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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

花を一輪持った少女

                       

「会場の隅っこに花を一輪持った少女がいるんです」

と白井佳夫氏(映画評論家)は話を始めます。

NHKのスタジオで、相手は局のアナウンサーです。

第1回徳島テレビ祭(1986年)が行われた時のインタビューで、山田太一、倉本聰、ジェームス三木の脚本家を中心に、各局プロデューサー、ディレクターを招いてシンポジウムが行われた時の話です。

 

昼のシンポジウムが終わると、夜は屋外で一般の視聴者と親睦会が開かれました。

飲み、且つ食べて、俳優も交わり大変な賑わいです。

でも、その賑わいの陰に、ポツンと一人、花を一輪持った少女が立っていたと言うのです。

     

 

白井氏は「そのお花どうすんの?」と少女に聞きました。

すると少女は「わたくしはこの世の中ってのはね、生きる価値がないんじゃないかって思ってたんです」と真面目な顔で言います。

 

「それでね・・。でも、山田太一さんのあるドラマを見たら、生きていてもいいんだな、生きていけるんだなと思えるようになったの。そのことのお礼を言いたくてね、この花を山田さんにあげたいんです」と言います。

白井氏は驚き、実行委員に「山田さんすぐ呼んどいで」と声をかけます。

 

そうやって少女は、山田さんと会うことが出来たという話を白井氏はしていました。


後で山田さんに「山田さん、今ホームドラマっていうのは素晴らしいことやってますね、昔だったら文学書や哲学書がやったであろうようなことをね、果たしてるんじゃありませんか」と言ったそうです。

「ほんと、良いホームドラマを書いてる人たちというのは、自信を持っていいっていうような気がしますねえ」とインタビューを結んでいました。

 

 

山田太一論というと、家族の崩壊を描いた「岸辺のアルバム」、大衆批判をした「早春スケッチブック」などジャーナリスティックな視点ばかりが論じられますが、一輪の花を持った少女の感銘した世界というのはあまり語られません。もちろん何に感銘したのかわかりませんが、家族の崩壊や大衆批判に「生きてていいんだ」という気持ちを持ったとは思えません。

 

筋の通った理屈のみが大手を振って罷り通っていて、「そういう名作」として山田ドラマを認識しているようですが、実はそのストーリーを生きる人物描写の豊かさが、多くの山田ファンを魅了していると私には思えます。


NHK演出家の和田勉さんが、あるパーティーで山田さんにこういう話をしたそうです。

「あなたのね、あなたの作品で、なにがいいかというと、みんな『岸辺のアルバム』とか『男たちの旅路』とかいうけれど、私は全くそうじゃないと思っています。あなたの本領は、あんなところにはない。『獅子の時代』でも『想い出づくり』でも『ふぞろいの林檎たち』でもない。しかし、批評家は、ああいう仕事をほめる。世間の多くも、あの種のものを受け入れる。するとライターも人の子でね、どうしても世評にひきずられる。視聴率も影響を受け、その方向で自分を作っていく。しかし、あなたの最高傑作はああしたものじゃないと思っています」

そう言って和田勉さんはこう断言します。

「いいですか。あなたの最高傑作は『緑の夢を見ませんか?』です」
             (シナリオ「緑の夢を見ませんか?」あとがき 大和書房所収)


作品のタイトルこそ違え、こういう推しの気持ちを共有される方は一杯いらっしゃるのではないでしょうか?

さあ、少女は一体何に感銘をうけたのか? もう一度考えてみたいものです。



2020.9.9 

 

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「ふぞろいの林檎たち」を語る(1)

「ふぞろいの林檎たち」

 
        


今でも近所のスーパーで、「ふぞろいの胡瓜」とか「ふぞろいのチキンカツ」なんてネーミングで売っているのを見かけますが、ちょっと型通りにならなかった商品を売る時には便利なネーミングなのでしょう。クスっとしてしまいます。でも、その原点はやはり、「ふぞろいの林檎たち」でしょう。

山田太一の名前は知らなくても、このタイトルは今も確実に浸透しているように思えます。

 

「ふぞろいの林檎たち」は1983年に発表された連続ドラマですから、もう40年近く昔のドラマで、浸透度に驚いてしまいます。

そのわりに、ドラマを見た人がどれくらいいるかと言うと、タイトルだけ知ってますというレベルではないでしょうか。

また、見た人も随分前で、感じは覚えているけど、細かいことはすっかり忘れてしまったという方もいらっしゃるでしょう。

 

 

 

そこで「ふぞろいの林檎たち」全4作を一気に語ってみたいと思います。

もちろん駆け足ですから結構飛ばして、端折ります。でも、ああ、こんな話なんだあということは明瞭にわかるはずです。

 

まず第一作から。

 

ドラマは4流大学の学生仲手川良雄(中井貴一)が六本木の街を歩いているところから始まる。良雄にしては頑張ったおしゃれをしていて、フィラのベストなどを着ている。すると同じフィラのベストを着た学生たちが何人もディスコに入って行くのを見つける。

 

ディスコでは学生のパーティが始まっており、フィラのベストが会員の証という趣のようである。東京大学医学部、慶応大学医学部、順天堂大学医学部といったメンバーが紹介され、踊る男女の中に伊吹夏恵(高橋ひとみ)がいる。

 

良雄は巻き込まれるように会場に入っていたが、部外者だとばれて外につまみ出される。「内輪の集まりなもんでね、遠慮して貰うだけ」と言われ「失礼だけど学校どこ?」と聞かれ「聞くなよ、そんなこと」と冷笑され、良雄は逃げ去る。

 

そんな屈辱的なシーンから「ふぞろいの林檎たち」はスタートする。

国際工業大学。それが良雄の学校。「学校どこですか?」と聞かれるのが一番イタイという学校である。

学校の友人西寺実(柳沢慎吾)岩田健一(時任三郎)らの誘いで、自分たちも女性と交流するグループを作ろうと動き出す。学校のランクだけで男を選ぶ女ばっかりじゃないさ、要は中身じゃないかと思う三人は、「ワンゲル愛好会オリーブ」を作り、チラシを女子大前で配る。しかしうまくいかない。

