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作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。
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「再会」(1)
長塚京三
[梗概]
ある日、大手警備会社に勤める長塚京三は、元妻・倍賞美津子を街角で見かける。
運転中だったので追いかけることはできなかったが、他の男もとへ去った元妻との再会に長塚京三は穏やかならざるものを感じる。
長女・石田ゆり子が嫁いでからは長男・岡田義徳と静岡・浜松で暮らしているが、勝手なことをした母を、二人の子どもは許していなかった。
しかし倍賞美津子は男と死別するという不幸に襲われていた。そして戻って来たのだ。
二人は、人の好い父は簡単に母を許してしまうのではないかという危機感を持っていた。
もちろんそんなことがあるか!と長塚京三は言うが、あくまでも強がっているという印象がぬぐえず、離婚後の父の寂しさを見ている娘は安心できないと思っていた。
こうして「再会」をめぐってそれぞれの思惑が展開していく。
第56回芸術祭優秀賞受賞作品。
2002年日本民間放送連盟賞優秀賞受賞作品。
ドラマ終了後、まず私は「ドラマ・ファン」にこういう書き込みをします。
「再会」を見て、
ああ、もう一回あれを読みたいと思って図書館に行って来ました。
もう子供が生まれてから、蔵書のスペースはどんどん侵食されて私の個としての部分は皆無に等しくなっているのだと改めて思いました。
なんたって菊池寛の「父帰る」を読み返すのに図書館に行かなきゃいけないなんて、結婚して所帯をいとなむというのは半端じゃありません。
これだけ個を殺して生活しているのに家族からはちっとも幸せじゃないなんて文句言われて、ああ、もう、いっそ投げ捨てたらどれだけすっきりするか。
なーんて願望は誰しもあるということをベースにした話ですが、「父帰る」も「再会」も投げ捨てられた家族が最終的にはその者を許すという話です。
6年ほど前ですか氏の「パパ帰る」もそういう話でした。
一度始まった人間関係というのは裁判の判決のように見事に割り切るというわけにはいかないのでしょうねえ。
離婚した夫婦が何年かしたら、時々あってラブホテルに行く関係になっちゃってるなんて話も聞くし、なんだか訳の分かんない営みをしているのが人間というものなのでしょうか。
いいなあと思ったのは母親が自分勝手なことをしたと息子に謝ろうとしているのに、息子はそんなことどうでもいいんだよ、誰だって好きなことしたいさなんて反応で、親子の濃密な関係性がまったくないところです。
というか娘の反応もそうですが親子関係に濃密なものを期待してないというか、とてもさめてるというか、そういう描写がとても良かったですね。
さすが山田太一、相変わらずこのへんの描写はうまいなと思いました。
でもそれは親子の場合のリアリティであって夫婦となると話はまったく違います。
これは私が体験的に感ずることですが、他の女性にされても怒りが起きないのに妻にされると腹が立つなんてことがあるんですね。同じように妻もまたそのような感情を私に持っていることが分かるんです。
それはどう云うことかというと二人とも
「夫だったらここまで思いやるのが当然じゃないか」とか「妻だったらここまでしてくれるべきじゃないか」というような事を暗黙のうちに思ってるんですね。
で、それがかなえられなかった時、初めて自分がそんな期待を持っていたことに気づくんだけど、それはつまりお互いに他人以上の濃密さを求めてるってことです、親子がさめた関係になっていくのとは違う関係なんですね。
子供が個を主張して親から離れていくのは健全だけど、夫婦、恋人というのはそうやって個として社会に出た者同志が、個と個の力強い結びつきをお互いに感じると認知しあった関係なわけですね。だから基本的には親子関係とは逆方向に矢印が向いた関係なんですね。
濃度はどうあれ。
河合隼雄氏が「愛」という言葉はファイナルワードだと思っていて使いたくないと言っていますが、私もまた同じ意味で使いたくないんですけど、言葉はなんであれ、個と個がなんらかの力強い関係を求めていることは間違い無いことだと思います。
この話では夫との関係や子供らとの生活より、自分の個としての躍動を感じた関係性に身を投じた妻と、裏切られた夫が再びよりを戻すという話です。
普通に考えるととっても情けない二人の話です。
でもそれは、お互いに過去にいかなる恩讐があろうとも、いま現在、個と個としての結びつきを少なくとも他の人間関係よりもお互いに認めあえるということなのでしょう。
