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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

山田作品にあらわれる超常現象。

山田作品にあらわれる超常現象。

 

 

おぼろげな記憶ですがテレビ小説「藍より青く」の中で、誰かが死んだ後、玄関に置いてあった電話が深夜に鳴り、驚いて皆が来ると電話は鳴り止み、それは死んだ人が鳴らしたのだと思うという、そんなシーンがあります。

 

 

 

それが何かの伏線になっているとか、そういう事ではなく、生活や心情描写のひとつとしてそういうシーンがあります。

 

 

 

「チロルの挽歌」では後半に炭鉱で活況を呈していた頃の人々が街中を歩くシーンがあり、それが一人の幻覚という扱いではなく登場人物全てが見るという筋立てになっています。

 

      

 

「夏の一族」でしたか確か、アパートの部屋が光り輝きます。

 

      

その他あげていたらキリがないほど山田作品には超常現象あるいは超常現象として自然に登場人物たちが解釈するというシーンが現れます。

 

 

 

 

「異人たちとの夏」や「飛ぶ夢をしばらく見ない」などのように、ある怪奇な話とかファンタジーというカテゴリーに入ったものは了解できるのですが、とても現実的な話にふと入って来る超常現象を魅力的に感じつつも、作劇術としてはどうなのだろうと少し違和感をもって見てしまいます。

 

 

 

大抵の物語では不思議なことは幻覚という扱いとなるか、もしくはなんらかの合理的解釈がなされるというのが常識です。

 

 

でも山田作品ではそういうことはなく、不思議を不思議として受け入れなさいと言っているような気がします。不思議込みで生活だよと言っている感じがします。

 

 

 

勿論山田さんは宜保愛子のようなオカルトの世界の人間じゃないことはハッキリしていますが、オカルト的要素で人の心の側面に光を当てるという作劇術以上ののめり込みが見てとれます。

 

 

「日本の面影」ではそういう超常現象を有る無しという観点で捉えるのではなく、超常的世界を許容した世界の方が「豊か」ではないかというラフカディオ・ハーンの論旨が述べられますが、恐らくそういう意図でのエピソード挿入ではないかと思っています。

 

 

 

 

私は骨の随まで合理的解釈という世界に汚染されているからちょっと違和を感じるのだと思うのですが、こういう世界を皆さんはどう捉えておいででしょう、お聞きしたいものです。

 

 

 

 

 

という書き込みをしました。

すると、私のような違和感を持たれる方は多くいらっしゃるようでした。

 

ある方は「魂の現実」というキーワードを持ち出されました。

つまり山田作品のリアリティーが、生活というレベルから魂のレベルに深まっているのではというのです。

 

魅惑的言葉です。

 

それを受けて私は次の書き込みをします。

 

 

 



 

 

「裸の島」という新藤兼人の映画があります。

 

殿山泰司と音羽信子の夫婦が、水すらない小さな島で畑をたがやし、子供を育て、貧しいけれども黙々と生きていく姿を描いたものです。

若い頃これを見て感動しました。

 

 

 

見てすぐにその話を山田さんにしました。

すると山田さんはちょっぴり批判的で、新藤さんらしいとらえ方だけど、でも現実はあそこまで単純じゃないのではと言いました。

 

私は、でもドラマというのは現実の複雑さをどれだけ嘘なく単純化できるかということでもありますよ、僕は良かったけどなあと少しふくれました。

 

 

いや、君のいう良さというのは分かるよ、でも現実はああじゃないと思う。

もっとオバケみたいなものがあると思う。と山田さんは言うのです。

 

 

 

 

そのオバケみたいなものという意味がその時よく掴めませんでした。

 

そういう会話があったせいでしょう「藍より青く」で電話のシーンが登場した時とても印象に残ったのです。

 

 

 

それから伊丹十三の「お葬式」を巡って話をした時、その映画を認めつつも批判は人間の死を即物的な死としてしか捉えていないという点に向かいました。

 

 

その二つの会話が私の頭から離れないのです。

 