こんな学校に誰が来るというんだ、俺たちに恥かかせるなよ!と他の学友に毒づかれる。閑古鳥が鳴く受付会場で、女に見向きもされない現実を改めて思い知る。

 

そこへ「『ワンゲル愛好会オリーブ』ってここですか?」と谷本綾子(中島唱子)が現れる。お世辞にも容姿がいいとは言えない太った女の子。口の悪い学友は見ただけで呆れ、「あ~~あ」とわざと綾子に分かるようにあくびをして去る。三人は、ブスは入れませんとは言えず、あたふたと受け付ける。学校のランク付けで口惜しい思いをしているのに、女性のランク付けには無神経な差別をしている身勝手さ。

 

綾子は、「私一人の応募なんですか?」と懸念しはじめ、帰ろうとする。そこへ「『ワンゲル愛好会オリーブ』ってここですか?」と女性の声がする。見ると入口に二人の可愛い女の子、水野陽子(手塚理美)、宮本春江(石原真理子)が立っている。

 

現金なものですっかり舞い上がった三人は歓迎会へ誘うことになる。夢見ていたシチュエーションが現実のものとなって、居酒屋やディスコで青春らしい時を過ごす。でも、ちやほやされる陽子と春江、少し疎外された綾子と明暗はある。

 

ところが、津田塾大学生と言っていたのに、後日学校に行ってみるとそのような学生はいない。名前も電話もデタラメで、冷やかされただけだったのかと思うが、2千円の会費は払っているから変。とても嘘つくような女の子には見えなかった。三人は考え込む。

 

一縷の希望がある。

渡したチラシに、今度の日曜に高尾山に行くというイベント情報を書いた。来るんじゃないか?いやあ全部デタラメなのにまさか?

未練たらたらの三人。

 

そんな時、健一に電話が入る。陽子の声で「ワンゲルのオリーブに入会した者ですけど。私たち、日曜、行けないんです。ごめんなさい」と言うと切ってしまう。健一慌てて話をつなごうとするが後の祭り。ちゃんと断りの電話をしてくるんだからまったくデタラメな女の子ではないと思う。

 

後日明らかになるが、二人は看護学校の生徒で、有名女子大生と言った方が良く思われると思って嘘をついたのである。有名大学を頂点としたヒエラルキーはそんなコンプレックスをも生みだしていて、コンプレックスを持った者同士が、こういう出会いをしたのだった。

 

お目当ては来なくなった高尾山ハイキング。来るのは人気のない綾子一人。健一も実も行きたくないと言う。それよりも陽子、春江を探すと言い出す始末。結局人のいい良雄に綾子を押し付ける。良雄は不承不承、綾子とハイキングに行く。男にもてるわけないと思う綾子だが、それでも付き合ってくれた良雄にときめく。でも良雄は、綾子に魅力を感じていない自分を発見し、自分の人の良さに愛想が尽きたりする。

 

その夜、良雄は風俗街を歩いていた。

「お前はな、遊んでねえからな、女に免疫ねえからな。気をつけろよ」そう実に言われた良雄である。

「うっかりあんなブスに手を出すなよ」なんて笑われたりした。遊んでないと言われれば、確かにその通りの自分がいた。良雄はネオンきらめく風俗街を歩きまわり、ためらった末に個室マッサージ店に入る。

 

そこにアルバイトをしている夏恵がいる。あのディスコで踊っていた女の子である。良雄はすぐに気づいたが夏恵は気がつかなかった。いきなりブラウスを脱ぎ胸もあらわな姿になった夏恵は、慣れた手つきで良雄の下半身を刺激する。良雄はためらいながらも身をゆだねる。自分が性欲だけの姿になったことに屈辱を感じたのか泣きだしてしまう。夏恵は驚く。

 

この店に入る階段で、良雄は本田修一(国広富之)とすれ違っている。夏恵と同棲している恋人である。修一は東大卒で、在宅でコンピューターの仕事をしており、東京外語大学の夏恵とはエリートカップルである。これでふぞろいのメンバーは全員登場したことになる。

 

この8人の若者が、それぞれの境遇の中で就職や恋に向かって行く。

紆余曲折はあるが、健一と陽子、良雄と春江、実と綾子というカップルが進行していく。身の丈に合った自分たちの就職があると言っていた健一が、一流企業から誘いが来たら、やはりシッポをふってしまう姿も描かれる。そんな自分を苦く、口惜しく思う姿も。

 

修一、夏恵のカップルも、頭のいい若者特有の割り切りで暮らしているが、齟齬はあり、底辺の学生とは違う揺らぎが描かれる。特に修一は良雄たちの交流に魅力を感じており、人と馴染めない自分とは違う世界があるとうらやましさを感じている。ヒエラルキーの上位にいると思われる若者も幸せ一杯ではない。

 

 

しかし、ふぞろいファンの間でとりわけ話題になったのは、個々の青春模様もさることながら、中井貴一の兄、仲手川耕一(小林薫)と仲手川幸子(根岸季衣)夫婦の話である。

病弱な幸子は子供も産めず、姑の愛子(佐々木すみ江)から見れば、許せないことであった。パート1の最終回で、愛子は耕一にはっきりと言う。

「世間にはいっくらだって、女の人いるんだよ。どうでも幸子さんじゃなきゃなんて、そんな甘いこと、この頃の若いもんだっていわないよ。もうちょっと、あとさき考えて、さき行き不幸にならないような相手を選ぶもんだよ。幸子さんが、その気になってくれたのに、なんでさがして、呼び戻すようなことするんだい。認めてんだよ、幸子さんは。自分で、嫁の資格がないこと認めてんだよ」

 

それは、ふぞろいメンバーが全員集まった場で言われた。社会に迷い、人に恋することに迷い、確かなものをつかめない若者たち全員の前で言われた。

 

