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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

春の一族

 

「春の一族」

1993NHK土曜ドラマ連続3回。

 

       

緒方拳主演の、都会の孤独を扱ったお話。

 

都会の孤独という言葉は、都会が出来た時からあったでしょう。でもそれはマイナスイメージではなかったと思います。

岡林信康の70年代の歌に「俺らいちぬけた」という歌があります。

 

田舎のいやらしさは 蜘蛛の巣のようで

おせっかいのベタベタ 息がつまりそう

だから俺は 町に出たんだ

義理と人情の蟻地獄

俺らいちぬけた

 

 

きらびやかな都会の陰にひそむ孤独は、「義理と人情の蟻地獄」に悩む田舎の人にとっては魅力だったと思います。一人である幸せ。

それが、ある臨界点を超えた時、

都会の魅力を堪能するだけでは孤独をカバー出来なくなってきた。

あまりに多くの人が集中し、その巨大さ故に人々は虫ケラのようなものになってしまった。

 

 

 

ところが町の味気なさ 砂漠のようで

コンクリートのかけらを 食っているみたい

死にたくないから 町を出るんだ

ニヒリズムの無人島

こいつもいちぬけた

 

 

と岡林信康は続けます。

 

 

山田ドラマは、人づきあいは鬱陶しい、でも独りじゃ淋しい、そんなジレンマを抱えた世界を丁寧に描きます。

ひきこもりの高校生浅野忠信。

宗教に入れ込む女子大生中島唱子。

都会を堪能したい女子大生国生さゆり。

政治家の夫と離婚係争中の十朱幸代。

そして勤め人の憤りを背負った緒方拳。

 

         

お節介ドラマと山田ドラマは言われることがありますが、ここでも緒方拳はお節介を発揮します。都会の中にエアポケットのように残った古いアパートを舞台に、お節介の糸に絡まっていく人々。

 

 

でも、お節介を発揮する緒方拳も決して人が好きというキャラクターではなく、むしろ人間関係のいやらしさに辟易しているような人間で、どんな煮え湯を飲まされてきたかということが後半描かれます。

それゆえの、孤独がもたらしたゆえの、ふれあいを願うお節介のようでした。

       

 

それぞれのキャラクターは、善人といえば言えるでしょう。

しかし決して無謬ではない。

緒方拳自身も煮え湯を飲ませられただけではなく、煮え湯を飲ませた過去がある。

そんなバランスの人間関係が語られます。

 

            

 後半にある、アパート管理人江戸屋猫ハとその友人内海桂子のエピソード。

呑気に頑固に昔の価値観の中にいる年寄りかと思いきや、江戸屋猫ハの女房が自殺未遂をすることにより、内海桂子と女房が生臭い確執の中にいることが分かる。

年寄りもまた現在を生きており、年寄りが枯れた世捨て人のように生きているのではという通念を覆します。

 

 

 孤独な話です。

簡単には解決つかない話を、いつもの如く、山田ドラマという枠の中で、ひとときの交流を描きます。

 時代的には2年後にオウム真理教が摘発され、3年後に阪神淡路大震災が起きます。

 何かとんでもない厄災が起きたら、大手JVの手抜き工事だとか、今は隠蔽されている様々なことが一気にあらわれのではないかと、山田さんがドラマを書かれた頃言っておられた。

 

このドラマはそんなことを内包しつつも、問題劇的な糾弾になることなく、あくまでも、それぞれの個人的淋しさに寄り添うというスタンスに限定したドラマとして描かれていると思います。




2020.9.16 

 

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「写真の裏」&「夏の一族」

 

「写真の裏」

「今夜もテレビで眠れない 第1話」1995TBS単発ドラマ。

 

 名作です。

 

TBS社屋が移転することになり、その準備で騒然としているテレビ局に、一枚の写真を返して欲しいと現れた家族。

      