だからこそもとのさやにもどれるのでしょう。
濃度はどうあれ。
この二人をいい加減、一貫性がないなどと批判できる力強さは私にはありません。
私はこの物語をとても辛い物語として楽しみました。
ただ、ただですよ、演出がツボをはずし過ぎてる。
優しく優しく撮り過ぎてる。
あの癒し系の音楽流しすぎ。
だからメリハリなくなっちゃって、肝心なところで生きて来ない。
台詞の並び方、シーンの重ね方で脚本家がどんな演出を期待して書いてるかというのはある程度分かるものですが、どう見ても外してるなという感じがしました。
静かなシーンが続いたら、次はワッという活気のあるシーンを狙ったんだろうなというところが、やっぱり静かに始まっていたり、うーん、たのむよー、て感じになっちゃいました。
おまけに、あのラスト。
予定調和ということは百も承知で山田氏は書いてるのに、だからこそ、テンポよく畳み掛けるようにサッと終わんなきゃいけないのに、フランクキャプラの「素晴らしき哉 人生!」のラストのようにワッと終わんなきゃいけないのに、わざわざスローモーションにしちゃって蛇足にしてる。
山本恵三氏きっと心の優しいいい人なんだと思います。
優しく優しくどのシーンも同じトーンで撮りすぎです。
結果、キレがない。
残念。
これが私の再会に関する最初の書き込みでした。
これに対し様々な感想が書き込まれます。
ある方は演出とキャスティングに対する違和を語り、
またある方は次のような感想を語ります。
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ドラマ全体としては、私は、満足度60%くらいです。
でも、良い台詞たくさんありました。
ドラマの流れで感動する場面は少なかったけれど、台詞にドキッとして、CMの度に気付くと泣いていました。
娘に「なんで泣いてるの?」とCMになると聞かれて、その度にしらけて、でも、CMが終ると、次のCMまでは、娘が気を使って話し掛けてこないのが、気の毒・・と思いながらも結構集中して見ました。(気を使っていてくれたけれど、後半、鼻血を出していて、構わない訳にもいかず、またしらけました。)
石田ゆりこの家の前での会話で泣きました。
母親の「そんなこというようになったんだ」という言葉。
さらりと言っているけど、心にズシリときました。
あと、息子の「お母さんは自由だよ。それぞれ生きていこうよ」という言葉です。
やっぱり自分で子供を産んで育てているせいか、母親側の気持ちで見てしまいました。
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ある方はまたこのような身辺雑記も混ぜて語ってくれます。
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今日の夕食時、夫が「再会」を見るのに付き合って再び見ました。
10分くらいで夫は「演出がもたついてるなあ。」とひとこと。
私は、「でもセリフとしてはいい言葉が一杯あるよ」と言って、私がメルヘンと感じたシーンを見て欲しかったので最後まで見てくれることを願っていたのですが、そのシーンの時には夫は新聞の切り抜き作業に没頭しておりました。
「男たちの旅路」が長塚京三の日本でのデビューだと断言してました。
ほんとかな?夫の断言はいつもかなりいい加減なので私は誰かにもう一度確認せずにはいられない。
我が家の場合、夫婦の濃度は……・……・・…こんなもんです。
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またある方は次なる長文を書き込みます。
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台風の接近で荒れ模様の夜更けです。
神奈川県に全ての注意報が出て、明日は仕事は休みですが外出する用事がある私は、着ていく服をどうしようか、気に入っているあの服着ていけなくて困るとか、靴をどうしようとか、そんなことばかりさっきから考えているのです。
でも、はっと気付くとこの台風で死者も出ているし、がけ崩れにおびえている人や現に避難している人たちもいるのにと、自分のことしか考えていない身勝手さにふと思い至ったりします。
身勝手で弱くてすぐに心が揺れて矛盾したことばかりして。
私が山田ドラマに惹かれるのは、そういう側面も持ちあわせる「ひと」というこの不思議な存在を多面的に、しかもそれを終始暖かいまなざしを向けて描いてくれるからかなと思います。
今回の「再会」でもそうした氏のまなざしを感じました。
