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作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。
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「山田ファンの始まり(1)山田太一の評価」
現在(2021年)山田ファンと言われる人たちが、どれくらいいらっしゃるのか、私は知りません。
でも、予測として減ってきているだろうと思っています。
それは「山田ファン、もう、や~~めた」という人が出現しているということではなく、高齢山田ファンが少しずつお亡くなりになってきているからです。
60年代後半にテレビに登場した山田さんの作品は、お茶の間の人々を魅了してきました。当時家庭を営んでいたお父さんお母さん、息子や娘たち、そしてそのお爺さんお婆さんの心に届きました。「ふぞろいの林檎たち」もなく「男たちの旅路」もなく「早春スケッチブック」もなかった頃から、山田さんと伴走してきたファンたちです。
もちろん逆に新しい山田ファンも出現しているでしょう。
今のところ少ないけど放送はありますし、小説、エッセイ、戯曲は、市場に流通する限りは、人々を魅了し続け、ファンは誕生し続けるでしょう
でも、リアルタイムで山田作品と伴走できなかった人たちです。
可哀想な、と言ったら失礼ですが、山田さんが孤高の巨匠になられた姿しかご存知ない方たちです。
そういう方たちには、これから私が語ることは、意外なことに思えるでしょう。
そう覚悟してお読み下さい。
私は1970年に山田さんに初めてお会いしたのですが、当時山田さんは一介のライターに過ぎませんでした。
いえ一介どころか、無能な日和見作家だと思われていました。
というと「本当か?」と皆さん驚かれるでしょう。
「ふざけるな!」とお怒りになられるでしょう。
あくまでも私の周りではと、限定情報としてお伝えした方がいいのかも知れませんが、そうではないのです。
もちろん山田さんが関わっているテレビの業界ではそんなことはありませんでした。期待の新人ライターとして、木下プロのメインライターとして仕事はひきも切らずだったようです。
でも問題は、そのテレビ業界がどう見られていたかということです。
私はその頃漫画を描いていました。
漫画家仲間と話すことは、漫画のことは当然のこととして、映画、小説、舞台と多岐にわたりました。その中で映画は最大の関心事でした。
漫画にとって映画は親戚でした。漫画は音の出ない映画という考え方もあり、多くのことを映画から学んでいました。数ある名監督の中で特に黒澤明は別格でした。「七人の侍」「天国と地獄」「用心棒」等々、その完全主義に裏打ちされた娯楽性の追及に仲間たちは心酔していました。
それに反してテレビドラマというのは舐められていました。電気紙芝居と揶揄され、映画に比べれば子供だましと思われていました。映画の完成度の前には、テレビに感動する奴なんて批評眼の甘い奴と思われていました。テレビが黒澤に勝てるのか?と思っていたのです。
それは仲間だけではなく、映画関係者も同様で、映画産業は斜陽化していたこともあり、テレビ業界に転身する奴というのは、安易に流行りにのる調子のいい奴、節操のない奴と軽べつされていました。テレビにシッポをふらないことが正義であり、それが映画人としての矜恃だと思われていました。
後述することになりますが、山田さんの誘いで脚本を書くことになった時、スタッフ会議の席でこういう話を山田さんはされました。
「この前○○(米国の作家)の伝記を読んだら、○○は、下積み時代、ハリウッドのシナリオライターにまで身を堕としていたと書いてあってね」
そう山田さんが苦笑気味に言うと、参加していたライター全員がどっと笑いました。
身を堕としていたです。まるで売春婦。
○○はテレビのシナリオライターではなく映画のライターをやっていたわけですが、事情は一緒で、シナリオライターというのはその程度のものと米国でも思われていたということです。まして、更に一段低いと思われているテレビのライターは、軟弱な、いい加減な商売と思われていたのです。
山田さんのNHKテレビ小説「藍より青く」が松竹の森崎東監督により映画化された時、キネマ旬報で映画評論家が「藍より青く」をこう評しました。
