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山田太一の扉

作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。

夜からの声(前編)

「夜からの声」
   (前編)

 

地人会第95回公演 紀伊国屋ホール 2004.9.2110.2

 

作   山田太一

演出 木村光一
          

 

出演 

       



        



           西山水木 
        佐古真弓 
        花王お
さむ
          長谷川博巳

 

 

 

 

 

これは、メモと記憶をもとにした「再現」です。

独断、勝手な要約が多々あります。

ご了承の上お読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日曜日の朝。

 

マンションの居間でくつろぐ本宮真司(風間杜夫)に中年女性が訪ねて来ます。

 

 

女性は最初タウン誌の編集者と言いますが、取材が始まってもメモもとらず、編集者にしては挙動がおかしいと真司は思います。

しかも真司が「話し相手コール」というボランティアをしていることを知っているので更に妙に思います。

 

 

そのボランティアは孤独な老若男女のために二十四時間対応で電話の話し相手になってあげるというサービスですが、当然守秘義務があるし自分がそのようなことをやっていることも口外してはならないと定められているのです。

 

 

なのに何故この女性は知っているのか。

まあスタッフの入れ替わりもあるし、口の軽い者もいるかも知れない、そのような流れの中から漏れたのであろうかとも推測するのですが、女が「三月十九日にあなたは誰と話しましたか?」と実に詳細なことを聞き始めた時に単なる取材ではないことに気付きます。

 

 

 

女は編集者でもなんでもなく、その三月十九日に真司が電話で話をした相手(男)の妻なのだと言います。

戸惑う真司に、女はヒステリックに何を夫と話したのかと追求します。

真司はそんな事実はないとしらをきりますが、女は「夫の日記に書かれていたから間違いない」と追及の手を緩めません。

 

 

 

 

真司は「もし旦那さんが『話し相手コール』に電話されていたにせよ、その相手が私であるとは限らないでしょう」と反論しますが何故か女は確信を持っており、更に真司にとって驚愕すべき事実を語ります。

 

 

 

三月十九日。つまり「春分の日」の前日に、夫はその電話をしたあと飛び降り自殺を図ったというのです。

飛び降りたのはもう翌日の「春分の日」になっていたほど深夜だったそうですが、その時妻もたまたま起きていてすぐに気付きました。

 

 

その時の飛び降りた音。

 

どすん。

 

 

その鈍い音を女は今も鮮明に覚えており、女は「夫の自殺」という耐え難い事実の淵から、真司に向かって懸命に叫びをあげているのでした。

 

 

 

「何を話したのか。夫と最後に向き合った人の話を聞きたい。夫は生きたいと思っていたに決まっている。なのに何故死んだのか。あなたが何か言ったんだ」

 

そう言って女は食い下がり、真司へ疑惑をぶつけますが、真司は懸命にしらをきり通します。

 

 

 

明らかに常軌を逸したと思われる女性は、真司の狼狽ぶりから、やっぱり電話の相手だと確信すると、何故かその日は帰ります。

 

真司はホッとしつつも、胸の中にある事実が重く残ります。

自殺をした人間と最後に話をした自分という重い事実が真司の胸に残ります。

 

 

 

こうして、夫に自殺された女と、死の直前に、偶然言葉を聞いた男の物語が双方の家族を巻き込んで展開します。

 

 

かなり暗く厳しい内容です。

が、それにも関わらず展開はまったくコミカルで、終始平凡な家庭の日常性を逸脱することはありません。

 

 

 

 

真司の奥さんは居酒屋のパートタイマーの境遇から研修のリーダーに出世し、夫の給料より高くなりそうだと活気に満ち溢れ、その日の朝も、社長がポルシェでお迎えにわざわざ来るところなのでうるさい位にハイテンションです。

 

それが面白くないので「社長に下心があるに決まっている」と真司がくさすと、「あら三十代で若い子にもてもての社長さんよ、そんなわけないでしょう」と妻に言い返され「年上好みもいるさ」などと真司は強弁し、女房をくさそうとしながら女房の魅力を賛美しているような滑稽な状態。