その写真はお婆ちゃん(加藤治子)の夫の写真。出征する時に撮った大事な写真を、終戦記念日特集のモーニングショーに貸していて、それを返して欲しいと言ってきたのだった。

 

ディレクターの役所広司は、古い写真だったので、もっと綺麗な形でパネルにして家族に渡していたのにと思うが、家族はどうしてもオリジナル写真を返してくれと言うのだ。

何故なのか。

写真の裏に加藤治子の夫の言葉が書いてあったからだと言う。

       



ところが引越し準備中で写真は簡単には見つからない。

娘名取裕子と、その夫柄本明は、失くしたんだと怒り始める。自分たちとロビーで会った時も、自分たちを誰なの分からず、調子のいいことばかり言ってた役所広司。まったくテレビマンというのは、口八丁手八丁で信用ならない。

        

追い詰められた役所広司は、名取裕子を別室に案内する。

何かまた企んでいるのか?と警戒する名取裕子に「写真はここにあるんだ」と役所広司はロッカーから写真を出す。

            

しかし見せられた写真は、丁度顔の辺りが破れている酷いもの。理由は分からないが、何故かこういうことになってしまった、そういう不手際があった。

 



でも問題は写真の裏だ。

ひっくり返すと、裏には何も書かれていない。真っ白。名取裕子は愕然とする。じゃあ、お爺ちゃんの言葉というのは。

「お婆ちゃんぼけちゃったんだ」と悲鳴に近い声をあげる名取裕子。

 


  

にこにこと座っている加藤治子の前に戻る一同。

役所広司たちは写真を失くしたことを深く詫びる。

加藤治子はこう言う。

「いいの。私は、ただね、裏に書いてあったお爺ちゃんの言葉が忘れられないだけ」

「それは、なんて書いてあったんですか?」

「おかしいわねえ、こんなに物忘れがひどくなってるのに、その言葉だけは忘れないの」

「それ、お婆ちゃんぼけてない証拠よ」と涙声で言う名取裕子。

「あたし久美って言うもんだから、久美へって書いてあって」

「写真の裏に久美へって?」



「ええ・・久美へ。お国のために戦争にいくのですから、お互い泣いてはいけません。久美とは1年3か月の夫婦の暮らしでしたね。いっぺんも喧嘩しませんでしたね。その気になれば結婚一日目から別れの日まで全部細かく思い出せるような気がします。あの日、久美はこう言って笑った。あの日久美はこんな顔して振り返った。・・ああ、生まれてくる子に逢いたいよ。おれの子供を抱いてみたいよ。戦場に来た以上、もとより命を惜しむものではないが、たとえ命はお国に捧げても、心はきっと久美のところへ帰ります。それくらいは、お上も許してくださるだろう・・・まだ続くのだけど・・・おかしいわねえ、こんなに長い手紙。写真の裏に書ききれないわよね」


        

「書ききれますよ。細かく書けばまだまだ書ききれますよ」

「ぼけたんじゃないでしょうねえ」首をかしげる加藤治子。

「そんなことないわよぉお婆ちゃん」と名取裕子が涙ぐむ。

「そんなことありませんよ」

「続けて下さい」

「続けて下さい」

    

「私は久美のこれからの生活を心配します。あ、久美の心は心配しません。久美の心は分かっています。私は久美の永遠の夫です。・・ああ久美。これだけは書いておかなければなりません。もし私の戦死の公報が入ったら・・入ってしまったら、あなたはまだ若い。生まれて来る子供と一緒に、私を忘れなければなりません。私を忘れて新しい人生を求めなければなりません。・・・・ううん。そんなことはしなかったわ。私はあなたを忘れなかったわ。若いあなたを今でもちっとも忘れていないわ、うふふふ」

 

名取裕子が泣き崩れて言う。

「お婆ちゃん、お婆ちゃんに優しくしたいのよ。でも、うちの人、気が良くて、あたしが優しかったら生きていけないんだもん、しょうがなくきつくなってるんだから」

 

