山田ファンの始まり(1)山田太一の評価
「山田ファンの始まり(1)山田太一の評価」
現在(2021年)山田ファンと言われる人たちが、どれくらいいらっしゃるのか、私は知りません。
でも、予測として減ってきているだろうと思っています。
それは「山田ファン、もう、や~~めた」という人が出現しているということではなく、高齢山田ファンが少しずつお亡くなりになってきているからです。
60年代後半にテレビに登場した山田さんの作品は、お茶の間の人々を魅了してきました。当時家庭を営んでいたお父さんお母さん、息子や娘たち、そしてそのお爺さんお婆さんの心に届きました。「ふぞろいの林檎たち」もなく「男たちの旅路」もなく「早春スケッチブック」もなかった頃から、山田さんと伴走してきたファンたちです。
もちろん逆に新しい山田ファンも出現しているでしょう。
今のところ少ないけど放送はありますし、小説、エッセイ、戯曲は、市場に流通する限りは、人々を魅了し続け、ファンは誕生し続けるでしょう
でも、リアルタイムで山田作品と伴走できなかった人たちです。
可哀想な、と言ったら失礼ですが、山田さんが孤高の巨匠になられた姿しかご存知ない方たちです。
そういう方たちには、これから私が語ることは、意外なことに思えるでしょう。
そう覚悟してお読み下さい。
私は1970年に山田さんに初めてお会いしたのですが、当時山田さんは一介のライターに過ぎませんでした。
いえ一介どころか、無能な日和見作家だと思われていました。
というと「本当か?」と皆さん驚かれるでしょう。
「ふざけるな!」とお怒りになられるでしょう。
あくまでも私の周りではと、限定情報としてお伝えした方がいいのかも知れませんが、そうではないのです。
もちろん山田さんが関わっているテレビの業界ではそんなことはありませんでした。期待の新人ライターとして、木下プロのメインライターとして仕事はひきも切らずだったようです。
でも問題は、そのテレビ業界がどう見られていたかということです。
私はその頃漫画を描いていました。
漫画家仲間と話すことは、漫画のことは当然のこととして、映画、小説、舞台と多岐にわたりました。その中で映画は最大の関心事でした。
漫画にとって映画は親戚でした。漫画は音の出ない映画という考え方もあり、多くのことを映画から学んでいました。数ある名監督の中で特に黒澤明は別格でした。「七人の侍」「天国と地獄」「用心棒」等々、その完全主義に裏打ちされた娯楽性の追及に仲間たちは心酔していました。
それに反してテレビドラマというのは舐められていました。電気紙芝居と揶揄され、映画に比べれば子供だましと思われていました。映画の完成度の前には、テレビに感動する奴なんて批評眼の甘い奴と思われていました。テレビが黒澤に勝てるのか?と思っていたのです。
それは仲間だけではなく、映画関係者も同様で、映画産業は斜陽化していたこともあり、テレビ業界に転身する奴というのは、安易に流行りにのる調子のいい奴、節操のない奴と軽べつされていました。テレビにシッポをふらないことが正義であり、それが映画人としての矜恃だと思われていました。
後述することになりますが、山田さんの誘いで脚本を書くことになった時、スタッフ会議の席でこういう話を山田さんはされました。
「この前○○(米国の作家)の伝記を読んだら、○○は、下積み時代、ハリウッドのシナリオライターにまで身を堕としていたと書いてあってね」
そう山田さんが苦笑気味に言うと、参加していたライター全員がどっと笑いました。
身を堕としていたです。まるで売春婦。
○○はテレビのシナリオライターではなく映画のライターをやっていたわけですが、事情は一緒で、シナリオライターというのはその程度のものと米国でも思われていたということです。まして、更に一段低いと思われているテレビのライターは、軟弱な、いい加減な商売と思われていたのです。
山田さんのNHKテレビ小説「藍より青く」が松竹の森崎東監督により映画化された時、キネマ旬報で映画評論家が「藍より青く」をこう評しました。
「山田太一の原作は野心的だが、テレビになるとどうしても冗漫になる。テレビ製作者たちが、目下模索中だからそうなるのか、あるいはテレビそのものに絶望しているせいなのか分からぬが、NHKでさえそうなのだから、民放の製作者たちが、テレビドラマを投げ出してしまうのは当たり前のことなのか。そこには、活動写真時代の映画表現しかなく、芸術表現の意識より、報道以前のポンチ絵しかない気がする。
ここで、テレビドラマと映画の関係をどうしても考えてみたくなるのは、仕方がないことなのだが、さてそこで、森崎東の映画を考えると、このテレビ小説の人物設定が生きて来て、それを一本の映画に組み立てると、立派に見られる作品になるということはどうしたことか。よくいわれるように、人間の精神集中は、一時間半から二時間らしいが、そういうコンパクトされた主題が、映画を支えていること。それが、映画のエンターテイメントの主要な部分であることを、この作品は呈示していないか。
映画とは別な娯楽が誕生しつつあるという発想を、このテレビ小説から引き出すことがどうしても無理な気がするのは、テレビ製作者たちの懈怠とも言えないか。
なにもいまさら、懈怠などという変ないい方をしなくてもいいが、映画と同列である『映像』に頼るべきテレビが、やはり、ほかの文学とか講談とか、その他もろもろの芸能のように、映画に栄養を与える素材でしかないということは、考えてみれば妙なことである。
これが山田太一の責任なら、ことは簡単だが、テレビ小説という着想そのもののイージーゴーイングが、この冗漫の根本原因であり、その証拠に、映画はちゃんとまとまっている、というところに、映画とテレビの問題はありそうだ。
テレビは、所詮、ナマの報道を不キッチョに送信するだけのもので、芸術活動に参画できないし、参画しようという才能を、その機構のなかで、人材として持ち合わせていないような気がする。石井ふく子一人に頼っているテレビドラマの世界の気の遠くなるような貧困さとでもいうべきだろう」(サイト「私の中の見えない炎」の資料より引用)
ややこしい言い回し、一方的理屈でテレビドラマへの蔑視感情を述べていますが、これはこの人が特殊なわけではなく、当時の人々の代表的意見だと私には思えます。
テレビドラマと映画が同じ映像表現じゃないかという誤った認識の上に胡坐をかき、一時間半から二時間がベストなサイズなのだと言い放ち、長い長い時間をかけて人々の生活を描いて行くテレビドラマの特殊性を、テレビの新たな可能性だと認識していた山田太一とはまったく違うところにいたということです。
そんな風潮の中で、山田太一のテレビドラマに感動した私がいたわけです。