ただ、ラストは○○さんと同様、私も妻には戻って欲しくなかった。
初めのシーンで夫が街なかで妻を見かけた時の動揺ぶりでこれは戻ってきて欲しいのだと、で、「パパ帰る」を思い出し、きっと妻が戻るのだろうけれど、できれば戻って欲しくないと強く思ってしまいました。
夫以外の人に心惹かれても、家族を捨てるところまでいくには(シュミレーションは結構多くのひとがするとしても)、妻としてはかなりの飛び越えたものがあったと思うのです。
そのことにこだわって観すぎてしまったかもしれませんが、再生は可能だとしてもそれが再び共に暮らすという形でおさめてしまうのは無理があるように思えてなりません。
一緒に暮らすということをやはり男性は求めてしまうのでしょうか。
そうであったらいいという願望でしょうか。
ラストに無理を感じてしまったけれど、子どもたちとの関係は山田ドラマらしいきめ細かさがあふれていて楽しめました。
娘と息子に対する母親の思いの差、娘には結構クールでも息子にはウェットになって、夫の前でよりも女性としての自分が思わず出てしまうようなところとか。
実は、日曜日に書き込みして送る段になって、トラブル発生。
パソコンに不具合生じて、しばらくさわれないでいました。
辛口過ぎたきらいあり。
少し間をおいて、でもやっぱり、のところで書きました。
この感想に対して私は次のような書き込みをします。
確かにラストは説得力ないんですよね。
それはレストランのシーンがだれてるせいもあるんですけど、あそこが決まってないからラストが生きてこないのだと思います。
こういうことを夢想します。
あの時、
夫の戻ってこないかという申し出に妻はあっさり断るのではなく、
くたびれ果てた男と女としてそのような申し出をする夫の気持ちはいたいほどわかっているわけだから、
それがお互いにどれだけご都合的な選択であるか哀しいほどわかっているわけだから、
でも、
じゃあ新しい男女関係を作り上げられる時間や情熱がお互いにあるかというとそれも望み薄で、
定規で線を引いたように生きられない哀しさを、切なさを描写したシーンなわけだから、
断るのではなくむしろ同調したいという方向の描写だったらどうなのだろうと思います。
わだかまりも一杯ある。
簡単には許せない。
でも、他人ばかりの人間関係だけじゃ淋しい、藁にもすがりたい自分たちがいる。
妻もその申し出に混濁した思いの中で頷きたい気持ちがせつないほどにある。
でもこんな私たちでいいのという思いも強くある。
しかし、でも今手をつなげるのはお互いしかいない。
そのへんを詳しく描写しておいて、でも妻の返事は「考えさせて」というレベルでとどめておきます。
ドラマ的には、ああ、よりを戻しちゃうんだろうなと視聴者に思わせることになります。
そして、数ヶ月後二人は結局ひとりであることを選択し、ひとりであることに耐えながら別々に暮らしているというラストなら感銘もまた違ったものになったのではないかと考えたりします。
ハッピーエンドを期待した人にはカタルシスないだろうけど。
氏の「また二人になる日」というドラマがあるけど今や「またひとりになる日」というドラマが書かれなきゃならないのではないかと思っていたので、そんな事を夢想したりします。
この書き込みに対して、長文の書き込みをした方は再びこう書き込まれます。
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あいどんさんの「同調」、そして「考えさせて」という運びはすんなりと届いてきますね。
そうよねえと思いながら、はっと思い出しました。
地人会公演の「私の中の見えない炎」。
妻が30年ぶりのかつての恋人との再会で心揺れてしまい、でも最後は夫のもとに戻ります。
このときも私はやはりラストに違和感がありました。無理に急いだようにも思えました。
戻らなくてもいいのにと不満だったことを思い出したのです。
初老の夫婦の話でした。
そういえば、と山田氏と小此木啓吾氏との対談集で老年期の夫婦について山田氏が語っておられたことを思い出し、記憶がさらに衰えつつある身を嘆きつつ本を探しました。
「老年期こそ夫婦は輝く。願望としては、夫婦でいることの大変さをここまできりぬけてきたのだからその果実を老年期にこそ味わいたいと思います。そうありたいと。」‥‥「そうありたい」のですね。
また、「中年夫婦ともう少し年齢が上の夫婦との違いは、老いと共に相手に厳しくなくなっていくことではないか」といったことも書かれています。‥‥私、厳しいです。まだまだ。許容し合うことが、共に暮らすうえでかなり重要なことだとはうすうす気付きつつはありますが。
