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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

わしも介護をやってみた! (1) プロローグ

 

これは2005年に電子書籍で出版した作品ですが、もう絶版ですので、ここに掲載したいと思います。山田ドラマにもTVドラマにも関係のないお話です。

 

 

 

2004年私は老人介護施設のひとつである、デイサービスに勤め始めました。

介護であるとかボランティアであるとか、今日までそのような世界とはまったく無縁で来た男でしたので、全てのことが初めての体験となりました。

 

急速に、世界に例のないスピードで世界一の高齢社会に突入した日本。

長い時間をかけて高齢社会になった諸外国とは違う様々な問題に直面しています。

介護保険云々にしても、そのサービスの享受のされかた、選定の有り方、保険料のとられ方と、あちこちに軋みが聞こえてきます。

 

本質的に議論すべきことは山ほどありますが、現場は議論する場ではなく「いまある現実」として動いていました。当然でしょう。

その驚きと、戸惑いと、ちょっとした笑いに満ちた半年間の日誌を紹介したいというのがこの書物の目論見です。

でもその前にあるお話をしたいと思います。

 

それはさる女性が老人福祉先進国である北欧の国を見学に行かれた時のことなのですが、その方はある福祉施設に一本の大きな丸太のモニュメントが置いてあるのを目撃します。

なんの変哲もない丸太です。

「何故こんなところに?」と不審に思ったその人は、同行していたその国の福祉担当者に聞いてみました。

すると担当者はこう答えました。

「あの丸太が私たちの福祉の原点なのです」

丸太が原点?

いぶかるその人に担当者はちょっとだけ長めの話しを始めました。

 

 

福祉先進国などと言うと、何か心優しいすてきな国家を想像されるかも知れませんが、実はそうではありません。

この丸太を忘れるなという気持ちで我々は生きているのです。

四季に彩られた日本の冬と違い、こちらの冬は長くつらく厳しく、食べ物もさしてとれません。そのような土地で生きていくのは本当に大変なことです。食べて行くだけでやっとと言う時代が何百年と続きました。

 

昔、お年寄りは家族や村の人々の貧しい暮らしを助けるために崖から飛び降りて死んでいました。それほどに貧しかったということです。

しかし、当然ですが崖に立っても飛び降りられないお年寄りはいました。でも死なないわけにはいきません。

そいう時は後からお年寄りの背中を押す人が必要になりました。家族や村人が崖から突き落とさざるを得ませんでした。生活を守るためです。いた仕方ないことです。

 

でも、これまた当然ですが、その背中を押すことの出来ない家族はいました。人々の暮らしを守るために犠牲になることを覚悟したお年寄りと、死んでもらわねば生きて行けない家族なのに、暖かい血の通ったお年寄りの背中は押せません。

 

そこで丸太が登場します。

 

つまり崖に座ったお年寄りの背中に向けて大きな長い丸太を置くのです。そしてその丸太の片側から家族が押すのです。丸太の長さの分、罪悪感が薄れるなどということはなかったでしょうが、家族は泣く泣く丸太を押し、直接お年寄りを押している訳ではないという精神的ごまかしをする歴史が何百年と続いたのです。そうやって生活を守って来たと言うのです。

 

それが丸太の歴史です。

私たちは、もう二度と丸太を押したくないという気持ちで生きているのです。

たくさんの税金を私たちは払っています。でも、もう二度と丸太を押したくないのです。皆でお金を出し合うことによって丸太を押さなくてすむのなら、そのほうがはるかによいのです。

 

 

その話を聞いた女性は、日本人の福祉に対する捉え方との違いに愕然とし、このような意識を日本の老人福祉が持つのにどれだけの時間がかかるのだろうかと思わざるを得なかったそうです。

 

この女性とは私の先生です。

私は二〇〇四年の一月から「ホームヘルパー二級講座」に通っていました。

その時の講師がこの方でした。

長く在宅介護の現場で働いてきた方で、六十二歳の時にケアマネージャーの試験にチャレンジし、見事に資格を取得したというパワフルさに代表されるように、現場での実際はもちろんのこと、その立ち居振る舞いからも多くのことを私は学びました。

 

「ホームヘルパー二級講座」は現在様々なスクールや介護組織が開設しています。つまりそれほどホームヘルパーは不足しているのですが、現実としてヘルパーの資格をとってもそれを生かしていない方がたくさんいらっしゃいます。

 

