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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

パンとあこがれ

                    

 

「パンとあこがれ」(1969年TBS作品)の最終回について書きたいと思います。

 

 

若い方はまったくご存知ないドラマですので、若干の説明をしたいと思います。

今はもうなくなってしまいましたが、NHKの朝のテレビ小説に対抗すべくTBSがスタートさせたテレビ小説の中の一本です。

                

新宿中村屋創業者の手記を原作とした話ですが、「もうほとんどオリジナル」と山田さんがいうような想像性に溢れた物語となっています。

         

 

明治中期仙台の没落士族の家に生まれた綾(宇都宮雅代)という女性が、テレビ小説らしい明るい向上心で明治大正昭和を生き抜くという物語です。

 

明るい向上心といってもよくあるテレビ小説のノー天気な人物ではなく、おりおりの時代の暗部と必死で格闘する、光と影の物語です。

 

「パンとあこがれ」というタイトル通りパン屋さんの話ですが、このタイトルにこめられたものはおそらく「人はパンのみに生きるに非ず」からきたものと思います。

 

パンを食べる肉体を持った生理としての人間と、あこがれ、つまり人間の恣意性を信ずる人間、現実と理想ふたつの世界の相克を縦横無尽に書こうという意欲の現われたタイトルだと想像しています。

 

 

この物語の中で一番私が感動した部分は、綾が下宿させた若き画家と不倫の恋に落ちるところです。

かといって今のドラマみたいに露骨な描写はひとつもありません。

日常の一挙手一投足のなかに気持ちが滲み出てくるドラマです(向田邦子の「あ・うん」のような)

 

酒も飲めない実直一筋の男相馬竜蔵(東野孝彦)と結婚し、生まれた子供も親戚の家に預けて懸命にパン屋を営む綾たちの生活に入って来た切ないできごと。

 

画家とは、かつて画学生だった頃、外国に絵の勉強をしに行く際に二人で援助した間柄でもあります。

心細げに船に乗って渡航した時から数年ぶりに日本に戻ってきて才能を認められようとしている画家なのです。

 

二人は部屋を提供し応援します。

こころよき人間関係、円満そのものの三人の関係が破綻し始めるのは愛情ゆえです。

 

綾と画家の間に好意以上のものが発生してしまいます。

綾の初恋の人が、おなじく画学生だったという伏線もきいています。

絵を仲立ちとして二人の距離が縮まります。

 

決定的に破綻するのは、呑めない筈の夫がぐでんぐでんになって帰って来た時です。

夫は聞いてしまったのです。

綾と画家が言い争う声を。

いえ、それは言い争ってはいましたが「愛の交歓」でした。

 

 

画家は洗い物をしている綾の後姿に向かって言います。

「奥さんが相馬さんとの生活を大切にしておられる以上、私はそれを壊そうとは思いません。でも一度だけ言わせて下さい。そうでなければ切なくてかないません」

 

綾は「そんなこと言っちゃいけません」と叱責しますが、画家は止まりません。

控えめですが、ぎりぎりの気持ちを画家はぶつけ、綾は叱責しながらも揺れます。

 

 

ひとつ屋根の下で暮らす者が少しずつ好意以上の気持ちをお互いに募らせていくつらさ、そしてそれを薄々感じる夫の切なさ。

静かな家庭の水面下で息詰まるような気持ちのうねりが三人を追い詰めて行きます。

 

そして決定的な言い争いを聞いた夫は無理して浴びるほど呑んで来ます。

 

 

ぐでん、ぐでんに酔い、歩くこともままならず、近所の人に「初めてみました。こんなに飲まれる姿を」などと言われながら運ばれて来ます。

座敷に倒れこみ、何処にいるのか分からないほど正体を無くした夫は、介抱する綾も目に入らず、「綾、綾」と天井に向かって手を差し伸べうめき続けます。

おそらく、夫の目に天井は見えず、ただ虚空のみが広がっていることが分かります。

 

綾は介抱しながら、ことの重大さを思い知ります。

 

 

特別悪い奴がいるわけでもないのに、三角関係は出現する。

愛し合うゆえに、敵対していかざるを得ないこともある。

よく愛があれば何でも解決するといったようなノー天気なことを言う人がいますが、このドラマは、人というものは愛し合うからこそ、敵対する場合もあるのだということを私に教えてくれました。

 

 

そして衝撃なのはこの後です。

画家は二人の前から姿を消します。

 