「山田太一の原作は野心的だが、テレビになるとどうしても冗漫になる。テレビ製作者たちが、目下模索中だからそうなるのか、あるいはテレビそのものに絶望しているせいなのか分からぬが、NHKでさえそうなのだから、民放の製作者たちが、テレビドラマを投げ出してしまうのは当たり前のことなのか。そこには、活動写真時代の映画表現しかなく、芸術表現の意識より、報道以前のポンチ絵しかない気がする。
ここで、テレビドラマと映画の関係をどうしても考えてみたくなるのは、仕方がないことなのだが、さてそこで、森崎東の映画を考えると、このテレビ小説の人物設定が生きて来て、それを一本の映画に組み立てると、立派に見られる作品になるということはどうしたことか。よくいわれるように、人間の精神集中は、一時間半から二時間らしいが、そういうコンパクトされた主題が、映画を支えていること。それが、映画のエンターテイメントの主要な部分であることを、この作品は呈示していないか。
映画とは別な娯楽が誕生しつつあるという発想を、このテレビ小説から引き出すことがどうしても無理な気がするのは、テレビ製作者たちの懈怠とも言えないか。
なにもいまさら、懈怠などという変ないい方をしなくてもいいが、映画と同列である『映像』に頼るべきテレビが、やはり、ほかの文学とか講談とか、その他もろもろの芸能のように、映画に栄養を与える素材でしかないということは、考えてみれば妙なことである。
これが山田太一の責任なら、ことは簡単だが、テレビ小説という着想そのもののイージーゴーイングが、この冗漫の根本原因であり、その証拠に、映画はちゃんとまとまっている、というところに、映画とテレビの問題はありそうだ。
テレビは、所詮、ナマの報道を不キッチョに送信するだけのもので、芸術活動に参画できないし、参画しようという才能を、その機構のなかで、人材として持ち合わせていないような気がする。石井ふく子一人に頼っているテレビドラマの世界の気の遠くなるような貧困さとでもいうべきだろう」(サイト「私の中の見えない炎」の資料より引用)
ややこしい言い回し、一方的理屈でテレビドラマへの蔑視感情を述べていますが、これはこの人が特殊なわけではなく、当時の人々の代表的意見だと私には思えます。
テレビドラマと映画が同じ映像表現じゃないかという誤った認識の上に胡坐をかき、一時間半から二時間がベストなサイズなのだと言い放ち、長い長い時間をかけて人々の生活を描いて行くテレビドラマの特殊性を、テレビの新たな可能性だと認識していた山田太一とはまったく違うところにいたということです。
そんな風潮の中で、山田太一のテレビドラマに感動した私がいたわけです。
「山田ファンの始まり(2)山田太一は作家なのか?」
私は「パンとあこがれ」(1969年TBSテレビ小説)で山田ドラマの洗礼を受けたわけですが、その感動を仲間に伝えようとしても、上手くいきません。
ビデオもない時代です。再放送もない。いえ再放送はあったのですが、毎日15分のテレビ小説を1時間にまとめたものを平日午後に連日放送して、実は私はそれを見て感動したのですが、ですから、つまり、再放送はもう終わっていて、それ以上の放送はちょっとないだろうという時期だったのです。
仲間は笑い、そんなものは見るまでもないと言います。
しょせんテレビドラマだろうと舐めてるんです。
こう誹謗します。
まずテレビドラマのシステムがなっていない。
映画は監督のものなのに、テレビはディレクターが複数いて、それが交代で演出をする。そのシステムはなんだ?と言います。その映像は誰が責任を持つんだ、そんないい加減なシステムで作品らしい作品が作れるのか?批判はとまりません。
映画の作り方、映画のフォーマットから一歩も抜けられないのです。
私は山田さんから、シナリオ「小寒む」(1967年TBS単発ドラマ)と「ベンチリョード」(自主制作映画短編)を借りて大学ノートに書き写していましたので、それを仲間に読ませますが、ひどい評価です。「なんだこりゃ」です。
こんな古臭い人情話のどこがいいんだ。甘っちょろい。俺も「小寒む」みたいな人情話書いた時期もあったよとあざ笑います。
私は「小寒む」に描かれたお婆さんの孤独に感銘しないのかと言いました。するとお涙頂戴じゃないかと言います。これが例えば、家族みんなが心配しているような顔してるけど、実はそうじゃないんだという話ならいいけどなと言います。