     

そんな家族の光景に、呑気に涙ぐんでる暇はなく、テレビカメラにおさめようと駆け回る役所広司たち。視聴率に向けて奔走するテレビマン。そんな姿をとらえてドラマは終わる。

 

 

 

役所広司、柄本明、名取裕子。

ふと思い出すと、この3人は「悲しくてやりきれない」のトリオ。

その上、演出高橋一郎。まるで同窓会。生き生きとした3人の芝居に納得です。

 

見事です。

 

 

 参考書籍「戦没農民兵士の手紙」とあり、ネットで取り寄せたのですが、どの部分なのかまだ捜し切れていません(笑)。

   

高橋一郎のTBS定年退職作品。

オムニバス形式で、市川森一作品「第2話 あの人だあれ?」、早坂暁作品「第3話 猫坂の上の幽霊たち」も思い出深い。

 

 

 

 

 

 

 

      

「夏の一族」

1995NHK土曜ドラマ3回。

 

主人公渡哲也は「春の一族」の緒方拳同様、不遇なサラリーマンとして登場します。不景気が日本を覆っています。

妻、竹下景子とは距離があります。倦怠期という問題もあるけど、渡哲也の姉、加藤治子がネックになっている。姉とは言ってもまったくの他人。でも異様に仲がいい。戦火をくぐってきた二人の絆に竹下景子は穏やかならぬものを感じている。

 

 

話は、娘宮沢りえの妻子ある男との交際や、竹下景子の揺れ動く気持ちをカットバックしながら、渡哲也の営業マンとしての苦闘を描いて行きます。背景には退職させようという会社側の思惑もあり、未来が見えない状況。

どんなに絶望的であろうとも、渡哲也にとれる方法はひとつ。コツコツと売り上げを伸ばすこと、それしかない。そういう展開です。

 

 

クライマックスは加藤治子と渡哲也の語りになります。

空襲の炎の中で出会った二人の絆。

天涯孤独の二人は、母子であり、姉弟でもある。どういう言葉でとらえようと、かけがいのない関係。

やがて渡哲也の結婚の問題が出た時、加藤治子は母子でも姉弟でもなく恋人だったという自分の気持ちに気が付きます。

 

 

 

加藤治子と渡哲也は、「俄-浪華遊侠伝―」の林隆三と藤村志保のような関係です。年齢差があっても強く惹かれる気持ちを、お互いに抑制している。まったく一緒です。

 

 

加藤治子は結婚する前に一回だけ抱いて欲しいと言ったことがあると告白します。

林隆三と藤村志保が一回だけ寝ちゃって気の置けない友人として続いたように、加藤治子と渡哲也も同じ世界に入って行きます。

そういうことがあったという告白が、みんなになされます。

 

 

最後は「写真の裏」のラストシーンの、拡大版のような世界です。

廃墟になったアパートで、加藤治子は死者との空間を見つけます。ボケているのかいないのか、死者とよもやま話をする。本当にそういう事実があったのかどうかは分からないけど、加藤治子の心にとらえられた真実。

 

       

廃墟の窓からもれる死者の灯りを、加藤治子だけではなく渡哲也と竹下景子も見ます。

登場人物たちは同じ地平に立ったようです。



これを合理主義の視聴者がどうとらえるかというところですが、ラストは、山田ドラマらしく、廃墟に全員あつまり小さなパーティーをします。

死者と共に生きていくシーンでしょう。

人間の関係は死者との関係も含めて、簡単なものではなく、思いがけない世界がある。そういう微妙な問題をとりあげた、山田さんらしい主張のドラマだったと思います。

 

2020.9.16 

 

 

 

家へおいでよ

 

「家へおいでよ」

1996NHK水曜ドラマシリーズ連続6

 

      