初老にさしかかってはいますが。
山田氏がラストで再び2人が共に暮らすことを選択されたこと、どうしてもそうしたかったことをついついしつこく考えてしまっています。
TVではNYの貿易センタービルの炎上の映像がさっきからずっと流れています。現実とは思いたくない映像が。
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この日は9月11日でした。
ニューヨークテロという「歴史の傷」がテレビ画面に出現しており、驚きと戸惑いの書き込みが続く中、ドラマファンは更にドラマにこだわります。
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『再会』・・・数年前だったら理解できなかったと思います。裏切った女房を許すなんて!しかし、だんだん年を重ねると、納得がいくようになってしまう自分が情けない。
私もあいどんさんが仰っているように、氏が願いとして書かれているのだと思います。私自身が、陳腐な結末を望んでいたわけで・・・(^_^;)。
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これは男性のご意見。
また、ある女性は次のような「応援のメッセージ」もこめて書き込まれます。
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このところ山田さんが、中年以降の人生に注視するドラマを(エッセイや講演会でも)多く書かれていて、中でもとりわけ夫婦という切り口で私たちにたくさんのことを考えるきっかけを作って下さっていることは、その年代を生きる人間としてとても幸運なことだと思います。
「再会」というドラマ1本で、この掲示板の存在という二重の幸運も手伝って「中年以降の夫婦のカタチ」を模索中の私としてはたくさんの道標、よき示唆となるべき言葉を見つけることができました。
管理人さんが、この掲示板開設に当たって「ドラマについて語り尽くす」ことを目指し、「語り尽くした」時には閉じます、とおっしゃってましたけど、こういう語らいの場は限りなく続いて欲しいと願います。
ガンバレ~♪
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○○さん応援ありがとうございます。
いろんな人の声がこの場に出現することを願っています。
ところで、夫婦の良さというのは逆説的なもの言いで申し訳ないのですが「思いっきり憎める」ことではないかと思っています。
いろんな人間関係が我々のまわりにはありますが、これだけ全身全霊をこめて憎める人間関係というのは、めったにないなあなどと妻に腹をたてながらふと思ったりします。
私だけかもしれないけど。
「日本の面影」の中で「古事記」について語るくだりで、黄泉の国でのイザナギ、イザナミの応酬に対して、津川雅彦がいつの世もこのように夫と女房というのは憎みあうもんじゃがなんて言ったりしていましたが、本当にそう思います(何故か出版された脚本ではその台詞は削除されていますが)。
でも、私はそういう人間の情動を悪いことばかりではないと思っています。
人を憎む時の人間のエネルギーって凄いですよね、ある人を大切に想う気持ちのエネルギーと変らないくらい凄いと思います。
人は生きていくうえでなんらかの活力を必要としているわけだけど、活力という意味では両者はまったく同じものだと思います。
今日は絶対妻と口きくもんかなんて1日頑張って、翌日になると今度は向うがそういう対応で、うーむ、まだまだやるか、負けるもんかなんて朝日にむかって誓ったりする自分を発見したりすると、充実してるなあなんて思ったりするんですよね。
私だけかな、やっぱり、すいません。
まあ、憎むといっても程度問題で、殺すところまで行ったらいけないけど、あるレベルまでは有効なものではないかと思います。
例えば母親の愛情が行過ぎると我が子を呑み込んでしまう危険な面があっても、あるレベルまでは愛情が有効なことと同じではないかと思います。
憎むという活力は人生の一部をささえているのではないでしょうか、「巌窟王」じゃないけど。
そして憎んで憎んで憎み続ける自己というものを考察せざるを得ない局面というものも貴重なものではないか、そう思うのです。
一概に不毛な営みと言えない側面を持っていると思うのです。
「愛憎」という言葉がありますが、「愛情」と「憎しみ」というのは表裏一体の関係でパッケージされて分離不可能なものとして必ず人のなかにあるのではないかと思います。