私は、そういう話になってるじゃないかと言うと、何処にそんなことが書いてある?と、びっくりしたような顔で聞き返します。
私は最後にお婆さんが涙を流すところに出ているじゃないかと言いますが、ピンとこないようです。どうやら、家族が心配してくれてありがとうという意味でお婆さんが涙を流していると誤解しているのです。
先入観で舐めてかかっているからちゃんと読めてないのです。映画に比べればという思いに強力に支配されていて、テレビライターがまともなものを書けるわけないと思っているのです。
「ベンチリョード」に関しても「こんなの書いているようじゃ、木下恵介の子分からは抜けらねえな」と言い、「お前は、その山田なんとかってやろうに騙されてんだよ」とあざ笑うのです。
註(「小寒む」に関してはブログに脚本が入っています。直に読むほうが一番分かりやすいので参照していただければと思います。)
そのころ山田さんは仕事場を借りていて、毎朝お弁当を持って出かけ、夕方まで原稿を書くという生活をしていました。
そのこともバカにされました。
書く作品も生活もサラリーマンだなと笑われました。
小市民的世界に安住せず、あらゆる権威から自由であらねばならない。それがもの書きだとみんな思っていました。芸術家とはそういうものだと思っていました。
仲間が思い描いているのは、いわゆる無頼派スタイルのもの書き像でした。
昼夜逆転の生活で原稿を書くのが当たり前で、毎朝定時に起きるなんて堕落とすら思っていました。そういう規則正しさの中で、いつのまにやら飼いならされる人間というものを嫌悪していました。
映画人も同じようなところにいて、ゴールデン街で酒を飲み喧嘩をし、性的には放縦で、家庭なんかは顧みない、そういうことが芸術家であり、ものを作ることに必要なことだと思っているようでした。
当時注目されていたアングラ劇団も、日常性をどう壊すか、小市民性からの脱却を叫び、ありとあらゆる常識を疑えとあおっていました。
しかし若い頃の私は、そういう動きに懐疑的でした。
何故なら、私にとって日常そのものが壊すどころか、化け物のように思えていたからです。
例えば他者とどう付き合えばいいのか考えただけで、大宇宙の谷間を飛び越えるような気持になるのでした。
例えば世間話が出来ませんでした。アルバイト先で休憩時間に雑談ができないのです。そのことを考えると、仕事内容より、それが苦痛でバイトを辞めたりしていたのです。
例えば電車が時間調整をして長々停まっている時に、一人ホームを歩くと、電車の中の乗客が全員私を見ているという強迫観念にとらわれ、苦しくなって歩けなくなるのでした。
ただの自意識過剰ですが、分かっていても克服出来ず、日常性を壊すなんてことより、日常をどうやって人並みにこなせるかということが途方もない課題だったのです。
日常とはそんなに自明のことじゃない、人によって随分違うものだ、日常というのは簡単にひとくくりに出来るものじゃないと思っていました。
昼夜逆転のもの書き像にしても、それはタイプの問題であって一律に言えるものではないと思っていました。みんな通念にとらわれ過ぎだと思っていました。
さて、山田さんはこのことについてどう言っているのか。
エッセイ「異端の変容」(「街への挨拶」所収)でこう書いています。
「朝から夕方までが、私の仕事時間である。九時からとりかかり、六時ころまで働く。(略)その習慣を聞いてにわかに不信感を示す人がいる。『まるでサラリーマンじゃないか』という人もいる。あてがはずれたような顔をする人もいる。『そんなことはあまり人にいわない方がいい』と忠告してくれる友人もいる。
その反応の理由がよくわかる。
つまりは、もの書きがあまりに普通の生活をしていては面白くないのであろう。本物ではないという気がするのだろうと思う。人々が寝しずまった夜半に苦吟し、せめて昼までは床にいて、女性関係の二つ三つについて悩んだりしていなければ、いいものは書けないのではないか、という漠たる思い込みがあるのだろう、と思う。
私は、そうした思い込みを不当だとは思わない。シナリオ書きも、芸能界のはしくれに生きており、人々はそうした世界に、自分たちとは違う『はめはずし』を意識的にせよ無意識的にせよ、求めているのだろう。だから、その中の一人が自分たちと一向変わらぬ生活時間を持っていると聞くと、その精神内容も自分たちと変わらないのであろうと推測し、そうした人間に自分を楽しませ、感情を開放するようなものはつくれないであろう、と考えるのは無理もないことだと思う」