これも孤独が大きな問題として浮上しています。

主人公杉浦直樹は、奥さんにも見放され、子供も巣立って行き、大きな館で一人暮らしという、家族を無くした男です。

そのうえ職場(大学)であらぬ濡れ衣を着せられ人間不信に陥っている。

 

 

 

この時代、大学の教授が、教え子の女子大生にセクハラで訴えられるなんて事件が結構あり、それが事実なのか、女子大生のトラップなのか不分明だけど、訴えられたら、結局スキャンダルという認識しか世間はせず、真偽の追及以前に失脚してしまう教授なんて事例があった頃です。

そう言う背景を抱えた一人として杉浦直樹は登場しています。

 

        

姉の岸田今日子には、「お前はエゴイスト」と言われ、何より一人が好きな杉浦直樹ですが、「一族シリーズ」同様、おせっかいの世界に入って行きます。

 

たまたまお蕎麦屋さんで相席になった縁で、若い娘鈴木砂羽と小橋めぐみらと交流が始まり、やがて二人共、杉浦直樹の屋敷で暮らすことになります。

更に、筒井道隆、マルティン・ラミレスなど貧乏な人々が集まりはじめ、共同生活への道筋が描かれます。

杉浦直樹は、孤独にこりたのか、世話焼きの喜びに目覚めています。

 

          

富裕層の老人と、社会からはじき出された弱者集団が肩寄せ合って生きていくという「いい話」になるかと思えば、残念ながら、そういう話にはなりません。

 

若者たちも、杉浦直樹同様、世間から苦い思いをさせられていて、身構えて生きており、だんだんと悪い奴らでもあることが明らかになって行きます。

それぞれが、弱者ではあるが無謬ではない。

 

そのリアルな人間像が、ドラマに複雑な陰影を与えていて、庶民善良説を覆していきます。

山田ドラマに影響を受けたと思われる作家さんがいて、善良な片隅の人々が、小さなシェアハウスで不器用に暮らしているなんてドラマをこの前も書いていましたが、そういうのとは全然違うんですね。一見表面は似ているんだけど、人間を見つめる冷たさがまるでちがう。それは深度の違いです。

 

 

このドラマは最終的にあったかく終わっています。でもそれはひとときの温もりかも知れないという留保がついています。

多くの山田ファンが、山田さんのあたたかいメッセージに酔っているけど、山田ドラマのパースペクティブは信じられないほど遠くに「中心」があって、とても冷たい(冷静)と認識すべきだと私は思っています。

 

 

人は一人では生きていけない。そうは言っても人間関係の煩雑さ。

微妙な距離感で描かれたドラマだと思います。

 

2020.9.17 

 

 

「不思議な世界」&舞台版「日本の面影」

 

アンソロジー「不思議な世界」山田太一編 筑摩書房


          

目に見えていること、体験していることは自明と多くの人が思っているわけですが、それが自明ではないということを、ずっと山田さんは言っていると思います。

現実をどうとらえるか。現実だと思っているものの正体。それが大きな問題です。

「冬の蜃気楼」では共通体験と思っていたものがそうではないという世界が描かれました。体験というもの、人の記憶というものの曖昧さ、そういうものが「彌太郎さんの話」でも出て来たような記憶があります。

 

 

このアンソロジーでは、最初は著名人の個人的な不思議エピソ-ドを取り上げて行きますが、後半になるにつれて、その不思議な体験を総括する全体論が増えていきます。個を超えた世界とは?という話になって行きます。

 

 

 

 

 

 

   

舞台版「日本の面影」

 

この話もまた個を超えた世界に対するアプローチです。

 

日本の近代、合理主義、科学万能主義、それらのものの功罪を説いて行きますが、それは個というものにとらわれ過ぎでは?という視点です。

 

劇中で、ハーンがこういうことを言います。

 

「科学ダノ理性ダノ言ウテ、ナンデモ、知ッテオル気、デス」

 