それに対して耕一はこう言う。

「若いもんが、どうだか知らねえが、世間がどうだか知らねえが、俺は幸子じゃなきゃ嫌なんだ。そんなこと信じられねえかもしれねえが、そうなんだから、仕様がねぇ。可笑しきゃ笑ってくれ。甘っちょろくても・・こいつと暮らしたいんだ。仲良くやってくれよ」

そう懇願する。

ふぞろいたちは涙を流し、「そんな恋愛したい」と思う。

二人は夫婦の道を歩むことになる。当時多くの視聴者がこのシーンに感銘した。

 

 

 

 

そして1985年にパートⅡが作られる。

学校から社会へ出ていったふぞろいたちといった内容になるが、パートⅠで、「こいつじゃなきゃだめなんだ」と言っていた耕一は浮気をしている。パートⅠで感銘したファンは何を思ったことか。

 

学歴社会、格差社会という図式を入口として始まった「ふぞろいの林檎たち」は、勝ち組だの負け組だのといった昨今流行りの価値観で、負け組の青春を描いているという解釈をする向きもあるが、当然のこととして、図式は図式で、人間の世界を解釈する仮定線としてあり、そこからはみ出すものがあるわけで、負け組ドラマなどという浅薄なものではない。「こいつしかいないんだ」と言っていた男が、新シーズンでは浮気をしているように、人間の世界にはやっかいなことがてんこ盛りで、そんな事態に恐れずひるまず縦横無尽に山田ドラマは展開する。

 

 

実と健一は同じ会社で営業マンとなっている。新人研修で軍隊のようなスパルタ教育を受け、会社に戻ったらその日のうちに得意先周りをやらされるハードさ。

 

実は「やってられねえ」と健一と酒を飲む。泥酔した実は、健一のアパートに泊まると伝えるために実家に電話をするのだが、その時電話口に出た父親(石井均)と口論となる。

 

研修で体がガタガタだよと愚痴った実に、父親は「だらしがねえ」と言ったのだった。カッとなり「どうせ俺なんかが入るのはボロ会社だよ。お前はなんだよ。ラーメン屋じゃねえかよ。跡継げなんて、よく言えるよ。こっちはね、いくらボロでも、ちゃんと研修もある、一億二億の商売だってやってる立派な販売会社だよ。人をバカにするなら、手前がもうちょっとちゃんとしろよ。手前の人生は一体なんだよ」と毒づく。

 

その夜遅く、父親はトイレに入ったまま出て来ない。翌朝不審に思って開けてみると倒れて死んでいる姿がある。

 

お通夜に、ふぞろいメンバーが久々に集まり近況が語られる。

実はせっかく来てくれた仲間に何も言えない。親子喧嘩をしたまま、酔っていたとはいえ、いいように誹謗したままで死なれた。その事実に圧倒されている。

たまらず、実は家から逃げ出す。それを追いかける健一。「お前が逃げてどうする。気持ち押さえて、ちゃんと葬式出すのが、大人ってもんだ」そう健一に言われ、実は「大人になんかなりたくねえよ」と泣く。

そう、パートⅡでは大人になっていく苦労が描かれる。

 

良雄は運送会社に就職し、陽子と春江は看護婦になり、修一はソフトプログラマー、夏恵はその修一に仕事を持って来ている。綾子はまだ学生。

陽子と健一はいつ肉体関係に入り、その後ちゃんと大人の関係を構築できるかということで悩み、良雄と春江は好意を持ちあっているのに、様々なタイミングの悪さで関係が進展しない。男と女が結ばれるというのは、お互いの気持ちだけじゃなく、環境が後押ししないと無理なのではないか?という部分と、もともと二人はそりが合わないのではというところも描かれる。

綾子は甲斐甲斐しく実の世話をやいているが、実はうるさがっている。修一は人を愛する能力がないのではないかという問題があり、夏恵は結婚したい自分の焦りと戦っている。仕事の才能、社内政治、転職の可能性、自分を変えたいという願望、清濁併せ呑む大人の世界で、自分達は果たして燃えているのかということが最終回で問われる。




                 「ふぞろいの林檎たち」を語る(2)につづく 

 

 

 

 

 

 

「ふぞろいの林檎たち」を語る(2)

 

        

1991年パートⅢが作られる。

 

春江は富豪の門脇幹一(柄本明)と結婚していて、裕福ではあるがうまくいっていない。ドラマは春江が自殺未遂をして病院にかつぎ込まれるところから始まる。

それほどにうまくいっていない。今も春江は良雄を忘れられずにいて、混乱する頭の中で良雄の名前を呼ぶ。

 

亭主としては面白くないが、幹一は良雄に連絡をとらざるを得ない。そうして病院にふぞろいのメンバーが駆けつけることになる。しかし集中治療室の春江に会うことは出来ず、病状の説明もしない傲慢な幹一の対応に腹を立て、陽子の部屋に集まることになる。

 

 

6年ぶりの再会。

実と綾子は夫婦となり幼い子供がいる。

健一も所帯を持っているが相手は陽子ではない。お互いに「あんたがふった」と言っており、家庭か仕事かという選択肢に陽子は仕事を選んだようである。職場改善の組合運動にも心血を注ぎ独身を貫いている。

良雄も陽子と同じく独身が続いている。

 

 

 

翌日そんな良雄のアパートに幹一が怒鳴り込んでくる。「来てるだろう!出せ!」と吠える。唖然とする良雄だが、春江が病院から逃げ出したことがわかる。良雄のところにいないとわかると、良雄の実家にも行き、実のラーメン屋にも。不法侵入も辞さない追いかけ方で、愛していると言うより、拝金主義者の権力欲が見える。春江は大きな屋敷に幽閉された身となる。

 

健一は、陽子の職場の女性から相談を受ける。陽子の男遊びがひどい、私の彼にちょっかいを出さないように言ってもらえないかと言うのである。陽子の昔の恋人と知っての相談だが、にわかには信じられない健一は探りを入れてみる。

 