それは哀しいことにホームヘルパーが職業として成り立ちにくいからです。薄給の上に雇用状況が不安定なのです。

例えば利用者さん(あ、利用して下さるご老人のことをこう呼びます)が入院したりなさったら、ヘルパーは仕事を失くします。他にも利用者さんはたくさんいらっしゃいますが、もちろんそこには他のヘルパーが行っています、自分があぶれたからと言って急遽割り込むわけにはいかないのです。つまりそういう不安定さが、如何に志があろうとも職業として成り立ちにくくさせているのです。

 

もちろんそれは在宅介護の場合ですが、施設の介護においても、安定性は在宅介護よりはあるものの薄給であることに変わりなく、あくまでもパートタイマー的収入を望む者しか残り難いと言う職場になっています。

 

そのような状況を先生は怒りをこめて語られ、職場の改善は当然ですが、そのようなことに失意することなくがんばっていただきたいと言われました。

特に私のように男性でヘルパーを目指す者はより一層の逆境が待っていると言われ、所帯持ちの給与が得られない中でどう乗り越えるか、大変な課題があると言われました。

もちろん男性ヘルパーの重要性は日々増しているのですが、諸般の事情からなかなか男性ヘルパーは定着しずらいという状態が続いているのです。

 

介護の現場は圧倒的に女性の力によってまかなわれて来た歴史がありました。男性の入る余地がないというか、男性に期待しないという時代が続いて来たと言ったほうがよいのではと私は思います。

そのような背景があったせいでしょう、私はヘルパーの現場実習で特養に行った際、働いている女性から露骨に誹謗されました。

「男はねえ、この職場ではいらないっていつも言ってんだ。ホントにこの仕事やるの?本気?あんたはねえ、朝から見てて感じるのは決定的に利用者さんに対する声かけが足りない。まったくなってない。そんなんでどうすんの?まあ、あんただけじゃないけど、男はさあ、要するに介護のセンスがないんだよ」と。

これは、私が利用者さんに「○○さんこんにちは。いいお天気ですね。今日はご気分如何ですか」などと巧みに話しかけることが出来なかったという事実を批判されているのでした。

その通りです。私はお喋りが苦手でした。頭でそういう台詞を思いつくことは時間があれば出来るのですが、女性のように即座に言葉を出すことが出来ませんでした。

私は眼前に出現した、寝たきり状態のお爺さんだかお婆さんだか性別すら判断出来ない人々の群れに戸惑い、ひたすら言葉を失くしていたのです。

 

でもそれは言い訳です。どのような時でも利用者さんに対して適切な言葉をかけられるようでなくてはなりません。昔から私は女性のお喋りに対する能力を驚嘆して見ていたのですが、この仕事をするからには驚嘆するだけではなく、はっきりと獲得しなくてはならない能力として私の前に立ちはだかってきたのです。

 

介護の現場は圧倒的に女性の得意とする、或いは得意な分野にせざるを得ない社会的圧力を女性に強いてきた能力で成り立っていました。在宅介護は料理や掃除や洗濯などの技術が要求されましたし、特養などでは、食事介助、紙おむつの交換など言ってみれば赤ちゃんを育てて来た体験が素養にあれば活かせるような事柄ばかりで成り立っていました。完全に男は不利でした。

 

私はやれるのだろうか。

かなり不安なものがありました。しかし先生は仰いました「寺尾さんは介護に向いているわ、とっても楽しみ」と。

私のどういう部分を見て先生が仰ったのかは分かりません。でも私は勇気付けられました。もちろん獲得しなくてはならないものは多々あるであろう。でも私は男性だから出来る介護もあるはずだという獏全とした思いもあったのです。

 

こうして私は「ホームヘルパー二級講座」終了後、就職活動に乗り出したのですが、うまく行きませんでした。福祉関係の職場であるだけに、どの面接担当者も優しく丁寧に接していただきましたが、何のキャリアもなく、やっと二級ヘルパーの資格を持っている程度では殆ど門前払いでした。

あるデイケア施設の女性経営者さんは「いまどき二級の資格なんて資格とは言えませんね」と笑っておられました。

そうなのでしょう。ある一定時間の受講をし、ある金額を払い込めば誰しもがとれる資格など資格とはいえないのかも知れません。オマケに私は五十三歳の中年男です。殆どの職場と同じように労働力とは認めていないのかも知れません。

 

