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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

朝のカフェで

 

              

老年期に入った時、山田さんは自分の性欲に変化(減退)が起きたと言っています。性欲に支配され、反射神経のように女性を分別するなんてことがなくなったとエッセイに書かれています。

 

その変化を根底にすえて書き始めたのが「朝のカフェで」(雑誌「小説トリッパー」朝日新聞社)という小説で、1回目を発表し、2回目を書き終えたところで、書き進められないと気づき執筆を中止します。そして18年経った今に至るまで止まったままです。

 

 

現在、この時の山田さんの年齢を越えた私に、性欲の変化がおきているかというと、おきていません。

まるっきりスペックの違う天才と比較しても始まりませんが、この問題は、一般的にどうなのか、老年期の性とはいかなるものかという問題を考えてみました。

とは言え、男の側の言い分というのは通俗的で「オレは生涯現役さ、舐めんなよ」とうそぶくばかり。逆に女性の側は「そんなもの、もうとっくに卒業したわよ」と言う人ばかり。どちらにしても、本当のところは周知されていないのが現実です。

 

キンゼイ報告という性レポートがアメリカを震撼させたのは1943年です。性に関する調査というのは長くタブー視されていて、女性にも性欲があるという当たり前のことが知られるまでには随分と時間がかかりました。

キリスト教などは、セックスは子をなすためだけのもので、女性の性欲なんてないと言ってはばからなかった時代が長く続いていました。

 

「恥かきっ子」という言葉があります。随分歳をとってからできた子供のことです。

繁殖に相応しい年齢があって、それを越えてからできる子供は「まだやってるの?」という目で見られ、「恥かきっ子」と揶揄されていました。

一神教の支配が薄い日本でも、セックスは繁殖のためだけだと思われていた時代があったということです。

 

その通念は理論的には覆されたのですが、ことは簡単ではなく、それぞれの地域の実情に今も縛られ続けており、そんな中で老人の性はとらえられているということです。

 

ですから、町中で見かけるお爺ちゃんお婆ちゃんが、キスしたりセックスしたりするのか?と考えただけで、「気持ち悪~~い!」と思う若い人が大半ですし、老人だけではなく、中年の夫婦ですら、「え?俺の親父やおふくろがキスするの?」と想像しただけで、おぞましい気持ちになるようです。

山田ドラマにすら、自分の父親と母親がキスするなんて想像できないという、若者の感受性が描かれたりしています。

 

 

性は繁殖期を基準に考えるという習慣は、今も画然とあると言えるでしょう。

しかしそれは間違いです。

 

還暦を過ぎても「私、いつまで濡れるのかしら?」と言う女性は存在するし、男のED問題も、いい薬が開発されて現役維持に役立っています。

老人の性生活はあるということです。

友人知人の話を総合すると、卑近な例で恐縮ですが、はっきりと断言できます。

老人の性というと、爺さんが若いおんなを漁っているという、いわゆる回春のイメージで見られがちですが、そんなものではなく、現代は老年期の男女がめくるめく世界を展開しているということです。

 

もう男性に見せられる裸ではないというハードルが女性を躊躇させますが、それを越えられれば、避妊の必要もない、繁殖にとらわれない、おおらかな性が待っています。

 

思えば繁殖期のセックスはひたすら慌ただしいものと言えたでしょう。

若いころは配偶者の選択で必死ですし、何人知っているからベストな配偶者を選択できるというものでもなく、最後の判断は賭けのような世界です。

結婚生活が始まっても、果たしてベストな選択をしたのか、ベストなセックスをしているのかという不安は、このマスコミ時代の中で常に揺らいでいます。

子育てが始まれば、落ち着いてセックスなどできない人がほとんどです。子供だけを見ていて、お互いを見ないという慌ただしさの中にあり、性生活もそういう流れになります。

 

繁殖期が終われば、そのしばりがなくなります。どれくらい豊かな世界かということです。子供を育て上げお孫さんもいる女性が、初めてセックスの味わいを知ったと言われる気持ちがわかるように思えます。

 

 

 

ただです。

ただ、セックスは、当然ですが相手があってのことです。

それがないと難しい問題となります。

若い人はおわかりにならないかもしれませんが、夫婦だからといって相手がいるという保証にはなりません。

セックスは肉体だけでするものではないという問題があります。

セックスは半分以上想像力の産物です。

女性がよく「愛してる?」と聞きますが、二人の間に愛が構築できていると思えるのは圧倒的な想像力に裏打ちされた世界です。

ベッドの上で、どれくらいお互いの想像力を刺激しあえるか、鮮度を持って向かいあえるかという問題です。

だから、長年連れ添った夫婦だからといって刺激しあえる関係でなければ、性生活は不可能になります。セックスレスの多さや、不倫の多発は、そういう問題への一つの答えだと思います。

 

そして老人のADLが問題になる時に必ず出てくる廃用症候群は、当然、性にもあって、その能力を使っていなければ廃れていきます。廃れて閉じていくお年寄りもたくさんいらっしゃいます。

つまり個人差がとても大きい世界だということです。

「恥かきっ子」と同義の世界なので、老人の性生活は公には語られません。週刊誌が「一生セックス」なんて煽情的記事にするだけです。

 

そんな時に山田さんは「朝のカフェで」を書き始めた。

性欲の減退という世の中の通念に寄り添う形のアプローチだったけど、老人の性を描こうとしたことは間違いないことです。

それが中断した。

残念な思いの山田ファンはたくさんいらっしゃるでしょう。

 

後年、山田さんは「減退」というエッセイで、断念の経緯をこう書いています。

 

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減退を根拠にして新世界如きものを小説に綴って来たが、結局のところこの老人にもひそかで切実なこのような性欲があったというようなかたちで人間の業を描くのでは、現実からどんどん離れてしまうという思いがあった。

 

挫折して、いくらか回復して、いまはまた勝手な空想の中にいる。

 

一人の七十代の男の性欲の減退を描こうとしたけれど、そんな話を書かせようとしたのは、僭越ながら時代なのではないか、という手前味噌である。

日本の社会に性欲の減退があるのではないか。社会が性の過剰より性の減退の意味を探りはじめているのではないか。

 

お前如きに、時代が何を託すのだ、といわれればその通りだが、時代はその時代を生きる誰に対しても時代の限界を強いるものだし、誰に対してもなにかを託すものだといえなくもない。

減退が頭を離れない。

 

「減退」(「月日の残像」新潮社)より。

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個人の性欲の減退の話から、時代の性欲の減退の話になってしまっては戸惑うばかりですが、そう言われてみれば、結婚率も下がり、男女の結びつきもどんどん希薄になっていっている時代です。そんな事実が減退を物語っているのかなとも思ってしまいます。

 

 

2017年に山田さんが倒れられてから、いろいろお話してきましたが、お体のリハビリとか、手紙を代筆するとか、そういう問題にばかり費やしていて、この問題を山田さんと話すことはありませんでした。

現在コロナで会うことができず、話もできない状態ですが、いつか「朝のカフェで」についてゆっくり話すことができればと思っています。

 

2022.9.1 4

 

 

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