 

 

 

もう一人の家族である年頃のひとり娘は、独身貴族を謳歌していると言うと聞こえはいいけど、恋人のいない境遇をちょっぴり淋しく、いやかなり淋しく?享受しており、でもまあ基本的には呑気な青春を楽しんでいる状態。

 

そんな家庭で真司は女性たちほどの活気も精彩もなく、会社の仕事を自宅に持ち込み休日だというのにノートパソコンをぼつぼつやっている。

 

 

 

 

家族は真司に聞きます。自殺した男から何を聞いたのか。自殺の理由を知っているのかと。

しかし真司は守秘義務を盾にして喋りません。

 

女房は業を煮やして

「だからボランティアなんてしなきゃいいのよ、人の世話してる場合じゃないでしょう。結婚して二十七年にもなるのに、私の父には心を開かないで、他人にはぺらぺら喋って妻にも娘にも大事なことは言わない。なによそれ」

などとぞんざいに言われ真司は形無しです。

 

 

真司は何か真相を知っているのでしょうか?

 

 

分からぬままに、家族はその女が今後も関わってくるのではないかという不安を広げます。

 

 

 

 

 

一同の不安を吹き払うかのように、女の息子が数日後に現れます。

息子は、母が鬱病で入院したことを告げ、既に抗鬱剤の効き目で快方に向かっていると言い、母の失礼を丁寧に詫びて去ります。

 

 

 

そのあまりに礼儀正しい青年の一件落着の強調ぶりに、真司やたまたま居合わせた真司の義父はかえって不信感を持ちます。

 

 

夫の自殺という重い出来事をそんな数日間で克服できるのか?

 

いくら抗鬱剤のいいものが開発されたにせよそんなに簡単に治るのか?

 

 

真司の義父は妻に先立たれた淋しい気持ちも手伝ってこう言います。

「鬱は薬で治るみたいなことを言い過ぎる。そんなバカな話はないよ。薬で離れて行った恋人が戻ってくるかい?死んだ女房が生き返るかい?そんなバカな話はない。薬で治るなんて、人の悩みをバカにした話はない」

 

 

女性は本当に快方に向かっているのでしょうか?

自殺の真相はつかめたのでしょうか?

そして電話で男は何を言ったのでしょう?

 

 

 

数日後女性は病院を脱走し再び闖入して来ます。

 

そして叫びます。

「私が祖父を殺したの。お父さんが殺したんじゃない」と。

 

 

 

 

 

 

飛び降り自殺の前に祖父が心不全で亡くなっているのですが、それを私が殺したんだと女は言っているのです。

 

 

 

 

 

一体何が起こったのか。

 

そこへ女性の息子も現れ「そんなことはない」と母の言う事を強く否定します。

祖父は心不全で死んでおり、警察の検死結果でも証明されている、なのに何故その様なことを言うのかと息子は女をなじります。

 

 

 

祖父の死というのはこういうことです。

 

女と自殺した夫は、少し前になけなしの蓄えをはたいて痴呆の祖父を老人ホームに預けたのです。

女は長年の介護疲れで体を壊したこともありホッとしていたのですが、不幸なことに老人ホームが火事になり祖父は焼け出されてしまいます。

 

その焼け出された祖父を車で迎えに行き、渋滞で長時間の行程でしかたなかったとはいえ、無理な体力を使わせた故か、その夜に心不全で亡くなっているのです。

 

 

火事のショックと、長時間車に乗って疲れてしまったこと。

それが心不全の理由であろうと息子は言います。

だから母や父がどんな罪悪感を持つにせよ、それは何の関係もないんだと。

 

父の自殺にしても、人が自殺する理由なんて本当のところは分かりはしない。遺書でもあればともかく分かるものではない。

そう息子は強調します。

 

 

 

「忘れよう」と息子は言います。「おじいちゃんもお父さんもいないんだ。お母さんは生きて行かなきゃいけないんだ、後ばかり見ていてはだめだよ」と。

その言葉に真司も同調します。

「そうですよ、忘れて元気にならなくちゃ、やなことは忘れて元気にならなくちゃ」

 