と、自分に不信感を持つ者に理解を示しながらも、ある時、酔って他の脚本家に絡んだ思い出を語ります。
「ぼくは無頼とかなんとかいって、ふた昔前の破滅型みたいなものを気取っているような人間に、現代をとらえる力はないと思いますね。おかまと寝たり、やくざと喧嘩したって、いまの人間の暗部みたいなものはとらえられないと思います。むしろ、平凡な日常に耐えに耐えてきたというような体験をもった人間の方が、把握力があるのではないでしょうか。
(略)当節のもの書きが、小市民から逸脱しているということで、人々の信用を得ようとするのは、いまだに効果的とはいえ恥ずべきことに思います。逸脱したいなら、こっそり逸脱すればいいので、多少ともそれを『異端者』であることの宣伝の具にすることは、いやしむべきだという気がします」
こう言って同業者に喧嘩をふっかけるのですが、結局、見事にいなされ、相手にもしてもらえなかったという情けない体験を描き、理解されない口惜しさを書いています。
でもこれは山田さんの本音です。今でも有効な意見だと思います。
そして山田さんはエッセイをこう結んでいます。
「体制派があり、反体制派がある。マイホーム主義者がいてアンチマイホーム主義者がいるというような構造は、もはや現実的ではないと私は思う。正常と異端、小市民と無頼といった公式を振りほどけないものか、と考えている」
妥当な分析です。
でも当時は理解されなかった。
小市民性を乗り越えられない哀れな者と思われた。
漫画仲間たちも自分たちが古い通念に支配されているなんて思っていなかったし、まして権威主義者になっているなんて思ってもいなかったでしょう。
でも、古いもの書き像に縛られ、映画は文句なく芸術だという権威主義に陥り、それがために無意識にテレビをバカにして、見るまでもなくつまらないものだと言ってはばからなかった。
仲間たちの中には、後年テレビドラマ化される作品を書いたり、高名な漫画賞を受賞する者もいたりして、それなりに才能のある連中でしたが、その時はそういう情けない状態にあったのです。通念や権威主義から自由であるということは本当に難しいことなのだと思います。
山田さんのエッセイが出版されるのはずっと後のことです。
私の、山田ファンとしての日々は、こういう逆境から始まったのです。
山田ファンの始まり(3)「ライターは出世魚か?」につづく。
「山田ファンの始まり(3)ライターは出世魚か?」
山田さんと出会ってから51年になります。
長い時間です。
1970年、山田さんのお宅の最寄り駅だった元住吉の喫茶店で、山田さんと初めて会いました。
その頃私は貸本漫画の世界で短編を描いてデビューしており、その単行本と描きかけの原稿を持参しました。「パンとあこがれ」への賛辞とともに読んでもらいました。
山田さんは開口一番「あなた徹底してますね」と言いました。
クラスになじめない少年が、内省に内省を重ねる中で、ささやかな勇気をふるうが、現実から残酷なしっぺ返しを受ける物語。
思春期の少年が妹の成長に戸惑うという、たったそれだけの物語。
その2本でした。
山田さんはさらに言いました。
「スキャンダラスな世界を狙わないところがいい」
ちょっと興奮しておられたのかなとも思います。山田さんは突然「うちに来ない?」と言われました。私は「パンとあこがれ」の感想を述べればそれでおしまいだろうと思っていたので、驚きました。
ご自宅で脚本を何本か貸してくれました。
前述したように「小寒む」「ベンチ・リョード」と「泣いてたまるか ああ軍歌」でした。
何故貸してくれたかというと、あなたの描く漫画と似たようなものをぼくも書いているよという意味で貸したんだと後日言われました。
読んだ私は驚きました。当たり前ですが、どれも上手く書けており、励みになりました。
こうして、私は脚本を貸してもらえば、当然返しにいきます。そしてまた借りるという繰り返しで訪問を重ね、「ついでに晩ご飯どう?」ということになり、思いがけなく長い交際の始まりとなったのです。
私は日常というものがひとくくりできない複雑さがあると思っていました。そこに漫画を描く根拠を持っていました。