そう、そういう自分の立場が私を介護の世界に向かわせているということがありました。

私はバブル崩壊後二回の就職活動を経験していました。その度に男性労働力は三十五歳を上限とし、それ以上はオマケのように求人があるという求人状況に突き当たりました。

一昔前なら「働き盛り」と呼ばれた年齢層は、どんなにキャリアがあり技術があろうと、いえ、そういう人権費をなまじ増やすようなものを持っているからこそ、返って疎まれる傾向が吹き荒れていました。

 

私たちの年代は、容赦のないリストラという試練をくぐり抜けようとしていたのです。

私は「ああ、自分たちは労働市場では『旬』を過ぎた『年寄り』なのだ」と思わざるを得ませんでした。事実私の肉体は老眼などが出てきていましたから尚更その傾向は身に沁みました。まるで丸太の前に座らされた老人のような思いでした。

 

そこで私は思いました。私はこれからどんどん老いて行く。ならば現実に今老いている人たちはどんな状態にあるのだろう。老いるということはどういうことなのだろう。こんなに若さだけに価値を置く時代をお年寄りはどんな気持ちで生きているのだろう。私は自分の未来を覘くような気持ちで「老人介護の世界を見たい」と思ったのです。

 

そして私は何回かの面接を繰り返し、やっとあるケアセンターに非常勤職員として採用されます。もちろん常勤職員としての待遇が望みでしたが、いきなりは無理でした。私は非常勤職員としてとにかくキャリアをつけようと思いました。

 

雇用してくれたのは福祉法人「草のちから」という組織で、老人介護だけではなく身障者の介護など多くの施設を抱えて活動していました。




 

2)初出勤 に続く。

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わしも介護をやってみた!(2) 初出勤

 

六月十八日(金)。

デイサービス初出勤。A勤。

A勤とは午前八時三十分から十七時までの勤務のこと。

あとB勤とC勤があるのだが、B勤は三十分遅れの九時からのスタートで、C勤は午前八時三十分から十三時までの勤務のこと。

ちなみにデイサービスとはお年寄りを毎日自宅まで迎えに行き、一日センターで入浴や食事やレクリエーションを提供し、午後再び御宅まで送り届けるというサービスを行うところ。このセンターでは一日二十名以上の利用者さんにサービスを提供しているらしい。

 

午前八時三十分送迎車三台が各利用者さん宅へ向かう。

私は運転もする予定で就職しているが、今日は初日なのでセンターに残り、皆さんを迎え入れる準備をする。

責任者の富士見さん(女性。三十歳。独身)にお風呂の準備、お茶の準備、消毒薬の準備の仕方などを細かく教わる。「でも男性は殆ど運転してるから、今後これをやることはまずないでしょう」と富士見さん。

 

やがて九時出勤のB勤者も加わり、更に準備は進み「送迎車到着です」との事務室からの声で一斉に一階玄関まで降りて行く。

このセンターがあるのは市の三階建ての建物で、一階は市役所の分室で支所となっている。二階がデイサービスで、三階に市民が自由に利用できる広い部屋が何室かある。そういう建物である。

 

目の前に車が到着し、先輩たちの驚くほどの明るい挨拶とともに、利用者さんのエレベーターへの誘導が始まった。

さあ時給八百四十円、週三十六時間労働の始まりである(それ以上働きたくともパートタイマー法で規制されている。所帯持ちどうする?)。

 

 

六月十九日(土)。

あっと言う間に一日が過ぎて行く。とにかく苦手なお喋りをするのが大変。そんなに話題なんてないし。その点、先輩女性は凄い。滑らかだ。そんな中でも、なんとか私もお話をして感じたこと。

 

あるお婆さん。

「こんなに楽しませてもらって長生きはするもんだねえ」と言われる。

「昔の年寄りはこんなことなかったですよ」とも。

 

また、あるお婆さん。

「私はこんなところに連れて来られる覚えはない。はっきり言って下さい。私が何をしたと言うんですか。どうして何の断りもなくここに連れて来たんですか、何も私は聞いておりません。○○を呼んで下さい」と息子さんだと思われる名前を言われる。返答に困っていると、富士見さんから「あんまり構わないで。今日はご機嫌ななめなの」と小声で言われる。

 

それぞれの利用者さんに特徴や癖があり、富士見さんはあるところは放っておくという態度を示す。要領が分からない私は戸惑い続ける。

やはり利用者さんにはお婆さんが多い。そしてよく喋る。お爺さんは寡黙な人が多いので、お婆さんのパワーがやたら目につく。

 

私ほど歳のいった男性ヘルパーは少ないかなと思ったらそうでもない。定年後に来る人が殆どらしく年輩者ばかりで、老老介護になっている。ある人に「若いね」などと言われる。ビックリ。