 

 

前向きを強調する一同の励ましの中で、薬を飲まされた女の意識の混濁とともに一幕目の幕がおります。

 

 

 

そして二幕目があがると・・・。

 

 

 

 

 

あ、こんなふうに書いていると、まるでサスペンスドラマのようですが、舞台そのものは笑いの連続です。

 

 

こんな深刻な事態なのに真司の女房は、息子のいい男ぶりに色めき立ち、自分の娘の結婚相手にどうだろうかなどとおせっかいをやいているし、娘はやめてよなどと拒否しながらも満更でもなく、真司の義父は娘家族に邪魔にされているのかなあという疎遠感のなかで遠慮がちに事件に関わってきて、真司との義理の関係がちょっとフランクになるような局面があると過剰に喜んだりするという按配で、なんとも賑やかにお話は進行していきます。

 

 

 

どんな深刻なことも庶民の日常という視点に立てば、このようなものとして出現するのが本当のリアリズムなのかも知れません。

 

 

 

さて二幕目の幕が開くと朝のリビングで、明るい雰囲気です。

 

でも決して明るい気持ちの真司ではありません。

 

 

 

 

 

あれから二ヶ月ほど経ち、女はすっかり回復し、快気祝いを持って何故か真司を訪ねて来ます。

 

でも、どう考えても快気祝いを持って来られる間柄ではありません。おかしいと思います。

 

 

 

 

義父は言います。

 

念を押しに来るんじゃないか。ご亭主があんたに何を言ったか気にしているんだ。あんたがいる限り不安が残る。治るもんも治らない。舅を殺したことは忘れてくれと言いにくるんじゃないかと。

 

 

 

真司は怖いこと言わないで下さいよ、殺人じゃないって警察の検死でもはっきりしてるじゃないですかと言いますが、そんなことあてになるもんかと義父は身も蓋もないことを言います。

 

 

 

 

それにつられるように真司は「ご主人も似たようなことを言ってたんです。父親を殺したって」と語り始めます。「酷く酔っていてはっきりしないけど、父親のベッドに行ったような気がするって。父親のベッドを見おろしていたって・・・」と言います。

 

 

 

守秘義務を破りそうになる真司に、義父は聞くことを拒みます。

 

 

 

真司は語るのをやめますが一体真司はどんな言葉を聞いたというのでしょう。

夜の向こうから、声は何を語ったのでしょう。

 

ひとり重い荷物を背負ったまま、真司は、女とその息子の訪問を受けます。

 

 

 

 

 

 

人が変わったという言葉があるけど、これほど変わるのかと言うほど明るくなった女は薬の効用を説き元気を強調します。

一同は戸惑いながらもその元気を喜びます。

 

 

 

 

女は最近太極拳を始めたそうで、あるポーズをすると不安な悩みはポイ、ポイ、ポイと捨てられると明るく語り、嫌なことは全部忘れましたと楽しそうに言います。

 

 

 

 

 

 

その余りに見事な元気ぶりに真司は引っ掛かるものがあります。

 

 

忘れていいのか!

嫌な事は忘れていいのか!

それで元気になったってそれは本当の元気じゃない!

 

 

 

 

真司は、突然目の前にいる女や息子や家族の明るさを壊すように語り始めます。

 

自殺した男の言ったことを。

 

 

 

皆は驚き、女は「やめて!」と叫びますが真司は止まりません。

 

 

 

 

自殺した男は一体夜の淵から何を真司に語りかけてきたのか。

真司は何を感じ取ったのか。

 

 

 

 

まず真司は、自殺した男の立場から見ると、女が舅を介護するなかで老人虐待があったことを語ります。

 

 

しかしそれはすぐに女が否定します。

 

 

それはある意味虐待よりもっと面倒で複雑な出来事だったからです。

細かな細かな経緯があったのです。

女が懸命に忘れようとしている出来事。

「言ったところで誰が分かってくれるというの」

という投げやり気味の女に、義父が促します。

「細かなことを聞こうじゃないですか。細かなことで私たちは生きてるんだ」

 