例えば、学校というものを考えた時、非行少年というのは誰しもが注目しますし、優等生というのも耳目を集めます。ところがそうではない、どちらでもない中間層は圧倒的多数であるにも関わらず注目されません。
何か問題を起こさない限り、特別な対策は必要ないし、生徒から文句が出てないならそれでよしということで終わります。
ところがそこに問題がないかと言ったら、とんでもない話で、くっきりとは見えないけど様々な問題があるのは生きている限り当然で、私はそういうことを一つ一つ掘り起こしていくべきだと思っていたのです。
しかし漫画で取り上げられる物語は、白血病で苦しむ少女とか、実は本当の両親じゃないとか、不良になって喧嘩三昧とか、そういうことばかり。
ただ平々凡々と生きている中にこそ、これまで拾われなかったドラマがあり、他者を殺したいほど憎んでも自分はきっと殺すところまでいかないだろう、だけど、殺しはしないけど、その情念を描けば、それはとてもドラマチックな物語になると思っていました。
漫画を描こうと思った時、石森章太郎の「サイボーグ009」なんかが好きだったのに、自分が描くとなるとまるで違うものを描こうとしていました。ステレオタイプのSFだって描いたこともあったけど、最終的にはそういう世界を描こうとするのでした。
まったくものをかくいうのは不思議なことです。
そういう私の傾向に山田さんは反応されたようでした。
そこが「あなた徹底してますね」「スキャンダラスなことを狙わないのがいい」ということだったんだと思います。
当時私はこんな話を考えました。
ある団地の外れに煙草屋があって、耳の遠いお婆ちゃんが一日中店番をしている。
その時代は携帯電話もなく、各家庭に電話機がやっと1台普及した頃です。
煙草屋には赤電話があり、何故か団地の住人が、わざわざ赤電話をかけにきます。家庭に電話があるのにです。
それは家族に聞かれたくない秘密を持った人々がやってくるからです。
店番をしているのは耳の遠いお婆ちゃん。
親に内緒で彼氏に電話する女子高校生、愛人に連絡する亭主、おじいちゃんに内緒で遺産の分け方の打ち合わせをする嫁、などなど。
でもじつは、お婆ちゃんの耳が遠いというのは嘘で、お婆ちゃんは全部話を聞いている。ニコニコして聞いている。
そんな話。
山田さんは「いいなあ、いいなあ、書こう、書こう」と嬉しそうに言います。
私は時代を読むとかいうような才能はないけど、どこかしら、山田さんと似たようなところをつつく傾向があったようです。そういう意味では同士でした。
もう一つ、私と山田さんには同士と思えることがありました。
それはテレビ業界が蔑視されているということでした。
シナリオライターというのは男子一生の仕事とは思われていなかったようでした。
井上ひさしなんかがそうですけど、脚本家はやがて小説家や舞台の作家になって一丁あがりと思われていました。
山田さんも、褒め言葉として脚本家には惜しいよなんて言われたりしていました。
でも山田さんはテレビドラマが好きなわけです。倉本聰も言ってたけど、テレビドラマのライターでありたいんです。小説も書くけど、ドラマはドラマで別の楽しみだし、別の可能性を追求するメディアなのです。でも世の中はそうは思ってくれない。出世魚の途中段階としてしか脚本家を見ていない。
同じように漫画業界もまた蔑視されていました。
手塚治虫ですらPTAから悪書追放運動で槍玉にあげられていたころです。
悪ふざけをひたすらしている下品なもの、それが漫画と思われていました。私たちは芸術だと思っていましたが、認められていませんでした。
つげ義春とか萩尾望都とか新しい波は発生していましたが、認める人は少なく、認めていても「漫画は文学を越えた」などと力み過ぎた評価でした。
違うメディア同士をどうして比較が出来るのか。優劣を言えるのか。
脚本家にはもったいないという言い分と一緒で、わけのわからない評価の中で私たちは口惜しい思いをしていたのです。
私も山田さんも、いつかちゃんと認められるぞと固く誓っていたのです。
山田さんと出会ってから51年。
長い歳月です。その間、私と山田さんの間にはため口がありません。私がため口をきかないのは当たり前ですが、山田さんも私にため口をきかないのです。敬語です。
よくドラマで同じ歳だと分かると、「なんだ、ためじゃんか」と言ってため口関係になるというシーンがあります。それが人間関係として一歩近づいたというシーンとなります。
でも、そうでしょうか?