行きつけのスナックのマスターとは、あったらしいことがわかる。更に噂を探っていると、陽子が気付き、どういうつもりなの?と抗議してくる。

陽子は組合潰しの工作と勘ぐっていて、スキャンダルを探しているのだと怒る。

でも裏を知ると、陽子は、随分汚れた女になったんだね、私、と苦笑する。岩田君が初めての男だもん、あの頃に比べれば汚れてしまったけど、何人かそういうことがあっただけよ、いい人いなくて続かないのと、6年の歳月を思う。もう30歳だ。

 

同じく30になっても結婚しない良雄は親にも友人にも心配されている。見合いの話もあるが進まない。その良雄を人妻の春江は好きと言ってはばからない。何度も家出して良雄のもとへ来る。良雄は春江とのことを考えてみるが、周りから絶対合わないと反対される。好きあっていることは事実だが、将来を考えた時、愛情のボルテージが下がった時二人はどうなるのか?でも、今の気持ちを評価せず、将来のことを心配して悲観的対応をとることは妥当なことなのか。恋愛というのはどんなに周りの人が傷つこうと自分たちの思いだけはとげようとするものだ、配慮のかたまりのような良雄に果たしてそんなエゴが通せるのか?

 

良雄は仕事で失敗し、大変な損害を会社に与える。これには裏があり、幹一の策略である。春江を誘惑する良雄に、金の力を使って報復したのだ。それが幹一の春江への愛である。見事なエゴの通し方。後年この時代がバブルと言われるが、まるでバブルの申し子のような男である。

 

実は転職する。

夏恵は妊活の道へ。

陽子は引き抜かれ弘前の病院へ。

それぞれ失意の時もあり、ふぞろいの間で不倫も発生する。

 

 

 

1997年パートⅣが作られる。

 

パート1から考えると14年にわたって作られたことになり、ふぞろいたちは30代半ばになっている。新しいレギュラー桐生克彦と美保という若者がストーリーを牽引する。

山形から上京してきた桐生克彦(長瀬智也)は、泊まるところがなくて建築中のビルに忍び込み眠っていた。そこに怪しい男たちが入って来て密談を始める。物音をたてて気づかれた克彦は、聞いたな?とおどされる。どこのまわし者だと勘ぐられ、殺されそうになるが、ボスの配慮で助けられる。

 

克彦はアパートの契約はすましているが、まだ荷物を運送会社に預けたままで、暮らせない状態にある。アパートで途方に暮れていると、美保(中谷美紀)という若い女が訪ねてくる。美保は「あのビルで何を聞いた?」と問い詰める。あいつらの仲間かと思うが、そうではないらしい。「何を聞いたか言うまでこの部屋にいる」ととんでもないことを言い出す。克彦は眠っていてよく覚えていないと言うが、信じない美保。大人は汚い!信じられない、と美保は口癖のように言い、とても正義感が強くて克彦は圧倒される。

 

良雄がやって来る。荷物を預けた運送会社は良雄の会社だったのだ。事態は奇妙な方向に進んでおり、荷物が軽トラのドライバーごと行方不明になっていた。この仕事は会社には内緒の仕事で、良雄が小さな業者に便宜をはかった結果であり、会社に知れるとまずいという。とにかく会社には言わないでもらいたいと言いおいて良雄はドライバーの行方を探す。しかし一向にらちがあかない。

 

良雄は会社を休んで捜索しているが、やがて良雄自身も行方不明となる。良雄の対応にもいかがわしいものを感じている克彦と美保は、良雄の実家に行き、良雄から連絡が来ていないか聞く。何もつかめないが、幸子が友人たちの連絡先を教えてくれる。

 

 

そうして克彦と美保は、ふぞろいのメンバーを一人ひとり訪ねていくことになる。

6年経ったそれぞれの近況が明かされる。

実はラーメン屋になり、綾子との間に子どもが二人。

健一は離婚をしてシングル生活。

陽子は看護婦長をやっていて独身。

修一、夏恵夫婦には子供ができている。

良雄の兄夫婦にも子どもが出来たが、兄の耕一はくも膜下出血で死んでしまっている。「体の弱かった幸子さんがピンピン元気で生きてるのに、どうして耕一が・・」と姑愛子は涙ぐみ、良雄が今も結婚していないことを歯がゆく思っている。

 

良雄の行方不明を心配して、次々とふぞろいメンバーが克彦と美保の前に集まる。良雄はいい加減な人間じゃないと異口同音に言う。その絆の強さに圧倒される二人だが、みんなの心配にもかかわらず、良雄も荷物も車もドライバーも見つからない。

 

やがて良雄が戻ってくる。

何があったんだ?という健一に、良雄はこんなことを言う。

「ドライバーが店を借りたときの保証人が川崎にいると言ってたから、東名高速を降りて行ってみた。でも保証人も行方不明で、夜逃げみたいにしていなくなってて・・それで戻ろうとして、東名高速に乗ったら、方向間違えて、横浜の方に行っちゃって・・どっかで間違えたかったのかも知れないけど・・すぐに間違いには気がついたんだけど・・いいや、もういいやって、そのまま走って・・。そうそう、やってらんねえよ、やってらんねえよって・・それでも、このまま走って何処行く気だ?インターで降りろ、ターンしてもどれ、そういう気も強くて、どうすんだ?どこ行くんだ?そんなこと考えながら走ってた。突然、ガーンと富士山が見えた。でっかい富士山が目の前にあった。なんか凄く感動して、すげえ綺麗で、遮光線で・・なんかもっと富士山に近づきたくなって、ふところに飛び込みたくなって、河口湖の方に飛ばしたんだ。飛ばしてるうちに、あの軽トラの運転手もこんな風だったのかもしれない。こんな風に走ってて、どんどん・・どんどん・・・・まだどっか走ってるのかも知れない」

そんなことを良雄は言う。

 

良雄と軽トラのドライバーの出会いは飲み屋である。酔って意気投合してドライバーのアパートに行き、音楽を聴いたという。と言っても、クラシックとか、ロックとかそういうものではなく、ピンクレディーである。「ペッパー警部」などを歌ったあのピンクレディー。

 