 

 

女は言います。

「舅が好きだったの」と。

「だからと言って何もありゃしないけど、大柄で男っぽくて余計な口をきかない舅が主人よりいいくらいだった」と続けます。

 

 

息子は「そんなこと聞きたくない」と叫びます。

 

しかし義父が言います。

 

「聞かなくちゃいけない!こういうことこそ聞かなくちゃいけない」

 

 

 

 

女は苦渋の表情で、それでいて何処かうっとりするように語ります。

 

 

「ボケても人柄は残っていたわ。一緒に町を歩いても河原を散歩しても、徘徊して交番に引き取りに行ったりした時も嫌じゃなかった、楽しかった」とまるで介護の内実を恋愛物語のように語ります。

 

 

夫は仕事に追われていたため自分の苦労を察することも出来ず、濃密な関係がそこに否応なく築かれて行き、家庭は舅と嫁の二人だけの世界となったと女は語ります。

 

 

しかしやがて舅の老化は進み、人柄の匂いも消えて女は情けなくなります。

 

 

ある時女のことも分からなくなり、頑固に家から出ようとする舅を女は思いっきり引っ叩きます。

 

 

すると奇跡が起こります。

ほんの短い間ですが舅の目に力がよぎったのです。

女を誰だか分かっている目。

以前の男っぽい舅の目。

 

 

 

 

女は思います。

何か強い刺激があれば舅が元に戻るのではないかと。

女は叩きます。もっと強く叩きます。もっともっと強く叩きます。

 

でもやめます。

愚かなことです。

 

ところがある日舅が叩いてくれと訴えてくる。

叩くと目が生き返ります。

 

あの目が。

 

それから舅はせがむようになります。

女はもうためらいませんでした。

掃除機の柄でもブラシの柄でも殴りました。

 

 

 

 

叩くと舅が喜ぶと思えるのでやめられなくなり、私も喜んでいたのかもしれないと女は自己の心の奥底を述懐します。

 

 

 

 

 

 

それが、虐待と夫が思ったものの内実です。

女の介護の、ある姿です。

 

 

 

 

 

 

「夜からの声」(後編)へ続く

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夜からの声(後編)

「夜からの声」
   (後編)

 

地人会第95回公演 紀伊国屋ホール 2004.9.2110.2

 演出 木村光一

作   山田太一
     

 

出演 風間杜夫    西山水木 佐古真弓 花王おさむ 倉野章子

      長谷川博巳





 

 

 

 

 

そんな極限状況を遅ればせながら夫は気付き、貯金をはたいて祖父を施設に入れます。

 

女は介護からやっと開放されます。

 

 

 

これでとりあえず一件落着というところだったのでしょう。

 

しかしそんな苦労の果てに、あの施設の火事が起こるのです。

迎えに行く車中で女は逢いたいという想いをつのらせています。

 

 

 

ところが舅は、当然ながらそんな女の期待に応える存在ではなく痴呆の彼方にいてがっかりします。

 

女は、帰りの車中で降りたいと騒ぎ始めた舅を車から降ろすと、平手打ちをしてしまいます。

私が分からないの?私と逢って嬉しくないの?

 

そんな姿を見て夫は本当の意味で妻と父の「歳月のある関係」に気付きます。

虐待よりも深いショックを受けます。

そしてそうさせてしまった自分の器量、自分の責任。

 

 

 

 

 

 

疲れ果て、本当に疲れ果て家に帰り着いた二人は、酒を呑みながら変なことに気付きます。

 

隣室で寝ている舅の鼾がおかしいのです。

でも二人は黙って酒を呑みます。

 

 

女はこれから始まる介護の人生という重い課題に圧倒されており、男は戦後を逞しく生きて来た輝かしい父はもう存在しないのだという無念の思いの中にいます。

 

今の父の状態はこれまでの父も台無しにしてしまう。そんな屈辱の中で生きていることに何の意味があるのかと男は思います。

 

 

 

 

男の記憶では、その時父の枕元に立ってしまっていたそうです。

 

