しまいこんでいた歌
しまいこんでいた歌
演出 安井武
出演 中野誠也
片山万由美
松島正芳
浜田寅彦
可知靖之
香野百合子
佐藤あかり
田中壮太郎
ある休日。
リビングにいた中年男の前に突然妙齢の婦人があらわれ、
「私を好きにして下さい」
と言います。
中年男はびっくりして正気ですか?という対応をします。
裏口の鍵がかかっていなかったからと言って、勝手にあがって来て、何を思いつめているのか、私もうどうなってもいいんですなんて言って婦人はただ事ではありません。
もちろんまったく知らない女性ではありません。
婦人の娘を自分の会社に就職させるのに便宜をはかった間柄でもあり、数回その後も会ったという程度の関係です。でもこういう生々しいことを迫られる覚えはありません。
何をそこまで混乱しているのかと、かなり四苦八苦して事情を聞きます。
するとその就職をさせた娘が、会社を内部告発しようとしていると言います。
そんなことになれば、せっかくご紹介の労をとって下さった所長さんにも大変な迷惑がかかると言います。
男は某ガス器具メーカーの研究所所長です。
どんな内部告発なのか分からないけど、迷惑どころか自分の首もとぶ恐るべき事態に男は慌てます。
婦人は本当に申し訳ない、この上は私を気の済むようにして下さい、こんなことをしても済まないかも知れないけど、何かをせずにはいられないと婦人は混乱の中で気持ちを述べます。
何を馬鹿なことを言っている、気の済む済まないの問題ではないと男は呆れ、とにかく対策をとるので告発を何日か延ばすように言います。
男は部下を呼び、内部告発とはどんな内容なのか、娘を調べるよう指示します。
ところが部下は娘の恋人であったため話は意外な方向に広がり始めます。
実は内部告発をしたいと思っていたのはその部下であることが分かります。
気の弱い恋人に業を煮やした娘が、彼の背中を押すために内部告発をすると言ったことが分かって来ます。
叫びを胸に秘めているのに、叫べない恋人を持った娘の切なさがとらせた行動だということが分かってきます。
そうなると何を告発しようとしているか男には分かります。
分かるどころか部下の叫びに共感するものがあります。
しかしそんなことをしてどうなるという気持ちもあります。
内部告発などというものの「着地点」もほぼ見えているような世の中です。
胸に秘めたる思い。抑圧した思い。
それはあらゆる人が持っています。
その事件をきっかけとして、男の家族と、部下と娘の秘めたる気持ちが吐露されて行きます。
と書くとえらくお堅い話のように思われるかも知れませんが、基本は喜劇仕立てとなっています。
最初に登場する婦人もお詫びのために「好きにして下さい」なんて言っているつもりだったけど、本当の気持ちはそうじゃなかったのではないかなどと言いはじめ、自分の心の奥底の欲望に戸惑います。
男の気持ちの揺れ動きも、軽妙な笑いのうちに展開します。
不倫願望という男女の本音が、男の女房の鋭い追及の中で喜劇的に描写されます。
「王様の耳はロバの耳」ではないけど本当の気持ちが噴出する面白さを狙った物語はよくあります。
しかしこの舞台劇では、本音と言われているもの、あるいは秘めたる思いというものがその人の本当の気持ちであるのかという疑問が提示されて行きます。
この疑問は山田作品にはよく出てくるものです。
古くは「それぞれの秋」(TBS)で脳腫瘍にかかった亭主が無自覚に本音なるものを噴出させ、それを聞いた家族が傷つきますが、それが人間の本当の気持ちといってよいのだろうかと展開していきます。
「真夜中のあいさつ」(TBS)でも、深夜放送の戯画化された青春みじめ話みたいなものに対する違和が提示されます。
当時の深夜放送スタイルとして、青春は戯画化されたものとしてしか語られない傾向があったわけですが、それに対して「本当の気持ち」みたいなものをもう一度見直すべきではないかという論旨が展開されます。
リアルに対するあくなき渇望が山田作品にはあります。
「真夜中のあいさつ」で生々しい恋愛実況中継をやったかのように見せておいて、あれがあの二人の本当の気持ちとは限らないと語っています。
「本当の気持ち」
この魅惑的言葉に、我々は惑わされているような気がします。
ここにいる自分は本当の自分じゃないという言葉はよく耳にします。
「自分は本当はこんな仕事したくなかった」
「自分は本当はこんな人と結婚するはずじゃなかった」
「自分は本当は」という言葉は、ひょっとすると選択肢の数だけあるのかも知れません。
本当の自分はどれだけあるか知れはしません。
でもそれは玉葱の皮をむくようなもので、「本当の自分は」こうじゃないとむいていった果てに何もないのかも知れないというのはある程度予想のつくことです。
しかし今ここにいる自分は、少なくとも「本当」ではないということも分かっていることです。
会社を内部告発したくなるほどの不正義に加担している自分は少なくとも「本当の自分」ではない。それは間違いないことです。
しかし、そのことを叫んだにしても次の迷路が出現している。
「叫び」が人間の人間らしい根源的発露であると思われていた時代は残念ながら終っているのかも知れません。
この物語では唯一の戦争体験者のお爺さんが、こういう思い出を語ります。
軍隊の中で人間性を剥奪され、便所で首を吊ってしまう兵隊がいるほど苦しい日々の中で、ラッパ手だったお爺さんはこういうことを思ったというのです。
「新兵さんは可哀想だねーまた寝て泣くのかよー」というメロディーの消灯ラッパを吹いたあと、「蘇州夜曲」を吹いてやろうと。
あまりに哀しい気持ちがこみ上げて来てしまったので、
ボロクズのような皆に、甘い恋のメロディーを聞かせてやろうと。
もちろん懲罰ものです。
ところがふるえてメロディーになりません。プープーという変な音ばかり出て歌にも何もならない。
すぐに週番仕官らに見つかって半殺しになり営倉に放り込まれます。
結局達成出来なかった惨めな思い出でした。
だから忘れてしまいたいと思っていた思いだったが、八十過ぎてふとあれがなかったら自分の人生はなんだったのだろうと思うようになったとお爺さんは言います。
あんなに大勢に向けて、気持ちをワーッと吐き出すようなことはその後の人生にはなかったと言います。ある意味、人の一生は自分を押さえる一生ともいえます。
叫び、告発、本当の気持ち。
それらの言葉に従来の価値を見出せなくなった人々に、お爺さんはそのような思い出を語ります。
それがどのように皆に伝わったかは明確に描かれません。
最後にお爺さんの叫びの象徴である「蘇州夜曲」のメロディが舞台に流れます。
君がみ胸に
叫びの内実も、叫びの向こうにあるものもある程度見えてしまってはいる、しかし叫ぶことの有効性もまだ無くなっていないのではないか。
ある程度はあるのではないか。
そんなことを感じさせるかのようにしみじみとメロディが流れる中、舞台は暗転します。
告発の行方・・課題は観客それぞれに委ねられます。
―終―
2022.3.19