「アノ者タチハ、ナンモ知リマセン。ナンモ知ランクセニ、ナンデモ知ッチョウ気デ、自分ヲ主張シマス。自分を大事ニシマス。ケレド、自分ナドトイウモノガ、ソゲン大事デスカ?人トチガウコトガ、ドウシテ自慢デスカ?」

 

「自分ナドトイウモノハ、取ルニ足ラヌモノデス。大キナ、日本ノ心、昔々カラ川ノヨウニ流レテイマス。ギリシャノ心モ流レテイマス。アイルランドノ心モ流レテイマス。一人一人ハ、ソノ大キナ心ヲ、チョットノ間映シテ消エル、小サナ鏡デス」

 

「死ンダ人ノ身体、ナクナリマス。心、ナクナリマセン」

 

「心ハ生キトル人ノ心ノ中ニアリマス。ナケレバナリマセン。昔々カラノ心、残ッテ大キナ川トナッテ、コノ大気ノ中、流レテイマス。私タチ、ソコカラノ心、貰ウテ、オノレノ心ツクルノデス。西田サン、亡クナッテモ、心、流レテイマス。母上ノチエ殿亡クナラレテモ、ソノ心、流レテイマス。ソノ心、私、貰イマス。オノレヒトリデ心ツクルコト出来マセン。自分、自分言ウトル人は、コノ大キナ川ニ気ガツキマセン。自分ヒトリデ、心ツクッタ気デイマス。ソレ、ノーデス」

 

 

こういう主旨は「不思議な世界」の「宇宙人への進化」(立花隆)にも出てきますし、手塚治虫の漫画「火の鳥」にも出てきます。手塚の場合は人間だけではなく動物も含めてあらゆる生命が一つの流れの中に収れんしていくと説いています。

大きな流れの中にいる個は、大きな心をちょっとの間映して消える小さな鏡に過ぎないという考え方。

 

いつまでたっても個の殻から出られない私としては、そういう世界を、つかまえることが出来た人はいるところにはいるんだなと思います。

山田さんはどうなのかと思いますが、山田さんは溢れんばかりのシンパシーを感じつつも、ほんの少し合理主義寄りかなと思っています。

 

でも「パンとあこがれ」の最終回では、主人公相馬綾がこういうことを言っています。

 

「どうして人の命が一人のものだと言えるだろう。兄の声、母の働く姿、そのひとつひとつが私の生きる支えになっていないとどうして言えるだろう。そしてとりわけあの機の音。あの機の音が私の生きる支えになっていないとどうして言えるだろう。そのすべてのことが今の私を作った。自分はひとりぽっちだとか、自分は人にとっていないも同然だとかいう考えを私は憎みます」

 

個というものは関係性の中で立ち上がって来るもので、他者なくしては自分もないという局面もあるわけで、漠然と個というものがあるわけではない。これは「不思議な世界」でなくとも言える話ではないかと思います。

自分というものがどう成り立っているのか。

 

いろいろ示唆の多い作品です。

 

 

 

「日本の面影」は、もともとはテレビドラマ4回分の長さの話で、それを2時間ほどの舞台によくまとめたものだと驚きます。

テレビドラマでは取り上げなかった怪談も、短く出て来くる余裕。

初演は観ることは出来なかったのだけど、幾度も再演され、いい舞台だなと思いました。

再びどこかの劇団がやってくれないかなあと思っています。今なら山田さんと山田ファンと一緒に観劇できるかも。

        

 2020.9.18

 

山田作品にあらわれる超常現象。

山田作品にあらわれる超常現象。

 

 

おぼろげな記憶ですがテレビ小説「藍より青く」の中で、誰かが死んだ後、玄関に置いてあった電話が深夜に鳴り、驚いて皆が来ると電話は鳴り止み、それは死んだ人が鳴らしたのだと思うという、そんなシーンがあります。

 

 

 