ドライバーはその世代ではないが、ドライバーの別れた子供が幼かった頃流行ったらしい。

「♪ペッパー警部、邪魔をしないで~え、ペッパー警部、私たちこれから、いいところ~♪」

良雄はその歌声とともに、どんどん、どんどん、走って行く軽トラの姿を思い浮かべていた。

健一は、自分に酔ってるのか?とシニックな対応をするが、俺だって車飛ばしてどっか行きてえよ!と笑う。

 

軽トラが見つかる。郡山の畑に突っ込んでひっくり返っているのが発見されたのだ。ドライバーはいないが、荷物は戻ってきた。後日、ドライバーは岩手県の弁天崎で自殺していたことがわかる。

克彦の心配はビルのことである。殺されることはなかったが、絶対喋るなよとボスに言われ口止め料ももらった。もちろん何も聞いていないし見てもいない。でも相手はそう思っている。

美保はじつはボスの娘で、ボスとは都議会議員の遠山隆夫(中山仁)。美保は告発する文書を手に入れ、父親の不正を追及しようとしているのだ。

 

この問題が、ふぞろいたちに提示される。都議会議員と、ヤクザと、建築業者の癒着。絵に描いたようなヤバさに一同ひく。そんな騒動にかかわったら、子供に何されるかわからない。人間は正義を表現するために生きているわけではない。不正はある。自分自身にもある。良雄は軽トラのドライバーから5000円のリベートをとっていた。25000円の手間賃から5分の1をピンハネしていたのだ。ケチで情けない話だ。自分の責任だ。どんどん走っていった気持ちがわかる。良雄は汚れた自分を棚にあげて正義をふりかざすことはできない。

陽子が言う。

「若い人に相談されて、やばいから放っとけって、それだけ?」

克彦も美保も、丁度ふぞろいたちが出会った頃の年齢だ。あれから14年の歳月が流れた。これが今の私たち?

 

愛子に癌が発見される。胃潰瘍と偽り入院準備を進めるが難しく、告知するかどうか家族は悩む。ピリピリしているところへアメリカから春江が帰って来る。具合の悪い愛子に、大丈夫、大丈夫と気休めしか言わない家族を見て、ごまかしは良くない、可哀想だと思った春江は本当の病気を言ってしまう。気丈に愛子は受けとめるが、やがて自殺未遂をする。

 

健一は仕事でうまく行っていない。ライバル会社の凄腕に負けっぱなしで、しかも女性の営業に負けっぱなしで、焦っている。別れた女房との間にできた小学生の娘ともめったに会えない。

 

実と綾子夫婦は、子育てをめぐる苦労と店の不景気で愛情一杯とはいかない生活が続いている。

 

修一と夏恵夫婦にも息苦しい空気が流れており、夏恵は「人の気持ちがわからないのよあなたは」と修一に苛立ち、修一はその言葉に結構傷ついている。

 

陽子は悲しい恋をしている。末期癌患者の男性に告白され、限られた時間の中で、せつない愛を味わっている。

 

そして良雄はこういう慌ただしさの中で、結婚してもいいと思える女性に巡り合い、交際が進んでいる。しかもその女性は、健一をコテンパンにしている営業の女性相崎江里(洞口依子)で健一には喜べないものがある。

それぞれ「自分のこと」が進行している。

 

でも「自分のこと」だけでいいのだろうか。

そう言い出したのは、自分のことだけで生きてきた修一である。克彦と美保にこう言う。

「僕は個人的人間でね、政治にも社会にも関心がない。みんな勝手に生きたらと思っている。俺も勝手に生きるからってね。ところが、君たちが、不正が行われていることを知って、しかし、それを忘れようとしていると思うと、本当にそれでいいのかなんて気持ちになる。勝手なもんだ。自分は自分のことしか考えないで生きてきたのに、若い君たちが自分のことだけで生きようとすると思うと、それでいいのかな、なんて思ってしまう。ただ僕は都議会議員が工事中のビルに夜中にいたのを見ていないし、口止め料を貰うなんてこともなかった。もしそういうことがあったら、忘れることができるだろうかと考えると、答えは五分五分だ。多分面倒に巻き込まれたくないから、忘れようとするだろうが、忘れることはできないだろう。ずっと、不正を知ったのに、口止め料をもらって知らん顔したということが、小さな傷のようにうずくだろう。そして、どうすればいいか相談した年上の連中がやばいから何もするな放っておけと言ったこと、小さく恨むかもしれない。軽蔑するかもしれない」

 

この修一の気持ちはふぞろいたちを動かす。全員で遠山議員に会いにいくことになる。社会正義のためとかそういう立派なことではなく、一つだけ質問があるという、控えめな立場で行くことになる。遠山議員を告発する文書は更に送られて来ており、もし本当なら遠山議員の政治生命は断たれるだろう。その文書を遠山議員に見せ、これは事実なのかどうか聞こうというのだ。15分だけの面会予約をとる。

 

会いに行くのはふぞろい8人だけではない、車いすに乗った末期癌の愛子、幸子、実の母和子、江里もである。

にこやかに対応する遠山に文書を見せる。本当かどうか、何処まで本当かどうか、それだけ聞きたいと言う。

遠山は失笑し、こんなものは私を失脚させようとする連中の根も葉もない中傷ですよと言う。こんなことはあり得ないと。

そこへ美保と克彦が入って来る。驚く遠山。美保は「私たちも一緒なの、ごまかさないでちゃんと答えて」と言う。

 

少し前、克彦は、口止め料を返しに遠山に会いに行っている。その時、遠山は克彦にこう言った。

「世の中は汚いんだ。汚い世の中の真っただ中に入って、少しでも世の中を良き方向に動かそうとしている人間が何も汚れないというようなことがあるかね。私は確かに汚れている。しかしそれでもこうやってでかい口をきいているのは、一方でその十倍も人のために生きているからだ。私の悪を叩くのはあるいは簡単かもしれない、しかし、同時に、私がしてきた良きこと、これからするであろう良きことも潰すことになる、子供じみた単純な正義感で私を潰さないでくれ、汚れなきゃ力がつかない」