人間関係はそんなに見晴らしがいいものなんでしょうか?
私はため口がきけません。ため口をきけるような人間が一人もいません、他者は畏怖すべきものとしていつまでもあるからです。
同じ歳だからといって、たちまち水平線のような関係になるなんて、私には出来ません。笑われるかも知れませんが、小学生にすら「おはようございます」と敬語です。
山田さんもまた、ずっと敬語です。私のような理由かどうかは分かりませんが、51年間ずっと。
ある時期から、山田さんはどんどん注目され、巨匠への階段を上っていかれました。社会現象を巻き起こすような状態で、山田先生、山田先生と誰しもが言うようになりました。私は、ふと不安になりました。山田さん、山田さんと私は言ってるけど、そういう時期は終わったのではないかと。
ある時、また訪問して雑談しようと思って電話した時、つい「お話をうかがわせて下さい」と言ってしまいました。
すると山田さんは怒りました。
「何を言ってるんですか!」と。
51年間で唯一怒られたエピソードです。
山田ファンの始まり(4)「山田さんは励ます人?」に続く。
「山田ファンの始まり(4)山田さんは励ます人?」
さてさて、山田さんと和気あいあいと交流する日々という風に書いていますが、それほど呑気なものではありませんでした。
何と言っても強迫観念でプラットホームを歩けなくなってしまうような私です。アブナイ若者です。だから山田さんは、会ったはいいけど、困った若者と知り合ったなあと苦慮されているのではという気持ちが強くありました。
でも山田さんは優しい言葉を私にかけてくれます。
本当に山田さんは優しい人でした。思いやり細かな人でした。皆さんもドラマを見ていればお分かりになるでしょうが、この方は励ます人です。特に若者を励ます人です。
ですから、私への言葉を全部鵜呑みにしてはいけないと思いました。あなたには才能があるなんていうけど、半分は励ましで、いや8割以上は社交辞令で、だから社交辞令を言ってもいい程度には才能があるという意味でとらないといけないと思っていました。
夕食をごちそうになり、いろんな話をしながらも、私は山田さんの配慮の中にいるのだということを強く意識していました。ある程度はいいけど、いつまでも喋っていては迷惑だ、早く帰らなきゃと思っていました。
ところが、そういうことを意識すればするほど踏ん切りがつかなくなるのです。プラットホームと一緒で、意識すればするほど動けなくなるのです。
例えば本屋に入って立ち読みをしていて、つい夢中になって、あ、長居しすぎていると意識して、さあ、帰ろうと思うのですが、意識すればするほど帰れなくなり、そうなると、こんな長時間いると万引きと店主が思っているに違いないと思い込み、益々帰れなくなるのです。ですから山田宅でも、意識すればするほど、そのスパイラルにはまってしまうのでした。
それでもなんとかお暇ということになって、玄関でお別れの挨拶をして扉が閉まった後、私は帰ったようなふりをして、しばらく家の近くに立っていました。家の鍵がいつ閉まるかということを確認していたのです。
「ああ、やっと帰ってくれた」という気持ちならば、すぐに鍵がかけられるはずです。そう思ったのです。
でも鍵はなかなかかけられませんでした。
1分近く経ってから鍵は静かにゆっくりと、カチャリとかけられました。ある程度歩き去った時間を見越してかけるという、山田さんの配慮が感じられました。
ああ、書いているだけで、私は面倒くさい若者だったなと思います。そんなことを確認しているなんてどういう奴だ、もうちょっと素直になれよ!と叫びたくなります。でも、若き私はそういう自意識の砦の中でくるくる回っていたのです。
ではおどおどばっかりしている人間だったかというと、とんでもなく横着なところもあるから人間というのは始末におえません。
ある時山田さんが「この前、木下さんにあなたのこと話したら、木下さんが会ってみたいねって言ってたよ」と言います。木下恵介さんがなんで?と思いました。「ぼくが魅力的に喋ったからね」と山田さんは笑います。