それが何かの伏線になっているとか、そういう事ではなく、生活や心情描写のひとつとしてそういうシーンがあります。

 

 

 

「チロルの挽歌」では後半に炭鉱で活況を呈していた頃の人々が街中を歩くシーンがあり、それが一人の幻覚という扱いではなく登場人物全てが見るという筋立てになっています。

 

      

 

「夏の一族」でしたか確か、アパートの部屋が光り輝きます。

 

      

その他あげていたらキリがないほど山田作品には超常現象あるいは超常現象として自然に登場人物たちが解釈するというシーンが現れます。

 

 

 

 

「異人たちとの夏」や「飛ぶ夢をしばらく見ない」などのように、ある怪奇な話とかファンタジーというカテゴリーに入ったものは了解できるのですが、とても現実的な話にふと入って来る超常現象を魅力的に感じつつも、作劇術としてはどうなのだろうと少し違和感をもって見てしまいます。

 

 

 

大抵の物語では不思議なことは幻覚という扱いとなるか、もしくはなんらかの合理的解釈がなされるというのが常識です。

 

 

でも山田作品ではそういうことはなく、不思議を不思議として受け入れなさいと言っているような気がします。不思議込みで生活だよと言っている感じがします。

 

 

 

勿論山田さんは宜保愛子のようなオカルトの世界の人間じゃないことはハッキリしていますが、オカルト的要素で人の心の側面に光を当てるという作劇術以上ののめり込みが見てとれます。

 

 

「日本の面影」ではそういう超常現象を有る無しという観点で捉えるのではなく、超常的世界を許容した世界の方が「豊か」ではないかというラフカディオ・ハーンの論旨が述べられますが、恐らくそういう意図でのエピソード挿入ではないかと思っています。

 

 

 

 

私は骨の随まで合理的解釈という世界に汚染されているからちょっと違和を感じるのだと思うのですが、こういう世界を皆さんはどう捉えておいででしょう、お聞きしたいものです。

 

 

 

 

 

という書き込みをしました。

すると、私のような違和感を持たれる方は多くいらっしゃるようでした。

 

ある方は「魂の現実」というキーワードを持ち出されました。

つまり山田作品のリアリティーが、生活というレベルから魂のレベルに深まっているのではというのです。

 

魅惑的言葉です。

 

それを受けて私は次の書き込みをします。

 

 

 



 

 

「裸の島」という新藤兼人の映画があります。

 

殿山泰司と音羽信子の夫婦が、水すらない小さな島で畑をたがやし、子供を育て、貧しいけれども黙々と生きていく姿を描いたものです。

若い頃これを見て感動しました。

 

 

 

見てすぐにその話を山田さんにしました。

すると山田さんはちょっぴり批判的で、新藤さんらしいとらえ方だけど、でも現実はあそこまで単純じゃないのではと言いました。

 

私は、でもドラマというのは現実の複雑さをどれだけ嘘なく単純化できるかということでもありますよ、僕は良かったけどなあと少しふくれました。

 

 

いや、君のいう良さというのは分かるよ、でも現実はああじゃないと思う。

もっとオバケみたいなものがあると思う。と山田さんは言うのです。

 

 

 

 

そのオバケみたいなものという意味がその時よく掴めませんでした。

 

そういう会話があったせいでしょう「藍より青く」で電話のシーンが登場した時とても印象に残ったのです。

 

 

 

それから伊丹十三の「お葬式」を巡って話をした時、その映画を認めつつも批判は人間の死を即物的な死としてしか捉えていないという点に向かいました。

 

 

その二つの会話が私の頭から離れないのです。

 

山田作品がテレビから小説や舞台の方に軸足が向いてからは、特にファンタジーという仕掛けの中でこそ掬い取れる現実という世界に突入して行ったと思います。

 

 

そして平行して発表されるテレビドラマの中でも超常現象のあらわれる確率が高くなります。

 