山田作品がテレビから小説や舞台の方に軸足が向いてからは、特にファンタジーという仕掛けの中でこそ掬い取れる現実という世界に突入して行ったと思います。

 

 

そして平行して発表されるテレビドラマの中でも超常現象のあらわれる確率が高くなります。

 

それは山田さんが変化したわけではなく、昔からその考えはあり、現状のテレビでは出せない世界であると控えられていたものが、あるとき「もういける」と思われたのではないかという印象で捉えています。

 

 

 

 

 

生活の中にあるオバケのようなもの。

 

 

それがこういうことなのかと私は個人的に思っています。

「死の準備」というエッセイの中でもそういう体験をしていると書かれていました。

 

どのドラマの超常現象も、なんだオカルトかとしらけることはないのですが、魅力あるシーンとして感銘しつつも、やはり自分の中の合理性がどこかで違和を感じているのです。

もちろんそれは山田さんも十分承知の上で書いているように思えます。

 

山田さんは「不思議込みで生活だよ」ともう主張してもいいと思っているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

そういう意味で「彌太郎さんの話」は、違和を感じさせない作品でした。

 

ファンタジーという仕掛けを用意しなくとも不思議だけど現実という世界、まさに「魂の現実」を描写することに成功した作品ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

あの作品を私は「人生は記憶に過ぎない」という言い方で評価しましたが、人間が生きていくことを感じ取り咀嚼していく世界というものは、けっして五感という合理的なものだけによってないということは多くの方が知っておられることではないかと思います。

 

 

 

 

オカルトではなく、まさしく生きていくということは「魂が体験していく世界」とでも言いたくなるものがあります。

そのぎりぎりのところを山田さんは書いていこうとしているのだと思っています。

 

 

 

 

という書き込みをします。

するとまた、更に違和体験が語られます。

 

そして再び私は書き込みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初からオカルトっぽく統一されていれば問題ないけど、とてもリアルな世界の魅力でひっぱっておきながら途中で「不思議」を出されちゃうと「え?」という気持ちになるのだと思います。

 

 

 

でも山田さんは「合理的なものだけで人生が解釈できるか」という根本的疑問を持っていると思います。

 

 

 

それは作劇術にまで及んでおり、常々合理的説明という「アリバイ証明」をすること自体が「不思議」を否定することになるのだとでも思われているふしがあります。

 

 

 

 

だからと云って山田さんが死後の世界なりなんなりを信じているかというと、それに関しては「死の準備」で否定されていますから、我々は途方に暮れてしまいます。

 

 

 

「死ぬのは他人ばかり」という外国文学者の言葉をよく引用したのは寺山修司氏で、どういう意味で寺山氏が引用されたのか分かりませんが、確かに合理的に言えば死が自分の人生に訪れた時、自己の意識は無くなっており、それはもう人生ではないのですから、死者というのは常に他人ばかりということになってしまいます。

 

 

 

 

人間関係が自己を作り上げている面は多々あり、他者なくしては自己は存在しないと言ってもよい位だと思います。

 

 

 

 

 

 

それは生きている人間との関係だけにとどまらず、「死者との人間関係」もまた自分たちに抜き差しがたい影響を与えているのだというのが山田さんの主張ではないかと推測しています。

 

 

死者が亡くなる前は当然のこと、死後も関係は深いところで続いているということなのだという主張だと思います。

 

 

 

 

 

だから死後が実在するかどうかという問題ではなく「死」がもたらすふくよかな思いとも言うべきものを山田さんは重要視しているのだと思います。

「死」が人生にもたらす影響を「合理的世界」は無視していると思われているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

それは心の中の問題として提示すれば良いのではなどと私は思ってしまうのだけど、山田さんはもう一歩踏み込んだ「オカルト」まで行かないと気が済まないようです。

 

それは「魂の体験」とでも呼ばないと説明出来ないような思いが人生にはあり、合理的ルートを使っているといつまでも到達しないという気持ちのあらわれではないかと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