結局、克彦は口止め料を返すことができずに帰って来ていた。

 

ふぞろいたちは抗議をするとか告発するとかそういうつもりできたわけではないと言う。大小の違いはあれ、自分たちにも不正の経験はある。もちろん公職の人とは違うラインがひかれるだろうが。

克彦はポケットからお金の入った封筒を出す。あの日もらった口止め料だ。それを遠山に返す。一体何があったからの口止め料だったのか。聞いても遠山の口からは語られない。そうして15分の面会は終わる。

 

 

 

実のラーメン屋に集まり、団らんの時を持つ一同。

こんなこと生まれて初めての経験と、はしゃいでいる愛子や和子。勇ましい抗議集会ではなかったけど、今の自分たちでは精一杯だったと思える。克彦は、もともとは自分の問題だったのに、ここまでしてくれてありがとうと礼を述べる。

 

翌日遠山議員辞職の報が流れる。健康上の理由としか言わない政界引退で、マスコミは騒然とする。ずっとかくしておける自信がなくて先手をうったんだ、ずるいんだと美保は言う。良雄は、それでもいいじゃないか、いきなり何もかもすっきりとはいかないよと言う。これは美保さんに対してのお父さんの答えだと思うよ。だから今日美保さんは、お父さんに会いに行くべきだ、とも言う。

 

こうして再びふぞろいたちに「自分のこと」が戻って来る。

春江は陽子に誘われ看護婦に戻る。

実は家族サービスに精を出し、修一と夏恵は、愛子に「あんたたち似合いのカップルよ」なんて言われて、ちょっと気を良くしている。

健一は時々娘に会って嬉しい時を過ごしている。

良雄は順調に結婚への道を歩み、愛子が「私が生きてるうちに結婚しようって、焦ってるんじゃないかねえ」などと心配している。

克彦と美保がこの体験からどういう生き方をして行くのか、それはわからない。

14年にわたって作られた「ふぞろいの林檎たち」は、こうして終わる。

 

 

 

仲手川良雄(中井貴一)

西寺実(柳沢慎吾)

岩田健一(時任三郎)

谷本綾子(中島唱子)

水野陽子(手塚理美)

宮本春江(石原真理子)

伊吹夏恵(高橋ひとみ)

本田修一(国広富之)

 

仲手川耕一 仲手川良雄の兄(小林薫)

仲手川幸子 耕一の妻(根岸季衣)

仲手川愛子 良雄、耕一の母(佐々木すみ江)

 

 

西寺泰治 西寺実の父(石井均)

西寺知子 西寺実の母(吉行和子)

 

 

 

パートⅢ

門脇幹一(柄本明)

 

 

パートⅣ

桐生克彦(長瀬智也)

美保(中谷美紀)

遠山隆夫(中山仁)




2020.9.9

 

パンとあこがれ

                    

 

「パンとあこがれ」(1969年TBS作品)の最終回について書きたいと思います。

 

 

若い方はまったくご存知ないドラマですので、若干の説明をしたいと思います。

今はもうなくなってしまいましたが、NHKの朝のテレビ小説に対抗すべくTBSがスタートさせたテレビ小説の中の一本です。

                

新宿中村屋創業者の手記を原作とした話ですが、「もうほとんどオリジナル」と山田さんがいうような想像性に溢れた物語となっています。

         

 

明治中期仙台の没落士族の家に生まれた綾(宇都宮雅代)という女性が、テレビ小説らしい明るい向上心で明治大正昭和を生き抜くという物語です。

 

明るい向上心といってもよくあるテレビ小説のノー天気な人物ではなく、おりおりの時代の暗部と必死で格闘する、光と影の物語です。

 

「パンとあこがれ」というタイトル通りパン屋さんの話ですが、このタイトルにこめられたものはおそらく「人はパンのみに生きるに非ず」からきたものと思います。

 

パンを食べる肉体を持った生理としての人間と、あこがれ、つまり人間の恣意性を信ずる人間、現実と理想ふたつの世界の相克を縦横無尽に書こうという意欲の現われたタイトルだと想像しています。

 

 

この物語の中で一番私が感動した部分は、綾が下宿させた若き画家と不倫の恋に落ちるところです。

かといって今のドラマみたいに露骨な描写はひとつもありません。

日常の一挙手一投足のなかに気持ちが滲み出てくるドラマです(向田邦子の「あ・うん」のような)

 

酒も飲めない実直一筋の男相馬竜蔵(東野孝彦)と結婚し、生まれた子供も親戚の家に預けて懸命にパン屋を営む綾たちの生活に入って来た切ないできごと。

 

画家とは、かつて画学生だった頃、外国に絵の勉強をしに行く際に二人で援助した間柄でもあります。

心細げに船に乗って渡航した時から数年ぶりに日本に戻ってきて才能を認められようとしている画家なのです。

 

二人は部屋を提供し応援します。

こころよき人間関係、円満そのものの三人の関係が破綻し始めるのは愛情ゆえです。

 

綾と画家の間に好意以上のものが発生してしまいます。

綾の初恋の人が、おなじく画学生だったという伏線もきいています。

絵を仲立ちとして二人の距離が縮まります。

 

決定的に破綻するのは、呑めない筈の夫がぐでんぐでんになって帰って来た時です。

夫は聞いてしまったのです。

綾と画家が言い争う声を。

いえ、それは言い争ってはいましたが「愛の交歓」でした。

 

 

画家は洗い物をしている綾の後姿に向かって言います。

「奥さんが相馬さんとの生活を大切にしておられる以上、私はそれを壊そうとは思いません。でも一度だけ言わせて下さい。そうでなければ切なくてかないません」

 

綾は「そんなこと言っちゃいけません」と叱責しますが、画家は止まりません。

控えめですが、ぎりぎりの気持ちを画家はぶつけ、綾は叱責しながらも揺れます。

 

 