わざわざ木下恵介監督にそんなことを言うほどのものが私にあるのか?ということになります。社交辞令にしてはちょっと度が過ぎていると思いました。戸惑いました。
まあ、機会があったら私を木下さんに紹介したいと思っておられたのかも知れません。でも、ここでもアブナイ若者で、空気が読めない私は、こんなことを言ってしまいます。
「木下恵介ってもうだめですよね。衰えちゃってる」
少し前に映画「スリランカの愛と別れ」が公開されていたのですが、これがひどい出来で、ああ、衰えちゃったなあと思っていたのです。それを正直に言っちゃいました。その頃、山田さんと木下さんが密接な師弟関係にあったなんて知りませんでした。仕事の先輩後輩に過ぎないと思っていたのです。
山田さんはどんな気持ちになったことか。
「上野駅周辺」(1978年NHK連続ドラマ)とか、山田ドラマによく出て来る水島涼太という俳優さんがいます。気の弱い三枚目の役が多い人です。
この人の役柄が、特に「上野駅周辺」はそうですが、自分に似ているキャラクターだと思っていました。山田さんは私のことをこういう風にとらえているんだなあと、思っていたのです。
といっても「どうして私を知ってるの?」の主婦と同じような妄想かも知れませんが、そう思えて仕方がない自分がいたのです。
「上野駅周辺」で、何人かの先輩が水島涼太の面倒を見るのですが、でも水島涼太は、親の心子知らずじゃないけど、ちっとも周りの空気を読めず、見当違いのことばかりしていて、先輩の顔をつぶすようなことをします。
そこで先輩が、がらにもなく人の面倒みようと思ったけどガッカリだとぼやくシーンがあって、ああ、私との体験が下敷きになっているのかと思ったりしました。
まあ、ドラマですからかなり誇張されたキャラクターで、ここまで自分はひどくないと思いましたが、それでも、こういうキャラクターを連続ドラマの主人公にしても可能だと山田さんに思わせたものは、私と言う実例があったせいではないかと思ってしまうのです。
もちろん山田さんの中にも水島涼太的なものが色濃くあってのことで、私の存在を過大評価しているわけではないのですが、こういう空想は、リアルタイムで山田作品と伴走してきた者にしか出来ない妄想で、寺山修司が「早春スケッチブック」の山崎努を自分のことだと思っていたのと一緒で、ご苦労なことだと笑っていただきたい。
そして山田さんは私に「アルバイトで脚本書いてみない?」と提案します。
アニメ「カリメロ」という作品でした。
山田ファンの始まり(5)「平凡な人は自信をなくしている?」に続く。
2021.5.3
「山田ファンの始まり(5)平凡な人は自信をなくしている?」
何故山田さんは、私にアルバイトで脚本書いてみないかと言ったのか。
それは「平凡」へのこだわりではなかったかと思います。
NHKのテレビ小説「藍より青く」冒頭のナレーションで山田さんはこう言っています。
「片隅の平凡な人生より、人の目をひく波乱な人生の方が尊いとどうして言えるだろう。わたくしたちは、一人の女の、平凡だがひたすら生き抜いた半生を通して、この世の多くの平凡な人生の尊さを語ろうと思う。平凡な人生の激しさと、その重さを語ろうと思う」
そして、TBSテレビ小説「パンとあこがれ」で、こういう結びの言葉を記しています。
「その日、その日を無事に過ごすだけでも、わたくしたちは、多くのものを耐えなければならない。しかし、無事な日々だけでは満たされぬ人たちに、心にあこがれを抱く人びとに、わたくしたちは、この物語をささげたいと思う」
当時山田さんは新聞のエッセイで「今、平凡な人々は自信を無くしていると思う」と言っています。
引用した「異端の変容」でも主題は永六輔の「芸人・その世界」という芸人の奇抜なエピソード集で、面白エピソードにとらわれ過ぎる時代傾向に警鐘をならしていました。やがて書くことになる「真夜中のあいさつ」(1974年TBS単発ドラマ)でも深夜放送への投稿が、面白エピソードに変換しすぎているという違和感から出発していました。