今村昌平の「赤い殺意」で突然洗濯物がふわーっと飛び、ひとりでに小屋に入り扉が閉まったり、運転士もいない路面電車が雪の中を走っていたり、「神々の深き欲望」で嵐寛寿郎のでっかい顔が突然夜空に現われたりと、リアルな中に突然シュールな場面が出てきますが、今村さんを敬愛する山田さんはそのイメージなのかも知れません。

 

 

 

 

 

でもあれほど庶民のリアリティを描写できる山田さんの作風だと、シュールは似合わないという感じがあり、違和感はそこから来ているのかも知れません。

 

 

 

 

 

 

この辺が私の解釈の限界です。

 

 

 

 

 

 

 

そしてまたいろいろ掲示板上に発言があるのですが、

次の私の書き込みでとりあえず終わりとしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

超常現象にはまったく縁がなく、いくつになっても幽霊が怖い自分としては縁がなくて良かったとしみじみ思っています。

 

でも、そんな私が子供の頃不思議な怖い体験をしています。

 

いえ、もののけを見たとかそんなハデな話じゃありません。

 

我が家の前に小さな空き地があり、そこに、たち葵の花だったと思いますが群生していて沢山の紋白蝶が蜜を吸いに来ていました。

         

その蝶の数といったらおびただしいもので、満開状態の花の全てに蝶がくっついているような有様で、うっかり近づくとまるでポップコーンがはじける様に一斉に白い蝶が飛び立ちました。

 

その蝶をチャンバラ大好きの「少年剣士」である私は「修行」の為に斬ろうと思ったのです。

 

都合良く細い鉄板が手に入り、木刀ではないちゃんと鉄仕様の刀を作ることが出来たところだったので、気分は上々でした。

 

 

 

わっとはじける蝶の群れに飛び込んで、縦横無尽に斬りつけました。

 

何しろ凄い数なので、必ずと言っていいほど刀は蝶に当たり、次々と地面に落ちて行きました。

まさに子供というものの残虐さだと思いますが、私は「修行」に夢中になり、春の暖かい日差しの中で斬られた花と蝶が散らかっていったのです。

 

 

しかし、ある蝶を上段から斬り降ろした時、私は凍りつきました。

 

 

その蝶は花にとまる寸前でしたが、私の刀は、丁度羽のつけねの胴体部分だけを綺麗にストンと切り落としたのです。胴体の向いている方向と刀の方向がピッタリと一致してしまったので、そのようになったのですが、余りに早かったのでふたつの羽だけが空間に開いたままポツンと残ってしまいました。

 

その残った羽は、なんと胴体をなくしたにも関わらず、まるで胴体があるかのようにふわりと羽ばたき、そして花にとまりました。

 

 

蛾と蝶の違いは、蛾はとまっても羽を広げたままだけど、蝶は羽を閉じるということですが、その蝶も、羽だけなのに花にとまるとピッタリ閉じたのです。

 

そしてまるで密を吸うかのようにしばらく息をして、やがて、パラリと二枚に分かれて落下していきました。

 

 

 

戦慄しました。

 

 

例え胴体を無くそうと、蝶という全体の意思は羽に至るまで宿っており、そのプロジェクトは簡単に止めることは出来ないということなのでしょうか、命は簡単には停止できないということなのでしょうか、昼下がりの午後、さんさんと太陽が降り注ぐ中、私は立ち尽くしました。

           

首斬り刑があった時代に、首を斬られた人はどの時点まで意識があるのだろうと考えたことがあります。

 

例え胴から頭が離れようと、短い時間にせよ血液は巡っているはずで、斬られた瞬間に意識がなくなる訳ではないのではと思います。

刀が首を切断する痛みも感じている筈です。

ショックで気絶しない限り。

 

 

手足を全て無くし地面に転がり落ちる、意識体としての首。

必ず祟ってやると明言し、その証拠に首切り人の足元の岩に噛みついた生首の話もあります。

 

 

その後、私が二度と蝶を斬れなくなったことは言うまでもありません。

 

 

死はどこから死なのでしょう。

 

 

 

2020.9.18

 

 

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