それは山田さんが変化したわけではなく、昔からその考えはあり、現状のテレビでは出せない世界であると控えられていたものが、あるとき「もういける」と思われたのではないかという印象で捉えています。

 

 

 

 

 

生活の中にあるオバケのようなもの。

 

 

それがこういうことなのかと私は個人的に思っています。

「死の準備」というエッセイの中でもそういう体験をしていると書かれていました。

 

どのドラマの超常現象も、なんだオカルトかとしらけることはないのですが、魅力あるシーンとして感銘しつつも、やはり自分の中の合理性がどこかで違和を感じているのです。

もちろんそれは山田さんも十分承知の上で書いているように思えます。

 

山田さんは「不思議込みで生活だよ」ともう主張してもいいと思っているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

そういう意味で「彌太郎さんの話」は、違和を感じさせない作品でした。

 

ファンタジーという仕掛けを用意しなくとも不思議だけど現実という世界、まさに「魂の現実」を描写することに成功した作品ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

あの作品を私は「人生は記憶に過ぎない」という言い方で評価しましたが、人間が生きていくことを感じ取り咀嚼していく世界というものは、けっして五感という合理的なものだけによってないということは多くの方が知っておられることではないかと思います。

 

 

 

 

オカルトではなく、まさしく生きていくということは「魂が体験していく世界」とでも言いたくなるものがあります。

そのぎりぎりのところを山田さんは書いていこうとしているのだと思っています。

 

 

 

 

という書き込みをします。

するとまた、更に違和体験が語られます。

 

そして再び私は書き込みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初からオカルトっぽく統一されていれば問題ないけど、とてもリアルな世界の魅力でひっぱっておきながら途中で「不思議」を出されちゃうと「え?」という気持ちになるのだと思います。

 

 

 

でも山田さんは「合理的なものだけで人生が解釈できるか」という根本的疑問を持っていると思います。

 

 

 

それは作劇術にまで及んでおり、常々合理的説明という「アリバイ証明」をすること自体が「不思議」を否定することになるのだとでも思われているふしがあります。

 

 

 

 

だからと云って山田さんが死後の世界なりなんなりを信じているかというと、それに関しては「死の準備」で否定されていますから、我々は途方に暮れてしまいます。

 

 

 

「死ぬのは他人ばかり」という外国文学者の言葉をよく引用したのは寺山修司氏で、どういう意味で寺山氏が引用されたのか分かりませんが、確かに合理的に言えば死が自分の人生に訪れた時、自己の意識は無くなっており、それはもう人生ではないのですから、死者というのは常に他人ばかりということになってしまいます。

 

 

 

 

人間関係が自己を作り上げている面は多々あり、他者なくしては自己は存在しないと言ってもよい位だと思います。

 

 

 

 

 

 

それは生きている人間との関係だけにとどまらず、「死者との人間関係」もまた自分たちに抜き差しがたい影響を与えているのだというのが山田さんの主張ではないかと推測しています。

 

 

死者が亡くなる前は当然のこと、死後も関係は深いところで続いているということなのだという主張だと思います。

 

 

 

 

 

だから死後が実在するかどうかという問題ではなく「死」がもたらすふくよかな思いとも言うべきものを山田さんは重要視しているのだと思います。

「死」が人生にもたらす影響を「合理的世界」は無視していると思われているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

それは心の中の問題として提示すれば良いのではなどと私は思ってしまうのだけど、山田さんはもう一歩踏み込んだ「オカルト」まで行かないと気が済まないようです。

 

それは「魂の体験」とでも呼ばないと説明出来ないような思いが人生にはあり、合理的ルートを使っているといつまでも到達しないという気持ちのあらわれではないかと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

今村昌平の「赤い殺意」で突然洗濯物がふわーっと飛び、ひとりでに小屋に入り扉が閉まったり、運転士もいない路面電車が雪の中を走っていたり、「神々の深き欲望」で嵐寛寿郎のでっかい顔が突然夜空に現われたりと、リアルな中に突然シュールな場面が出てきますが、今村さんを敬愛する山田さんはそのイメージなのかも知れません。