平凡な人生というものを、世の中はあなどっている。そのことに徹底的に抗ってやろうという決意が山田さんにはあったと思います。
最近では、平凡な人生を描きたいなんて、言わない作家の方が珍しいとも言えて、なんでそんなことをわざわざ山田太一は言ったんだと思われるでしょうが、そういう時代背景があったということです。
平凡を大事にする姿勢なら、私にも負けないものがありました。
でも私の漫画はなかなか日の目を見なかった。地味という評価しかなかった。
山田さんは私のこういう視線が、「テレビに向いてる、テレビに向いてる」と何度も言っていました。そこで少しでも生活の足しになるようにアルバイトで書かないかと言われたようでした。私は漫画を書く前に、まず漫画の脚本を書いてから漫画にしていたので、そのこともあって書けると思われたのでしょう。
書くのは「カリメロ」という黒いヒヨコの話でした。イタリアでは有名なアニメで、日本で言えば「サザエさん」のような誰でも知っているキャラクターとのことでした。
もともと山田さんが全部書くことになっていたのですが、イタリアの原作者が山田さんの構想を許可せず、じゃあ山田さんは書かないということになり、降りようとされたのですがスタッフに懸命に引き留められ、監修という形でかかわることになったようでした。
山田さんは長い長い物語を想定していましたが、原作者との話し合いで、「サザエさん」とか「ドラえもん」のような30分に2本の1話完結方式で行こうということになりました。
そこでライターが必要となり、山田さんは私に声をかけたのでした。私以外には松竹の助監督とかプロデューサーなどに声がかけられたようでした。
びっくりしたのですが、その打ち合わせの席で山田さんは「太一ちゃん」と呼ばれていました。
偉くなる前ですから「山田先生」と言う人はいませんでした。全員「太一ちゃん、太一ちゃん」と愛称で呼んでいました。ちゃん付けの響きが、なんとも温かく、ああ、山田さんは愛されてるなあと思いました。この仕事降りると言った時に懸命に引き留めたスタッフの気持ちがわかりました。
山田さんが席を外している時、プロデューサーたちはこんなことを言いました。
「太一ちゃん、2年先までスケジュール埋まってるらしいよ」
「凄いねー」
「太一ちゃん崩れないよね。深酒しないし、ちゃんと時間になったら帰っちゃうし」
「完璧だよね」
「エンタープライズだ」
山田さんに対する敬服がありました。松竹時代からの付き合いだったのだと思いますが、助監督の頃から「太一ちゃん、太一ちゃん」と愛されていた山田さんの姿を、私は思い浮かべました。単にいい作品を書くだけではなく、職場で愛される存在であること、それがあってこその人気脚本家なのだと思いました。
日本版「カリメロ」は1作品15分足らずですが、1本、1本にかける労力は1時間ものとさして変わりません。どれも、ひとつのテーマをかかげるのですから。
主人公のカリメロは小学校低学年で、ガルという父親、チェシラという母親と暮らす平凡な子。
私は、これはホームドラマだと思いました。ホームドラマを書こう、そう思いました。
低学年も視聴者ターゲットに入っているのに、こんなことを考えました。
子どもはどうやって親を対象化するか。
子どもが秘密を持つとはどういうことか。
親が離婚した時、子どもはどちらを選ぶべきか。
子どもが自分の容姿に絶望したとき親はどうするのか。
などなど。
当時子供アニメでそんなことを書いた人はいませんでした。
山田さんは、私の構想を聞きながら「うん、うん」と嬉しそうにうなずきノートにメモをとりました。それが箱書きになっていて、私に渡してくれました。
私が業界で舐められないように、山田さんは大サービスのサポートをしてくれていたのです。
山田ファンの始まり(6)「家族の秘密」に続く。