忍者ブログ

山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

チロルの挽歌

 

 「チロルの挽歌」

1992NHK前後編2回。

高倉健、大原麗子、杉浦直樹、河原崎長一郎他。

 

       

バブルの時代で、箱物行政がまかり通っていたころの話。

高倉健は鉄道会社の技術畑一筋でやってきましたが、「チロリアン・ワールド」という遊園地建設の責任者に任命されます。北海道の一地方に北欧風のレジャー施設を建てようというのです。


 

これまでのキャリアとはまったく違う仕事で、「大丈夫なのか?」という周りの目があります。

後年山田さんに聞いた話ですが、こういうことは当時よくあったそうです。まったく畑違いのところに役職で行っちゃう。天下り的人事というんでしょうか、まあ、バブルでイケイケの時代で、山田さんから見ると不安に思うことがどんどん行われていたようです。「千と千尋の神隠し」でも変な世界に入り込んだ時、最初に見る崩れた建物を、何かのテーマパークの残骸じゃないかと推理するところがありますが、今も日本のあちこちにそういうものがあるのでしょう。そういう時代でした。

 

 

高倉健は、箱物行政や自然破壊批判の矢面に立つことになります。

市長(河原崎長一郎)は、そんな批判があろうと切実に地域振興の願いがあり、炭鉱がさびれてしまった後の、地域活性のカンフル剤にしたいと夢を描いています。

 

それが物語の大きな背景ですが、本当のドラマは別のところにあります。

 
        

その赴任してきた街に、高倉健から逃げた女房(大原麗子)と男(杉浦直樹)がいることが分かります。

まったくの偶然です。

杉浦直樹は苦境の時に高倉健に助けられた過去があります。高倉健を恩人と思っています。なのに、その女房と仲良くなり駆け落ちをしてしまったという、謝罪会見(?)をしなきゃいけないような男なのです。

 

高倉健が来たので、大原麗子と杉浦直樹は慌てます。当然偶然なんてことは思わない。復讐であるとか、意図があってのことだと思い怯えます。

 

 

 

 

高倉健という俳優は東映の任侠路線を支え、寡黙でストイックなイメージで、男の中の男を演じて来ました。

倉本聰ですら「あにき」(TBS)で「男、高倉健」のイメージを踏襲しました。なのに山田さんは、高倉健に女房を寝取られた情けない役を造形するのです。

更に高倉健は、娯楽産業(サービス業)のトップについたため、部屋の中でひとり、トークの練習をします。無口では通らないのです。自分を変えるために、滑稽なくらい必死で練習します。

そしてこの自分を変えようとする動機は仕事のことだけではなく、逃げた女房の影響でもあり、女に引きずられているという、これまでの役柄にはない高倉健の一面を色濃く出してきます。

 

 

建設反対派の牧場主岡田英次は、そういう高倉健を揶揄します。

多くの使用人を抱える岡田英次は、かつての高倉健のイメージであり、男の中の男を体現しています。

ドラマとしては「男VS男」というシーンもちゃんと用意してありますが、大原麗子が何故出て行ったかと言うと、高倉健が無自覚に男らしさに埋没していたからこそ、愛想をつかしたということがあります。それがこたえている高倉健です。

 

ですから「男VS男」という展開も複雑なニュアンスが入ります。

そして間男をした男、杉浦直樹との対決もあります。それは大原麗子の主張であり、逃げてばかりはいられないと対決します。

しかし杉浦直樹は申し訳ないという気持ちが一杯で、大原麗子を譲ろうとしますが、それこそが腹の立つことで、男の気持ちばかりで女の気持ちを考えてないと怒ります。

 

岡田英次の、家庭や牧場における暴君的態度にも大原麗子はひるみません。

まるで「男の時代」から「女の時代」へ移っていく時代の旗頭のように大原麗子は主張するのです。

 

と書くと、とってもシリアスなドラマのように思われるかも知れませんが、ドラマは喜劇的展開です。

演出がもう少し洒脱だったら大笑いするところ多数なのですが、演出は、高倉健の重厚さがまさる世界に踏みとどまっています。

 

大原麗子はこの作品を「生涯の代表作」と言っていたそうです。


2020.12.24

 

PR