 

同性介護を原則とするこのセンターでは常時三四人は男性がいるようになっているらしい。

 





(3) 叱責と職場バランス に続く。

わしも介護をやってみた!(3) 叱責と職場バランス。

六月二十一日(月)。

初めて送迎車に乗る。

送迎車には運転手と添乗員という二名が必ず乗るのであるが、当然今日の私は運転手ではなく添乗員としてである。しかもちゃんとベテラン添乗員(女性)がいて、そのオマケとして乗り先輩のすることを見て学習するという構成である。

 

いや、とにかく凄い。

先輩女性のまるでバスガイドの如きトークに驚く。よどみなく話は続き、しかも一方的語りかけではなく、ちゃんと利用者さんを巻き込んで話が広がって行く。非常に楽しいお喋りの輪を展開させているのに、ちゃんと走行中の利用者さんの安全もチェックしている。

 

恐るべき女性である。まるで映画「七人の侍」の宮口精二の如き剣の達人という感じ。とても私はこんなに喋れないし、これほどあちこち配慮出来ない。

どうする?

 

 

 

 

六月二十二日(火)。

前日の送迎初参加の時は運転手と女性添乗者(宮口精二の如き剣の達人)と私(見学)という構成だったが、今日は運転手(パート女性)と私という二人だけなので慌てる。今日も見学扱いだと思っていた。

 

最初に行ったお婆さんの家でノックをしても声をかけても出て来ない。狭い道路に止めている車が邪魔になり何回か通行する車の回避のため運転手が動きまわる。あせるがお婆ちゃん出てこない。やっと返事があり裏手の縁側越しに話をすると眼鏡がないと大騒ぎしている。

 

眼鏡は三四個新聞の上にあるのだが、それではないと言う。あちこち探すがみつからない。運転手、やっと車の回避から戻って来る。「早くして」と焦れる。ベテランならこういう時いい方法をもっているのだろうなと思うが、私にはお婆ちゃんの「捜索」に付き合うしかない。

 

結局どれでもいいからかけて行こうということになり、この眼鏡は合わないんだけどと渋々のお婆ちゃんをやっと車に乗せる。この方は土曜日も眼鏡忘れたとセンターで一日中言っていたことを思い出す。

 

「今日帰ったらゆっくり探しましょうね」と私が言うと「玄関の鍵閉めたっけ」と言う。「私が閉めてあげましたよ」と言うと「ああ、今日はあんたが迎えに来てくれたんだね」と縁側で私と顔をあわせた時と同じことを言う。土曜日に一回しか会ってないのに私の顔を覚えていてくれていたことが改めて嬉しくなる。

 

台風一過の快晴のもと狭い道のお迎えが数軒続く。クーラーがきき過ぎていないかシートベルトは確実にかかっているか、車椅子のロックは万全かと気にしながらも、利用者さんにリラックスしてもらえるよう話題を探す。でもなかなか舌は回らない。お喋りタイプでない自分を呪う。

とにかく狭い道なのでやがてここを運転するのかとそちらの恐怖も走る。しかも各御宅が何処にあるのかまったく分からない。利用者さんへの気遣いで道路のことまで覚えてられない。

 

 

さて一日があっという間に終り、送り届ける時間となる。

当然送りも添乗となるが運転手(女性)が朝と違い送る利用者さんも二三名多い。でも眼鏡のお婆ちゃんは一緒。

狭い住宅街を送り続け最後がそのお婆ちゃんひとりとなる。私はお婆ちゃんに再度「家に帰ったら眼鏡さがしといてね」と言うと「眼鏡かけてるよ」と言う。私は「それは合わない眼鏡でしょ」と言うと「あ!これ違う眼鏡だ」と驚く。「だから今日探しといてね。絶対家の中にあると思うから」と私は念を押す。

 

その会話がよくなかったと思うのは、お婆ちゃんを送り届けて運転手と二人きりになった時だった。その女性運転手は私という新米に注意をされた。

まずその眼鏡のお婆ちゃんが降りる時、手荷物と杖をお婆ちゃんに持たせていたこと。荷物などが車内の何かに引っ掛かり、転倒や骨折をすることがあるので必ず介助者が持つこと。絶対守って下さいと言われる。

 

そしてもうひとつ。

これは注意と言うより殆ど怒っているという感じで女性は言った。

言葉遣いがよくない。馴れ馴れしいと言う。

え?と意外に思う。むしろ他人行儀で堅すぎる言い方ではないかと私は思っていたのだ。

 