 

綾と夫は、亀裂の入った二人の関係を修復しようと子供を引き取ります。

仕事に専念するために親戚の家にやむなく預けておいた我が子をです。

親子三人で、新しい家庭を作ることによって、夫婦を再生しようとするのです。

 

ところが、子供が二人の前に現われ、初めて挨拶した時に、視聴者は衝撃を受けます。

子供は「お父さんお母さん今日は」と頭をぺこんと下げます。

文字で書いても何も伝わりませんが、恐ろしく他人行儀で、大人にちゃんと挨拶するんだぞと散々言われて仕方なく言っているような、もう本当にとってつけたような言い方をします。

情がひとつもありません、親に会ったのに。

 

 

つまりそのシーンに表れているのは仕事にかまけて親子関係を完全に育て損なった夫婦の姿です。

自分たちの都合で子供呼んだって、現実はそうはいかねえよってシーンになってるわけです。

 

山田さんがよく言う、現実の思いがけなさというやつですが、これは参りました。

 

 

そして次のナレーションで私はとどめを刺されます。

 

「二人の間に気まずいものが入って、十年が流れた」

 

十年後になっちゃうんです。

 

 

明るく楽しい朝のテレビ小説が、この遠慮会釈ない暗部の描写、心臓止まりそうでした。

そしてパン屋の経営とともに、親子のドラマも始まり、ドラマは佳境に入って行きます。

 

 

すみません、ちょっと前置き長くなっちゃいました。

 

 

では最終回です。

 

 

 

二人は疎開先から終戦直後の東京に出ようと思い立ちます。

 

戦地の孫からもうすぐ帰るという便りがあり、東京の店がどうなっているのか確認したかったのです。

二人が築きあげた店への懐かしさと夢がひろがります。

 

激しい汽笛。

 

走る列車。

 

ナレーション「甲府を過ぎる頃夜が明けた。八王子、立川と新宿が近づくにつれ窓の外は確実に続く一面の焼け野原となった。二人は外を見るのが恐ろしくなった」

 

 

炎天下の闇市。

騒々しい「安いよ、安いよ!!」のという男の声。

割れたスピーカーの騒々しい音で「リンゴの歌」が響く。

 

東京の店は勿論空襲であとかたもなく、露店が林立している。

 

店の跡地に立ち、ここが玄関でここが台所でと家の間取りをあれこれ懐かしがっても、

「じゃまだ、じゃまだ!!」

と闇市の人間に突き飛ばされる始末。

 

ナレーション「街は活気に満ちた闇市であった。時代の思いがけぬ逞しさに二人は気押されて呆然と立ち尽くした」

 

 

さっき、列車の中でもトラブルがあった。

混雑する車内で、赤ん坊と幼い子供を抱えた女性の前で、いい歳をした男が座っているのだ。

むずがる子供を目の前にして、あきらかに知らぬふりなのだ。

 

カッとなった綾は、男に抗議する。

男は

「みんな疲れてるんだ!!!こんな時になんだ!!

と言い返します。

 

綾は

「こんな時だから言ってるんです!!こんな時だからこそじゃありませんか!!

と叫びます。

 

 

 

そして闇市。

弱肉強食の論理がまかり通り、カオスという活気が人々を支配していた。

               

自分たちが築いた店の跡地に、思いがけないボーダレスな競争が始まっていた。

年寄りは突き飛ばされ、過去のものとなろうとしている。

戦地から孫が帰って来るというのに、店も財産も、何もかもなくした二人

 

孫に何も残してあげることが出来ない自分たちの現実を思い知らされ、二人は途方にくれてしまう。

                

夫は言う。

「自分たちを覚えている人などいない。みんな自分勝手でひとりぼっちの世の中だ。こんな他人ばかりの世界で何が出来るだろう。哲夫(孫)に残すものなど何もない」

 

 

そうだろうか?

と綾は思う。

残すものは何もないのだろうか。

生きるということは、そういうものなのだろうか?