だから「再会」のラストが、許しあいなさい、いつまでも憎しみにとらわれるのはおよしなさいというメッセージだとすると、片側だけ捨て去りなさいと言われているような気がしてしまうのです。
もしそのような状態が人に訪れたとしたら、その時には片側の「愛情」も希薄になっているのではないでしょうか。つまり人間の活力が衰退した状態ではないでしょうか。
それは草木のような自然になりなさいと、えらく仏教的なことを言われてるような気がしてとまどってしまうのです。
「再会」についてはまだまだ考えてしまっています。
ある方がこのような長文を書き込まれます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以前に○○○さんが夫婦としての年月の積み重ねを果実に譬えた山田さんの言葉を引用されたことがありました。
私はずっとあの言葉を反芻しています。
たとえば、友人で結婚生活を解消した人が何人かいますが、彼女たちはこの言葉をどんな風に聞くだろうか、と考えます。
結婚生活に終止符をうつのはそれぞれの事情があることでいい、悪いのレベルで話すことではないのでしょうが、私などはそれこそ身にそぐわないと感じれば離婚なんてどんどんすればいいのよ、といい散らかすタイプです。
でした。
でも、果実という言葉をひとつ提示されただけで、そんな威勢は途端にグニャリと萎えてしまいます。(単に果物好きっていうだけじゃないですよ)だって、その果実は何十年という夫婦のとしての時間が成らせるものだとしたら、一生にたった1個のその果実を味わうためには、今日の憎しみ、明日の腹立ちをひとつひとつ納めて暮らしていかなくちゃならないわけなんですよね。
違うか。
ただ納めてるだけではその実はおいしく熟さないわけで、しかも管理人さんの示唆に因れば寛大に許すだけでもだめらしくて、愛憎(あるレベルの濃さを保ったままで)という養分を与え続けなくてはならないらしい。
山田さんの理想としての老年期の夫婦像はかなりハードルが高い!案外離婚した友人たちは早々にその果実をあきらめたことでせいせいしているってことかもしれないな。
ずーと先にぶら下げられた輝かしい果実の幻を見せられてしまった私は「困ったな」と思います。
その果実味わってみたいですもんね。でも、できるかなあ、自信ないなあ。困ったなあ……。
「再会」の夫婦にこの果実の譬えを当てると、今さら新しい実を育てるだけの時間も気力もない元夫婦が、落果してしまった実でも、多分おいしくないことを十分承知の上で、それでも痩せて小さい実ながら味わってみようとしたってことなんでしょうか。
山田さんのいくつかの夫婦を描いた作品(夕陽をあびて、結婚まで、チロルの挽歌、・・…)を思い出してみますと、たとえどんな実をつけるか分からなくても味わいなさい、とおっしゃってるように思います。
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再び○○○さんの書き込み。
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あいどんさんの愛憎についての御考察、○○さんの果実論に、しみじみとした想いにとらわれています。秋の気配を感じながら。
そう言えばよく人生を春夏秋冬に喩えますが、夫婦関係もなぞられるかも知れません。
秋。
アツサをどこかで懐かしみつつ来たるべき冬に備えるのはかなりの覚悟も必要。
中途半端で迷いも生じちゃったりして。40、50代でしょうか。
二人で育てた果実がどんな果実になるかは育て方次第。そして冬になってようやく味わえるのだけれど、炬燵に入ってゆっくり味わえればまだしも。
吹きっさらしの中で凍えながらなんていうこともあったり。
吹雪もありますから。
いずれにしてもどういう果実になるかはどちらか一方のせいではなく、あくまで二人の責任なのかも知れません。
たとえぐちゃぐちゃになっていても、また、一見したところは見事でも、中味がスカスカになっていたり。
でも間違いなく二人で育てた、似たものはあっても世界にたった一つしかないものでしょう。
だからそこに大きな価値があるのかも知れません。
「再会」のラスト、許し合えたのかどうか、分かりません。
許すなんて言葉で言ってもその実は凄い憎しみを抱えたままだったりすることもありますし、憎しみを捨て去ることもそう簡単にはできません。
或る年齢になればできるということでもないでしょう。多分。
でも、許そうかと思える年齢というのはあるのかも。
おそらくは深い諦めと共に。
それがあいどんさんの言われる愛情の薄まりかも知れないですが。
愛情が変質したことを共に引き受ける覚悟をそれぞれが背負うわけですから、そこには結構エネルギーが要るかも知れません。
