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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

「不思議な世界」&舞台版「日本の面影」

 

アンソロジー「不思議な世界」山田太一編 筑摩書房


          

目に見えていること、体験していることは自明と多くの人が思っているわけですが、それが自明ではないということを、ずっと山田さんは言っていると思います。

現実をどうとらえるか。現実だと思っているものの正体。それが大きな問題です。

「冬の蜃気楼」では共通体験と思っていたものがそうではないという世界が描かれました。体験というもの、人の記憶というものの曖昧さ、そういうものが「彌太郎さんの話」でも出て来たような記憶があります。

 

 

このアンソロジーでは、最初は著名人の個人的な不思議エピソ-ドを取り上げて行きますが、後半になるにつれて、その不思議な体験を総括する全体論が増えていきます。個を超えた世界とは?という話になって行きます。

 

 

 

 

 

 

   

舞台版「日本の面影」

 

この話もまた個を超えた世界に対するアプローチです。

 

日本の近代、合理主義、科学万能主義、それらのものの功罪を説いて行きますが、それは個というものにとらわれ過ぎでは?という視点です。

 

劇中で、ハーンがこういうことを言います。

 

「科学ダノ理性ダノ言ウテ、ナンデモ、知ッテオル気、デス」

 

「アノ者タチハ、ナンモ知リマセン。ナンモ知ランクセニ、ナンデモ知ッチョウ気デ、自分ヲ主張シマス。自分を大事ニシマス。ケレド、自分ナドトイウモノガ、ソゲン大事デスカ?人トチガウコトガ、ドウシテ自慢デスカ?」

 

「自分ナドトイウモノハ、取ルニ足ラヌモノデス。大キナ、日本ノ心、昔々カラ川ノヨウニ流レテイマス。ギリシャノ心モ流レテイマス。アイルランドノ心モ流レテイマス。一人一人ハ、ソノ大キナ心ヲ、チョットノ間映シテ消エル、小サナ鏡デス」

 

「死ンダ人ノ身体、ナクナリマス。心、ナクナリマセン」

 

「心ハ生キトル人ノ心ノ中ニアリマス。ナケレバナリマセン。昔々カラノ心、残ッテ大キナ川トナッテ、コノ大気ノ中、流レテイマス。私タチ、ソコカラノ心、貰ウテ、オノレノ心ツクルノデス。西田サン、亡クナッテモ、心、流レテイマス。母上ノチエ殿亡クナラレテモ、ソノ心、流レテイマス。ソノ心、私、貰イマス。オノレヒトリデ心ツクルコト出来マセン。自分、自分言ウトル人は、コノ大キナ川ニ気ガツキマセン。自分ヒトリデ、心ツクッタ気デイマス。ソレ、ノーデス」

 

 

こういう主旨は「不思議な世界」の「宇宙人への進化」(立花隆)にも出てきますし、手塚治虫の漫画「火の鳥」にも出てきます。手塚の場合は人間だけではなく動物も含めてあらゆる生命が一つの流れの中に収れんしていくと説いています。

大きな流れの中にいる個は、大きな心をちょっとの間映して消える小さな鏡に過ぎないという考え方。

 

いつまでたっても個の殻から出られない私としては、そういう世界を、つかまえることが出来た人はいるところにはいるんだなと思います。

山田さんはどうなのかと思いますが、山田さんは溢れんばかりのシンパシーを感じつつも、ほんの少し合理主義寄りかなと思っています。

 

でも「パンとあこがれ」の最終回では、主人公相馬綾がこういうことを言っています。

 

「どうして人の命が一人のものだと言えるだろう。兄の声、母の働く姿、そのひとつひとつが私の生きる支えになっていないとどうして言えるだろう。そしてとりわけあの機の音。あの機の音が私の生きる支えになっていないとどうして言えるだろう。そのすべてのことが今の私を作った。自分はひとりぽっちだとか、自分は人にとっていないも同然だとかいう考えを私は憎みます」

 

個というものは関係性の中で立ち上がって来るもので、他者なくしては自分もないという局面もあるわけで、漠然と個というものがあるわけではない。これは「不思議な世界」でなくとも言える話ではないかと思います。

自分というものがどう成り立っているのか。

 

いろいろ示唆の多い作品です。

 

 

 

「日本の面影」は、もともとはテレビドラマ4回分の長さの話で、それを2時間ほどの舞台によくまとめたものだと驚きます。

テレビドラマでは取り上げなかった怪談も、短く出て来くる余裕。

初演は観ることは出来なかったのだけど、幾度も再演され、いい舞台だなと思いました。

再びどこかの劇団がやってくれないかなあと思っています。今なら山田さんと山田ファンと一緒に観劇できるかも。

        

 2020.9.18

 

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