ひとつ屋根の下で暮らす者が少しずつ好意以上の気持ちをお互いに募らせていくつらさ、そしてそれを薄々感じる夫の切なさ。

静かな家庭の水面下で息詰まるような気持ちのうねりが三人を追い詰めて行きます。

 

そして決定的な言い争いを聞いた夫は無理して浴びるほど呑んで来ます。

 

 

ぐでん、ぐでんに酔い、歩くこともままならず、近所の人に「初めてみました。こんなに飲まれる姿を」などと言われながら運ばれて来ます。

座敷に倒れこみ、何処にいるのか分からないほど正体を無くした夫は、介抱する綾も目に入らず、「綾、綾」と天井に向かって手を差し伸べうめき続けます。

おそらく、夫の目に天井は見えず、ただ虚空のみが広がっていることが分かります。

 

綾は介抱しながら、ことの重大さを思い知ります。

 

 

特別悪い奴がいるわけでもないのに、三角関係は出現する。

愛し合うゆえに、敵対していかざるを得ないこともある。

よく愛があれば何でも解決するといったようなノー天気なことを言う人がいますが、このドラマは、人というものは愛し合うからこそ、敵対する場合もあるのだということを私に教えてくれました。

 

 

そして衝撃なのはこの後です。

画家は二人の前から姿を消します。

 

 

綾と夫は、亀裂の入った二人の関係を修復しようと子供を引き取ります。

仕事に専念するために親戚の家にやむなく預けておいた我が子をです。

親子三人で、新しい家庭を作ることによって、夫婦を再生しようとするのです。

 

ところが、子供が二人の前に現われ、初めて挨拶した時に、視聴者は衝撃を受けます。

子供は「お父さんお母さん今日は」と頭をぺこんと下げます。

文字で書いても何も伝わりませんが、恐ろしく他人行儀で、大人にちゃんと挨拶するんだぞと散々言われて仕方なく言っているような、もう本当にとってつけたような言い方をします。

情がひとつもありません、親に会ったのに。

 

 

つまりそのシーンに表れているのは仕事にかまけて親子関係を完全に育て損なった夫婦の姿です。

自分たちの都合で子供呼んだって、現実はそうはいかねえよってシーンになってるわけです。

 

山田さんがよく言う、現実の思いがけなさというやつですが、これは参りました。

 

 

そして次のナレーションで私はとどめを刺されます。

 

「二人の間に気まずいものが入って、十年が流れた」

 

十年後になっちゃうんです。

 

 

明るく楽しい朝のテレビ小説が、この遠慮会釈ない暗部の描写、心臓止まりそうでした。

そしてパン屋の経営とともに、親子のドラマも始まり、ドラマは佳境に入って行きます。

 

 

すみません、ちょっと前置き長くなっちゃいました。

 

 

では最終回です。

 

 

 

二人は疎開先から終戦直後の東京に出ようと思い立ちます。

 

戦地の孫からもうすぐ帰るという便りがあり、東京の店がどうなっているのか確認したかったのです。

二人が築きあげた店への懐かしさと夢がひろがります。

 

激しい汽笛。

 

走る列車。

 

ナレーション「甲府を過ぎる頃夜が明けた。八王子、立川と新宿が近づくにつれ窓の外は確実に続く一面の焼け野原となった。二人は外を見るのが恐ろしくなった」

 

 

炎天下の闇市。

騒々しい「安いよ、安いよ!!」のという男の声。

割れたスピーカーの騒々しい音で「リンゴの歌」が響く。

 

東京の店は勿論空襲であとかたもなく、露店が林立している。

 

店の跡地に立ち、ここが玄関でここが台所でと家の間取りをあれこれ懐かしがっても、

「じゃまだ、じゃまだ!!」

と闇市の人間に突き飛ばされる始末。

 

ナレーション「街は活気に満ちた闇市であった。時代の思いがけぬ逞しさに二人は気押されて呆然と立ち尽くした」

 

 

さっき、列車の中でもトラブルがあった。

混雑する車内で、赤ん坊と幼い子供を抱えた女性の前で、いい歳をした男が座っているのだ。

むずがる子供を目の前にして、あきらかに知らぬふりなのだ。

 

カッとなった綾は、男に抗議する。

男は

「みんな疲れてるんだ!!!こんな時になんだ!!

と言い返します。

 

綾は

「こんな時だから言ってるんです!!こんな時だからこそじゃありませんか!!

と叫びます。

 

 

 

そして闇市。

弱肉強食の論理がまかり通り、カオスという活気が人々を支配していた。

               

自分たちが築いた店の跡地に、思いがけないボーダレスな競争が始まっていた。

年寄りは突き飛ばされ、過去のものとなろうとしている。

戦地から孫が帰って来るというのに、店も財産も、何もかもなくした二人

 

孫に何も残してあげることが出来ない自分たちの現実を思い知らされ、二人は途方にくれてしまう。

                

夫は言う。

「自分たちを覚えている人などいない。みんな自分勝手でひとりぼっちの世の中だ。こんな他人ばかりの世界で何が出来るだろう。哲夫(孫)に残すものなど何もない」

 

 

そうだろうか?

と綾は思う。

残すものは何もないのだろうか。

生きるということは、そういうものなのだろうか?

私たちは全てを無くした。財産も友人も知人も、何もかも、ここには無い。ひとりぼっちだ。

でも、でも。

綾は今までの人生を振り返る。

そして数々の言葉を思い起こす。

            

 

没落士族として貧しさに耐えて生きていた仙台の家族。

でも綾にだけは、あこがれをつらぬくよう援助してくれた家族。

 

その数々の声。

 

「私たち一家は地べたにへばりついて生きているようなものです。綾、お前はあこがれを捨ててはいけないのっしゃ。東京へ行くのっしゃ」と、毎日毎日機織をして生計をたてていた母の応援の言葉。

 

「綾、お前は自分のことばかり考えとる、少しは人の身になることを覚えんでどうする」という兄のいましめの言葉。

 

胸を病み、婚約を破棄され、家族に病気がうつらぬように「幽閉」された一生を余儀なくされた姉は「綾さんはあこがれを捨ててはいけないのっしゃ」と夢を託してくれる。

 