二人が実らせた果実を味わうにも、とても炬燵に入ってゆっくりとというわけにはいかないでしょう。
でも、しつこいようですが、それでも世界に一つしかない貴重な果実‥‥なのかも。
「再会」の二人が共に暮らすことを選択させた山田氏の思いは、と、もしかしたらピントはずれかも知れないと思いつつもついついとめどなく考えてしまいます。
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当然ですが山田氏が果実といっておられるのはあくまでも比喩としてなのだと思います。
老齢になるまで過ごしてきた二人にしか分らない「味わい」とでも言うべき境地なのではないかと思います。
それとて、結婚50年目の何月何日から味わえますといったものでもないでしょうし、そういう意味では20年過ごした夫婦には20年の、30年過ごした夫婦には30年の味わいがあるのでしょう。つまりそのおりおりに味わう境地がない限り味わえないものなのでしょうね。歳月を重ねれば良いというものでもないと思います。境地に達するか否か、そこが問題だと思います。
でも、そのおりおりに私たちは不可避的にある近親憎悪と格闘していて、味わう境地に到達しない。
昨日の口惜しさのとりこになって生きている。
結局人の絆とは何かといった問題なのだと思います。
よく愛がなくなったから云々という話を聞くたびに違うよなあと思ってしまいます。
恋愛の興奮覚めやらぬときの心持を基準に、現在の自分達を裁きつづけるのは酷というものだし、そのようなつながりのみをスタンダードとして信奉するのはどこか人間というものを勘違いしているのではないかと思う時があります。
人間ってそれだけですか?と思います。
ずるさも、嘘も、誠実も、自己犠牲も、なにもかも混在した恐るべき絆が「ジャックと豆の木」の蔦のように天に向かって成長して行っているのに、自分たちは蔦の螺旋のなかで目を回しているだけなのではないか、そんなことを思ったりします。
絆とは何か。
もう一度考えなおす必要があると日々感じています。
ここである方が「再会」とはちょっと離れた書き込みをされます。
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ある夫婦のお話をします。
私の母の両親です。
二人とも私が20歳になる前に病死しています。
この夫婦は若い頃からすごく仲が悪かったんだそうです。
長女である私の母は両親の不仲で心痛めることがたびたびあったようです。
二人ともが亡くなって数年後のことです。
母の末の妹(この夫婦にとっての末っ子、仮にK子とします)の嫁ぎ先で立て続けに不幸に見舞われるということがありました。
この家(仮にH家)の当主夫人(K子の姑)が妙な宗教に凝っていたのかもしれませんが、善後策を練るべくご先祖様の霊をお呼びすることになり、ある夜交霊師のもとにH家の人々が集まりました。(「親戚たち」のおゆらさまのシーンを思い出してみてください)H家のご先祖さまの霊をお呼びするべく交霊師は努めます。
でも、
H家のご先祖を差し置いてなんとK子の母親(私の祖母)の霊が降りてきてしまったそうです。
祖母は「A夫さん」とK子の夫、H家の長男の名前を呼び、「K子をあまり悲しませないように」と言い、(A夫氏の女性関係で当時叔母夫婦はもめていた)次に叔母に向かって、
「喋れないけれど、お父さんもすぐ隣にいる」と語りかけたそうです。
この話は、母や叔母たちが話しているのを漏れ聞いただけなのですが、
私がこの話を今思い出すのはなぜかというと、
母や叔母たちがこの話をしていたときの彼女たちの一番の関心事が、
祖母の霊が出てきたことでも、
その霊がA夫氏を諌めたことでもなく、
あんなに仲の悪かった夫婦なのに死後も一緒にいたことを何よりも重大事のように話していたからです。
叔母のひとりが「お姑さんたちあんなに仲が悪かったのに、死んでからも一緒にいてはるんやなア」というと、その場から笑い声が聞こえてきました。
このところ夫婦についていろいろ考えているうち、こんな記憶がポロリとでてきてしまっただけなんですけど。おもしろいお話なので披露しました。
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死後も一緒にいる仲の悪い夫婦。面白いですね。
いかにも夫婦らしい話だと思います。
林京子の「祭りの場」だったかなあ、原爆が落ちたあとの描写で忘れられないシーンがあります。
爆心地からかなり離れたある農家で防空壕のような穴の中に入っていた男がいたそうです。
そこに原爆が落ちた衝撃が襲ってきて、穴の出入り口がくずれ男は閉じ込められてしまった。