あなたはあの利用者さんと人間関係を築いていますか?と女性は聞く。当然人間関係を築いていますとは言えないので「いえ」というと、だったらどうしてああいう口調になるんですか?眼鏡探しといてねとか、どうしてああいう口調で言えるんですか?ちゃんと人間関係を築いてからならいいけど、築いてないあなたがそんなこと言えないんじゃありませんか?確かに痴呆のある方だけど。と言う。

 

意外な成り行きにちょっと私は言葉が出ない。「すみません」と謝るしかない。

私はあのお婆ちゃんが私を覚えてくれていたので「距離」は一気に縮まったと読んでいたのである。あの朝のエピソ-ドの続きで私は話してしまっていたが、朝のエピソ-ドを知らないこの女性には、余りに馴れ馴れしい対応という印象を与えたのかも知れない。

朝の運転手の女性であれば私の態度があるていど了解できたかも知れないが、それを知らない人が見たら、なんて馴れ馴れしい奴だと思われることは間違いないと遅ればせながら気付く。

 

この女性は非常勤ではなく常勤で、数年のキャリアの二十四五歳と思える人なのだが、この職場に転勤してきてからはまだ数ヶ月という外様状態で、古株のパートさんと「妙な心理戦」をやっているフシがある。

サービスのやり方を巡っても微妙な対立があるようで、送迎車のドアを開けた途端「きゃあ、寒い」などと批判がましいことをさらっと言ってのけ、その時の添乗女性(宮口精二の如き剣の達人)が「寒いかしら?」などと憮然として私に聞く局面も昨日あった。

 

私の未熟。社内の人間関係。課題はたくさん。

 

 

 

(4) 新人の立場 に続く。

わしも介護をやってみた!(4) 新人の立場。

 

六月二十四日(木)から六月二十九日(火)。

お年寄りを迎えに行くと、結構家から誘い出すのに手間取る。

行きたくないという人もいれば、出発の段取りでいつまでもかかり、妄想も入っている人もいるので車に乗せるまでが本当に一苦労。

 

家族はそんなお年寄りに辟易していて「ほらあ、待ってらっしゃるんだから、さっさといきなヨ」などと怒鳴る奥さんもいる。あるお爺さんは銀行に行かなきゃ行けないと言って、通帳が入っているかどうかとバッグの点検をしないと車に乗れないと大騒ぎ。

このお爺さんはよく満州に戦争に行った時の話をされる。

とても辛かったとのこと。看護婦が十数名自決をしたことなど、まるでお経の如く同じ話をされる。聞いていると他のことが出来なくなるので、やはりある程度のところで切り上げて放っておきなさいと先輩に言われる。その切り上げ時が分からない。

 

ああ、要領悪すぎ。

 

 

 

私を叱責した常勤女性はやはり古株パートと根深い対立があるようである。二十九日の終業ミーティングでは女性パートさん(宮口精二の如き剣の達人)が施設のカラオケ機器やビデオ鑑賞の際のビデオ操作を全員に改めてレクチュアしたほうがいいのではないかと提案したところ見事に却下するという「事件」がおきた。

 

車椅子のリフトへの乗せ方などはレクチュアされるのだが、同じように他の機器もする必要があるとパートさんは主張。でも常勤女性はその都度でいいのでは、わざわざ時間をとる必要はないのではと主張。

パートさんは、利用者さんの目の前で、待たせつつそんなことをやっている時間はないでしょう、それこそ利用者さんに失礼ではありませんかと反論。しかし常勤女性は言葉こそ優しいものの、のらりくらりと意見を却下。パートさんは憮然。

その意見は随分前に文書としても提出しているとのことだが、数ヶ月前に管理体制とメンバーが大幅変更されたことに伴いうやむやになっているらしい。

この新しい管理体制とパートさんの意思疎通が円滑にいっていない局面がこんなに露骨に出るとはと驚く。

 

今センターには新人が四人入っていて、曜日によっては人が多いという状態になっているのだが、それは新人の成熟とともに古株を追い出すという戦略と思え、私たち新参の立場も微妙なところである。

 

 

 

(5) ハゲ頭を洗う必然性 に続く。

わしも介護をやってみた!(5) ハゲ頭を洗う必然性。

六月二十八日(月)。

初めての送迎運転は大失敗。

お年寄りの体を慮って慎重に運転し過ぎ予定時間を大オーバー。皆さん予定時間に準備して中には外で待っている人もいるというのに。

というのも送迎運転というのは、通常の運転とはまったく違う配慮を要求される。急ブレーキ急発進はもちろん絶対禁止だが、それは一般的な意味ではない。普通の発進とブレーキがすでに急なのだ。