私たちは全てを無くした。財産も友人も知人も、何もかも、ここには無い。ひとりぼっちだ。

でも、でも。

綾は今までの人生を振り返る。

そして数々の言葉を思い起こす。

            

 

没落士族として貧しさに耐えて生きていた仙台の家族。

でも綾にだけは、あこがれをつらぬくよう援助してくれた家族。

 

その数々の声。

 

「私たち一家は地べたにへばりついて生きているようなものです。綾、お前はあこがれを捨ててはいけないのっしゃ。東京へ行くのっしゃ」と、毎日毎日機織をして生計をたてていた母の応援の言葉。

 

「綾、お前は自分のことばかり考えとる、少しは人の身になることを覚えんでどうする」という兄のいましめの言葉。

 

胸を病み、婚約を破棄され、家族に病気がうつらぬように「幽閉」された一生を余儀なくされた姉は「綾さんはあこがれを捨ててはいけないのっしゃ」と夢を託してくれる。

 

 

あこがれの仙台女学院に入学できた喜びも束の間、そこで知った心強い先輩との学園闘争の日々。

 

「西洋にかなわぬものがあるからと言って、何もかも西洋がええと言うのは間違っちょる。自分を見失っちょる。こういう時だからこそ、日本の伝統を学ばねばいけないのっしゃ」という先輩の言葉。

 

明治の近代化路線に違和を感じながらも、あこがれは東京へ走る。

 

しかしそこで出会ったものは。

仙台での初恋の人が、尊敬する先輩と結ばれてしまった姿。

 

「うちは、つらいんよ。綾さんにやさしくされればされるほど、うちはつらいんよ」と泣く先輩の言葉。

 

 

そして初恋の人の裏切りの言葉。

「恋愛というものは小説本が謳いあげるように綺麗なものではないのかも知れない。むしろ醜いものかもしれない。どんなにまわりの人が傷つこうと二人の思いだけはとげようとする、むしろ醜いものかもしれない。罵られてもやむをえん。裏切りは裏切りっし。あの人ば好きになってしもうた」

 

綾は初恋の人をひっぱたくしかない。

 

 

結婚。

 

パン屋の開業。

 

子供達との相克。

 

自殺しようとした息子。思うにまかせぬ子育て。

 

戦場にとられた息子、孫。

 

 

 

 

そして、下宿させた画家と相馬綾の不倫の恋。

日常を生きる綾の根幹を揺さぶった画家との熱情。

 

「奥さん!!奥さんが相馬さんとの生活を大切にしておられる以上、私はそれを壊そうとは思いません。でも一度だけ言わせて下さい。そうでなければ切なくてかないません」

 

「そんなこと言っちゃいけません!

 

 

入ってしまった夫婦の亀裂。

 

 

そこまで思い出した綾はある思いに達します。

 

 

人。

 

 

たくさんの人との出会い。

 

 

喜びも悲しみも、裏切りも献身も、憎しみも愛しさも、すべて人と人の「つづれ織り」の中にあり、それが現在の自分にどれだけのものとしてあるか。

 

                    

綾は言います。

「どうして人の命が一人のものだと言えるだろう。兄の声、母の働く姿、そのひとつひとつが私の生きる支えになっていないとどうして言えるだろう。そしてとりわけあの機の音。あの機の音が私の生きる支えになっていないとどうして言えるだろう。そのすべてのことが今の私を作った。自分はひとりぽっちだとか、自分は人にとっていないも同然だとかいう考えを私は憎みます。帰ってくる哲夫に見せたいのは、諦めた私達ではないはずです。74歳と69歳の老人がそれでも尚あこがれを持ったという姿を刻みたいのです」

 

そう言って綾と夫は戦後の時代に向かって出発します。

   

そして二人は戦後まもなく新しい店を子供達の手を借りることなく、ふたりだけで再建したというナレーションが流れ、次のクレジットで終わります

              

その日、その日を無事に過すだけでも、わたくしたちは、多くのものを耐えなければならない。しかし、無事な日々だけでは満たされぬ人たちに、心にあこがれを抱く人々に、わたくしたちは、この物語をささげたいと思う。

 

 

「パンとあこがれ」の映像はわずかしか残っていないという話ですが、何故か私はいつか再び逢えると思っています。

 

 

いつだったかNHKBSで山田さんの特集をやった時に、東野孝彦さんのホームビデオが、ほんの少し残っているのみという話をされていましたが、本当に、それだけなのでしょぅか。

 

何故か私には信じられないのです。

 

 

そんなむごいことを簡単に信じるわけにはいかないのです。

 

 

最終回は録音していて、長いことカセットテープで保存していました。

でも、今は壊れて手元にありません。

 

いつか出逢えることを信じて、この思い出を書きました。


2020.9.9

 

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