 

 

 

 

 

でもあれほど庶民のリアリティを描写できる山田さんの作風だと、シュールは似合わないという感じがあり、違和感はそこから来ているのかも知れません。

 

 

 

 

 

 

この辺が私の解釈の限界です。

 

 

 

 

 

 

 

そしてまたいろいろ掲示板上に発言があるのですが、

次の私の書き込みでとりあえず終わりとしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

超常現象にはまったく縁がなく、いくつになっても幽霊が怖い自分としては縁がなくて良かったとしみじみ思っています。

 

でも、そんな私が子供の頃不思議な怖い体験をしています。

 

いえ、もののけを見たとかそんなハデな話じゃありません。

 

我が家の前に小さな空き地があり、そこに、たち葵の花だったと思いますが群生していて沢山の紋白蝶が蜜を吸いに来ていました。

         

その蝶の数といったらおびただしいもので、満開状態の花の全てに蝶がくっついているような有様で、うっかり近づくとまるでポップコーンがはじける様に一斉に白い蝶が飛び立ちました。

 

その蝶をチャンバラ大好きの「少年剣士」である私は「修行」の為に斬ろうと思ったのです。

 

都合良く細い鉄板が手に入り、木刀ではないちゃんと鉄仕様の刀を作ることが出来たところだったので、気分は上々でした。

 

 

 

わっとはじける蝶の群れに飛び込んで、縦横無尽に斬りつけました。

 

何しろ凄い数なので、必ずと言っていいほど刀は蝶に当たり、次々と地面に落ちて行きました。

まさに子供というものの残虐さだと思いますが、私は「修行」に夢中になり、春の暖かい日差しの中で斬られた花と蝶が散らかっていったのです。

 

 

しかし、ある蝶を上段から斬り降ろした時、私は凍りつきました。

 

 

その蝶は花にとまる寸前でしたが、私の刀は、丁度羽のつけねの胴体部分だけを綺麗にストンと切り落としたのです。胴体の向いている方向と刀の方向がピッタリと一致してしまったので、そのようになったのですが、余りに早かったのでふたつの羽だけが空間に開いたままポツンと残ってしまいました。

 

その残った羽は、なんと胴体をなくしたにも関わらず、まるで胴体があるかのようにふわりと羽ばたき、そして花にとまりました。

 

 

蛾と蝶の違いは、蛾はとまっても羽を広げたままだけど、蝶は羽を閉じるということですが、その蝶も、羽だけなのに花にとまるとピッタリ閉じたのです。

 

そしてまるで密を吸うかのようにしばらく息をして、やがて、パラリと二枚に分かれて落下していきました。

 

 

 

戦慄しました。

 

 

例え胴体を無くそうと、蝶という全体の意思は羽に至るまで宿っており、そのプロジェクトは簡単に止めることは出来ないということなのでしょうか、命は簡単には停止できないということなのでしょうか、昼下がりの午後、さんさんと太陽が降り注ぐ中、私は立ち尽くしました。

           

首斬り刑があった時代に、首を斬られた人はどの時点まで意識があるのだろうと考えたことがあります。

 

例え胴から頭が離れようと、短い時間にせよ血液は巡っているはずで、斬られた瞬間に意識がなくなる訳ではないのではと思います。

刀が首を切断する痛みも感じている筈です。

ショックで気絶しない限り。

 

 

手足を全て無くし地面に転がり落ちる、意識体としての首。

必ず祟ってやると明言し、その証拠に首切り人の足元の岩に噛みついた生首の話もあります。

 

 

その後、私が二度と蝶を斬れなくなったことは言うまでもありません。

 

 

死はどこから死なのでしょう。

 

 

 

2020.9.18