かってて、ああいうこと言ってるんだよね。やな奴」と山田さんは言うのです。

倒叙法の話でもなく、日本のTVドラマ界に衝撃を与えた話でもなく、そう言うのです。

驚きました。コロンボの話をして、そんなことを言った人はこの人だけです。いえそれだけの話ですが、発想というか感受性が独特で面白い(でも「古畑任三郎」という形でオマージュが捧げられた時は、やな奴だねえ、こいつと思いました、笑)。

 

 

それから「ゴミ」の話をした頃ですが、幽霊の話をしていました。

私は「幽霊がいるってことは、死んだ後も『意識』が残るということですよね」と言いました。

すると山田さんは「嫌だねえ、たくさんだよ」と言いました。

私は「ですよねえ」と言いました。

山田さんにも厭世的な傾向があるのかと安心しました。まあ、これは私に合わせて喋っていただいていたという側面もあるので、どこまで本音かわかりません。

その後、ある時期から山田作品には心霊現象が現れ、合理主義ではとらえられない世界を描くようになります。山田さんのポジションは何処なのだろうと思います。

 

最近ですが「チコちゃんに叱られる」が話題になった時も「見てますか?」と聞いたら、山田さんは「見ていたけど、もう見ないことにしたんだ」と言われます。

「え?なんでですか?」と聞くと「あれは断定できないことを、さもそうであるかの如く言ってるわけだよね」と言われます。

「まあ、諸説あるなかのひとつでしょうが」と言うと「だからぼくはもう見ないことにしたんだ」と言われます。

「そんなぁ、面白いじゃないですか」と言っても、取り合ってもらえません。頑固。そんなところもある。

 

長いつきあいですが、やっぱりいつまでたっても山田さんという人は分かりません。意外なことがひょっこり出てきます。

 

 

「週刊テレビ番組」1986523日号に「脚本家の横顔 山田太一」という特集がありこんなインタビューがあります。

 

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「脚本家としての手応えを感じた最初の作品は、『パンとあこがれ』(TBS系)だった。

NHKのテレビ小説がありましたから、こちら(『パンとあこがれ』)は誰も見てないだろうって、随分好きなことを自由に書きましたよ」

途中から視聴率も上がってきたが、ある時、学生が台本を全部欲しいと自宅に訪ねてきた。さらにもう一人。

「『3人家族』のほうが視聴率は高かったんですが、そんなことは一度もありませんでした。一種の感動を覚えましたね」

あとから山田宅を訪ねてきた学生とはその後も交際が続き、仲人までしたという。

 

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これが山田さん側から語られた私との出会いです。

この出会いはいろんなメディアで語られていて、私の知らないものもたくさんあるようです。山田さんにとってエポックとなる出来事だったことが分かります。視聴率にとどまらない、ドラマの価値を感じさせる出来事だったのです。

言ってみれば、初めて現れた生身の山田ファンとの出会いだったのだと思います。

 

それから幾星霜。たくさんの山田ファンが発生しました。

冒頭で山田ファンは減ってきているのではないかと書きましたが、それは分かりません。

山田ファンは群れることがありませんから、全体がつかめません。

それぞれ、一人ひとりが一国一城の主です。

 

ちなみに、山田さんをたずねてきたもう一人の若者とはどんな人だったのか、山田さんご自身が消息をご存知なく分かりませんでした。

しかしごく最近ですが、「ドラマ・ファン」掲示板に偶然その方が訪れてくれました。その方も「ドラマ・ファン」がそういう掲示板とはご存知なく、本当に偶然に訪れられました。

 

その方と掲示板上で話していると、やけに「パンとあこがれ」に詳しいので、ひょっとしたらと思ってたずねてみたら、その方だったのです。二人とも驚きました。他の山田ファンも、もう一人の若者ってどんな人だったんだろうと言っていましたから、みんな驚きました。

何十年も昔に山田宅でニアミスした二人は、意外な巡り合いを果たしたのです。

 

そのことを山田さんに伝えると喜んでくれました。不思議なことがあるものです。

 

現在山田さんと具体的に会っている「山田ファン」は私一人だけということになります。後はご家族と編集者だけ。

でも、このコロナ禍で、そんな付き合いも出来なくなりました。

ヘルパーもおそらく呼べないでしょうから、散歩も出来ずにおられるのではと思います。

出版の話も進んでいないようです。

 

いろいろ難儀です。

「山田ファンの始まり」まだまだ書きたいことはありますが、ひとまず筆を置きます。長いこと読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

―終―

                                                                                                        2021.11.13