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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

春の一族

 

「春の一族」

1993NHK土曜ドラマ連続3回。

 

       

緒方拳主演の、都会の孤独を扱ったお話。

 

都会の孤独という言葉は、都会が出来た時からあったでしょう。でもそれはマイナスイメージではなかったと思います。

岡林信康の70年代の歌に「俺らいちぬけた」という歌があります。

 

田舎のいやらしさは 蜘蛛の巣のようで

おせっかいのベタベタ 息がつまりそう

だから俺は 町に出たんだ

義理と人情の蟻地獄

俺らいちぬけた

 

 

きらびやかな都会の陰にひそむ孤独は、「義理と人情の蟻地獄」に悩む田舎の人にとっては魅力だったと思います。一人である幸せ。

それが、ある臨界点を超えた時、

都会の魅力を堪能するだけでは孤独をカバー出来なくなってきた。

あまりに多くの人が集中し、その巨大さ故に人々は虫ケラのようなものになってしまった。

 

 

 

ところが町の味気なさ 砂漠のようで

コンクリートのかけらを 食っているみたい

死にたくないから 町を出るんだ

ニヒリズムの無人島

こいつもいちぬけた

 

 

と岡林信康は続けます。

 

 

山田ドラマは、人づきあいは鬱陶しい、でも独りじゃ淋しい、そんなジレンマを抱えた世界を丁寧に描きます。

ひきこもりの高校生浅野忠信。

宗教に入れ込む女子大生中島唱子。

都会を堪能したい女子大生国生さゆり。

政治家の夫と離婚係争中の十朱幸代。

そして勤め人の憤りを背負った緒方拳。

 

         

お節介ドラマと山田ドラマは言われることがありますが、ここでも緒方拳はお節介を発揮します。都会の中にエアポケットのように残った古いアパートを舞台に、お節介の糸に絡まっていく人々。

 

 

でも、お節介を発揮する緒方拳も決して人が好きというキャラクターではなく、むしろ人間関係のいやらしさに辟易しているような人間で、どんな煮え湯を飲まされてきたかということが後半描かれます。

それゆえの、孤独がもたらしたゆえの、ふれあいを願うお節介のようでした。

       

 

それぞれのキャラクターは、善人といえば言えるでしょう。

しかし決して無謬ではない。

緒方拳自身も煮え湯を飲ませられただけではなく、煮え湯を飲ませた過去がある。

そんなバランスの人間関係が語られます。

 

            

 後半にある、アパート管理人江戸屋猫ハとその友人内海桂子のエピソード。

呑気に頑固に昔の価値観の中にいる年寄りかと思いきや、江戸屋猫ハの女房が自殺未遂をすることにより、内海桂子と女房が生臭い確執の中にいることが分かる。

年寄りもまた現在を生きており、年寄りが枯れた世捨て人のように生きているのではという通念を覆します。

 

 

 孤独な話です。

簡単には解決つかない話を、いつもの如く、山田ドラマという枠の中で、ひとときの交流を描きます。

 時代的には2年後にオウム真理教が摘発され、3年後に阪神淡路大震災が起きます。

 何かとんでもない厄災が起きたら、大手JVの手抜き工事だとか、今は隠蔽されている様々なことが一気にあらわれのではないかと、山田さんがドラマを書かれた頃言っておられた。

 

このドラマはそんなことを内包しつつも、問題劇的な糾弾になることなく、あくまでも、それぞれの個人的淋しさに寄り添うというスタンスに限定したドラマとして描かれていると思います。




2020.9.16 

 

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