 

あこがれの仙台女学院に入学できた喜びも束の間、そこで知った心強い先輩との学園闘争の日々。

 

「西洋にかなわぬものがあるからと言って、何もかも西洋がええと言うのは間違っちょる。自分を見失っちょる。こういう時だからこそ、日本の伝統を学ばねばいけないのっしゃ」という先輩の言葉。

 

明治の近代化路線に違和を感じながらも、あこがれは東京へ走る。

 

しかしそこで出会ったものは。

仙台での初恋の人が、尊敬する先輩と結ばれてしまった姿。

 

「うちは、つらいんよ。綾さんにやさしくされればされるほど、うちはつらいんよ」と泣く先輩の言葉。

 

 

そして初恋の人の裏切りの言葉。

「恋愛というものは小説本が謳いあげるように綺麗なものではないのかも知れない。むしろ醜いものかもしれない。どんなにまわりの人が傷つこうと二人の思いだけはとげようとする、むしろ醜いものかもしれない。罵られてもやむをえん。裏切りは裏切りっし。あの人ば好きになってしもうた」

 

綾は初恋の人をひっぱたくしかない。

 

 

結婚。

 

パン屋の開業。

 

子供達との相克。

 

自殺しようとした息子。思うにまかせぬ子育て。

 

戦場にとられた息子、孫。

 

 

 

 

そして、下宿させた画家と相馬綾の不倫の恋。

日常を生きる綾の根幹を揺さぶった画家との熱情。

 

「奥さん!!奥さんが相馬さんとの生活を大切にしておられる以上、私はそれを壊そうとは思いません。でも一度だけ言わせて下さい。そうでなければ切なくてかないません」

 

「そんなこと言っちゃいけません!

 

 

入ってしまった夫婦の亀裂。

 

 

そこまで思い出した綾はある思いに達します。

 

 

人。

 

 

たくさんの人との出会い。

 

 

喜びも悲しみも、裏切りも献身も、憎しみも愛しさも、すべて人と人の「つづれ織り」の中にあり、それが現在の自分にどれだけのものとしてあるか。

 

                    

綾は言います。

「どうして人の命が一人のものだと言えるだろう。兄の声、母の働く姿、そのひとつひとつが私の生きる支えになっていないとどうして言えるだろう。そしてとりわけあの機の音。あの機の音が私の生きる支えになっていないとどうして言えるだろう。そのすべてのことが今の私を作った。自分はひとりぽっちだとか、自分は人にとっていないも同然だとかいう考えを私は憎みます。帰ってくる哲夫に見せたいのは、諦めた私達ではないはずです。74歳と69歳の老人がそれでも尚あこがれを持ったという姿を刻みたいのです」

 

そう言って綾と夫は戦後の時代に向かって出発します。

   

そして二人は戦後まもなく新しい店を子供達の手を借りることなく、ふたりだけで再建したというナレーションが流れ、次のクレジットで終わります

              

その日、その日を無事に過すだけでも、わたくしたちは、多くのものを耐えなければならない。しかし、無事な日々だけでは満たされぬ人たちに、心にあこがれを抱く人々に、わたくしたちは、この物語をささげたいと思う。

 

 

「パンとあこがれ」の映像はわずかしか残っていないという話ですが、何故か私はいつか再び逢えると思っています。

 

 

いつだったかNHKBSで山田さんの特集をやった時に、東野孝彦さんのホームビデオが、ほんの少し残っているのみという話をされていましたが、本当に、それだけなのでしょぅか。

 

何故か私には信じられないのです。

 

 

そんなむごいことを簡単に信じるわけにはいかないのです。

 

 

最終回は録音していて、長いことカセットテープで保存していました。

でも、今は壊れて手元にありません。

 

いつか出逢えることを信じて、この思い出を書きました。


2020.9.9

 

すばらしき仲間

 

すばらしき仲間(1979.5.20TBS放送)

 

 

深沢七郎、木下恵介、山田太一の三氏が鼎談したこの番組とても面白いものでした。

         

 

木下氏が「楢山節考」とか「笛吹川」を映画化させて貰ったお礼に、何か贈り物を深沢氏に送られたそうです。

すると返礼が深沢氏から葉書で来て

「負担になるから贈らないでくれ」

と書いてあったそうです。

         

 

せっかくいい原作を頂いて、本当に有難うございましたという感謝の気持ち一杯で贈ったのに、それはもう言いにくいことをズバリと書いてあって、びっくりしたそうです。

でも、木下氏は感心してその葉書を大事にしまったというから木下氏もまた面白い。

 

いかにも深沢老人と木下氏らしいエピソードで、笑いの渦の中で山田氏も「負担になりますよねえ」と頷かれていました。

文芸春秋20019月号の「いいにくい話」というエッセイを読んだらこのことを思い出しました。

 

 

あの番組が放送された頃、まだ山田さんは巨匠にはなっていらっしゃらなくて新進気鋭のライターでした。

木下、深沢両巨匠の間でちょっと堅くなっていらしたようにも思いました。

       

 

木下さんは山田さんを

「彼はあなた(深沢さん)の小説全部読んでます。彼も今小説書いたり、それを自分でドラマ化したりしています」と深沢さんに紹介し、山田さんには「とにかく君のドラマは最後まで見ちゃうんだよねえ」と仕事振りを誉めていらっしゃいました。

 

山田さんは深沢さんに

「深沢さんは凄くたくさん小説を読んでいらっしゃるように思えるんですけど、全然読んでいらっしゃらないのですか?」

などとビックリした思いを喋っていらした。

 

まあ深沢老人は曲者ですから、読んでいないって言ったって、何処までホントだか分かりませんが、大きな農家の囲炉裏を切った部屋で車座になっての歓談でした。

湯気だったのか煙草の煙だったのか忘れましたが、あの暖かく賑やかなモワモワした空気を今も思い出します。

 

あれは深沢老人の家だったのかな?セットとは思えなかったのだけど。

 

 

 

 

 

 

 

2020.9.10