それほど利用者さんの体にかかる負荷を考えなくてはならない。

車には通常二台の車椅子が乗っているが、この車椅子に乗った状態の揺れというのも独特である。実際に私も車椅子に乗って普通の運転をされたらどうなるかという体験をさせてもらったのだが、とてもファミリードライブのような気持ちの運転は出来ないと感じた。

 

また道路というのは実に起伏に富んでいる。舗装はされていてもマンホール部分は洗面器の底のようにへこんでいるし、舗装が取れている部分も多々ある。それを避けながら走るのだが、避けきれないときは「穴」に降りる時にゆっくりブレーキを踏みながら降りて行く。そしてゆっくり「穴」を上って来るという操作を繰り返す。そうやってガクンという揺れを防ぐのである。

 

もちろんそんなのんきな運転が出来るのは狭い道の時だけで、ある程度広い道に出ると後続車をイライラさせるので出来ない。停車して後続車に追い越してもらったり、あるいはある程度の揺れは仕方ないと判断して走る。

この仕事は自分の車だったらこんな狭い道は絶対走らないというところばかり走る。それは利用者さんの住んでいる周辺は当然生活道路ばかりということに由来する。どの道も殆どが昔農道だったところである。とてもとても車が走るような道ではない。

しかし送迎車は出来うる限り利用者さんの御宅前まで行き、必ず玄関まで添乗員が送り迎えをするように義務付けられている。車のドアの向きまで利用者さんの家向きにして停車しなくてはならないので、わざわざUターンしたり細い路地をバックで入っていったりするほどである。

 

 

七月三日(金)。

富士見さんが「この仕事は入浴介助が一番大変です。それに慣れさえすればね」と言っていたが、確かに入浴介助は大変である。

湯船につかるわけではないが一時間以上浴室内にいて、利用者さんの体を洗い、利用者さんが代わるごとに椅子や洗面器を洗う。更に個浴という個人向きの小さな浴槽も人が代わるごとにお湯を抜き、掃除し、再びお湯をはるという汗だくの仕事である。かなりのスピードが要求されるし、浴室の熱で意識朦朧となる。

 

しかも入浴というのはもっとも危険な作業である。利用者さんの転倒の危険はフロアよりはるかに高いし、介助も裸体ゆえにつかまえるところに限界がある。一歩間違えると死亡事故につながりかねないのだ。

 

意識朦朧状態で何人も洗っていると、洗う順番を忘れそうになる。利用者さんの体を洗う順番やその都度の声かけはマニュアル化されている。まずシャワーからお湯を出し利用者さんの手にかけ温度確認をしてもらう。ぬるめが好きな人もいれば熱めが好きな人もいる。その確認をしてもらってからシャワーを体にかけ始める。この時必ず自分の人差し指をシャワー噴出し口に出しておく。これはふいに温度が変わった時の用心で、隣の人のシャワーが出るだけで温度が変わることもある。

 

そして「では、頭にかけまーす」と言って頭にかける。「シャンプーつけまーす」と言ってシャンプーをつけ洗い始める。「何処か痒いところ御座いますか」と必ず聞く。頭を泡立てた状態で「では手に石鹸をおつけしますからご自分で顔を洗っていただきますか?」と、あくまで強制ではなく促しで、利用者さんの手に石鹸をつけ、利用者さんに顔を洗ってもらう。そして頭にシャワーをかけシャンプーと石鹸を流す。

 

それから体である。体は背中と腕は洗ってあげるが「(体の)前はご自分で洗われますか?」とタオルを渡す。利用者さんのADL(日常生活動作能力)によってそこから先は変わって来るが、全部洗ってあげなくてはならない人もいるし、殆どまったく介助の必要のない人もいる。

 

さてこの前から気になっているのだが、この頭をシャンプーする時のことである。

ハゲ頭の人がいるのだ。

シャンプーは一応かけるが、やはり頭頂部は泡がたちにくいので耳とか首筋近くの多少髪の毛が残っているところで泡立てる。その泡を頭頂部に持って行って洗うという行為を行う。

その時、洗う必要あるのかなーなどと失礼なことを思ってしまう。でも頭に油も出てるしやっぱり洗わなきゃいけないんだろうな。つるつる指がすべるだけで虚しさを感じるのだけど・・・・。

 

 

 

(6) 評判と不評 に続く。