命からがら男は懸命に穴を掘り脱出してくるんだけど、その掘ってるあいだ男は妻を怨みつづけてるんですよね。
原爆が落ちたといっても、その直後は何がおきたのか皆わからない訳で、男も穴の外がどんなことになっているのか了解していない。
ただ、穴が地震かなにかで塞がれたというレベルでしか考えてない。
その生き埋め状態の中で男は妻を怨み必死で土を掘りつづけます。
何故怨むかと言うと、こんな穴の中に閉じ込められた自分を妻は助けもしないで、ざまあみろと笑っていると想像して怒っているんですね。
自分の身に起きた不幸を、あくまでも日常の因果関係の中だけで解釈して、とんちんかんな怒りで必死に脱出するというシーンがあります。しかも、たしか原爆のせいだと分かってからも、妻はあの時笑っていたんだといまだに怒っていたと思います。
私も妻に対して腹を立てている時、ふと自分も大きな視点をなくしてこの男のようなとんちんかんな怒りの中にいるのではないかと思うことがあります。
(ここで余り仲の悪い夫婦のことばかり書いているのも片手落ちのような気がして、友人夫婦の話を「メルヘン夫婦」と題して語ります)
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妻を愛している
と公言してはばからない友人がいます。
ウーマンリブ運動が起きようかという時に、女だけが集まってお店を経営しようと銀座に喫茶店を出した、かなり先鋭的で行動力のある女性と結婚した友人です。
その喫茶店でひとめ惚れした友人は、もんもんとした想いを押さえて押さえて押さえきれず、ある日ラブレターなる恥ずかしいものを書き上げ、決死の思いで、帰宅しようと店をでたその人に「あとで読んでください」と手渡しました。
するとあろうことか、その女性はあとで読まないで、その場でびりびり開けて読み始めました。
友人は身の置き所がなくて後悔のかたまりとなって立ち尽くしました。
翌日友人の汚いアパートのドアがノックされ、寝ぼけまなこで開けてみると、その女性が両手に一杯荷物を持って立っていました。
おしかけて来ちゃったのです。
絶対に結婚なんかしないという誓いのもとに集結した女性の先頭に立っていたその人が、一番早くリタイヤしてお店もだめになっちゃったけど、ばかー!お幸せにという祝福のもとに二人の結婚生活がスタートしました。
それから
随分の歳月がたち、
どんな
夫婦にも存在する数限りない夫婦喧嘩を乗り越えて来た友人が
「おれ女房愛してる」
なんて平然と言っている姿を見ると、
不純な私や私の友人達は
どっかおかしいんじゃないかと陰口をたたきたくなります。
でも友人はおかしい訳でもなく、嘘をついている訳でもないのです。
類い稀な出会いをした人は存在するのです。
おれ女房いないと何も出来ない人だから、何日か家をあけられたりすると台所のことなんかわかんなくて、おれホント女房いないとダメ。
なんて言ってる友人見てると
「それ、自立してないってことじゃねえかよ。お前みたいな奴がいるから老後の亭主が胡散臭がられるんだ」
なんて誹謗するのですが、
当事者の奥さんも
「あの人私がいないとダメだから」
なんて大変だけど結構生き生きしてたりして、小泉八雲じゃないけど、自立自立というけど、人は一人だけで立てるわけではなく、よりよき相互依存が大切なのだという言葉の良き例を見ているような気がしてくるのです。
奥さんも自分の為に何かをするより、人の為に何かをすることを何よりの喜びとする人なんですね。
もちろん友人も面倒見のいい、友人や若い人達からも慕われるいい奴で、なんか仏様みたいなカップルなんですね。
そんな二人が初めて夫婦喧嘩をした時のエピソードは忘れられません。
夕食時ちょっとしたことで喧嘩になり友人は奥さんをひっぱたこうとしたら、柔道は黒帯だけど、自発的な暴力は得意な方ではないので見事に空振りし、食卓のお茶碗をひっくり返し割ってしまったんですね。
すると奥さん落ちて割れた茶碗のことより、自分を叩こうとした夫の行動が口惜しくて「わーっ」と泣いてパニックになり、割れた茶碗をぐちゃぐちゃに踏みつけて血だらけになっちゃったんですね。
友人度肝を抜かれて、懸命に謝ったそうですが、それいらい二人の家庭に暴力は存在せず、喧嘩はあっても口喧嘩だけ。
類い稀な出会いをし、類い稀な関係を維持している人もいる。
不純なる私は、うーん、なのです。
こうして、まだまだ「再会」をめぐるお話は続いたのですが、きりがないのでこのへんにします。
これを読んでまだまだ言い足りないという方、あるいは私も言いたいという方、書き込んでみて下さい。
おしまい
2001年9月21日