そしてごめんよ父さんと父の顔を両手で覆ったそうです。

一瞬鼾は止まりますがやがて復活します。

 

つまり一瞬にせよ男は父を殺そうとしたのです。

女はそれに気付きながらも何もしなかった。

 

 

 

 

それが二人の、祖父が死んだ夜の息苦しい記憶です。

 

 

 

 

 

やりきれぬ記憶です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その話を聞いた息子はこう言います。

それが何だっていうんです。大げさに過ぎないかな。ひそかな願い通りに祖父が死んだということでしょう。自分を責め過ぎるのは馬鹿げている。それで自殺するなんて。

 

 

 

真司は言います。

自殺は別の話だと。

電話でお父さんは希望を語っていた。妻と父の間にどういう感情が流れていても痴呆の老人と介護する人間の話だ。それはある意味ありがたいことで、めったにない幸せだったのかも知れないと言っていた。

 

 

 

だったらどうして父は死んだんですと息子は聞きます。

 

 

 

 

真司は分からないと答えます。

生きている人間には結局自分で死んで行く人間の気持ちは分からないんだ。傍目には死ぬことはないという理由で人は死ぬんだよと言います。

 

 

 

 

 

 

 

あなたはボランティアでいろんな人の話を聞いているからそんなことが言えるのだろうけどと息子が言うと、真司が言下に否定します。

 

ボランティアで様々な人の悩みを聞いているせいではないと真司は言います。

そこで真司は初めて自分の心情を言います。何故ボランティアなどという柄にもないことを始めたかということを。

 

毎夜電話をかけてくる、そのような人々に死ぬなではなく、自分自身に死ぬなと言いたかったからだよと真司は言います。切なく自分の孤独を吐露します。

 

 

 

驚くのは真司の女房です。

 

「ジョーダンでしょう?あなたにどういう死ぬ理由があるって言うの?B型で能天気な人間が」

 

 

 

 

真司は「ほらね、一笑に付されてしまう。それだけでも死にたくなるってもんだよ」と苦笑します。

「あなたは自殺するなんてタイプじゃ全然ないの。笑うしかないわよそんな話」と言いつのる女房。

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、あの。

 

 

またすみません。

 

 

B型の部分は笑えたと思いますが、お読みの皆さん、すっごく深刻な展開のお話のように感じられているのではないでしょうか?

 

 

いえ深刻は深刻なんですけど違うんですねえ、舞台は終始笑いに満たされています。

 

 

 

いえ、困っています。

あらすじを書いているとこういう事にどうしてもなるんです。

 

 

 

物語の中で展開するふくよかな感情や人々の思いというのは、あらすじだけでは表現できないんですね。

 

 

 

 

この部分にしても義父の「細かなことを聞こうじゃないですか。細かなことで私たちは生きてるんだ」とか「聞かなくちゃいけない!こういうことこそ聞かなくちゃいけない」なんて台詞の時も「お父さんうるさい!」とか「聞いた風なこと言うのやめて」とか女房や娘のツッコミが飛び客席は笑いの渦です。そのニュアンスはもう観ていただく以外にないということになってしまう。

 

 

 

 

 

 

と、言い訳しても始まりませんね。

 

 

 

 

続けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな真司との会話が一段落すると、女は「良かったわ」と言います。

いろいろ話せて良かったと女は言うのです。

女はやはりある程度回復しているのでしょう、「事実」を受け止めたようです。

 

 

 

 

真司は「ご主人は妻に感謝している、ありがとうの一言が述べたかったと仰っていました」と言います。

女は「それは嘘ね」と苦笑します。

「嘘じゃありません」と真司は重ねて言いますが、女は「死んだんだもの。ただありがとうな訳ないでしょう」と涙ぐみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

何故死んでしまったのか。

 

それは夜の彼方の出来事。

 

知りえぬ世界。

 

 

 

 

 

 

突然真司が「ああ!」と叫びます。

 

驚く一同の前で更に「ああ!ああ!ああ!」と叫びます。

 

 

 

そして自分の女房が研修のリーダーになってうかれている姿を誹謗し始めます。

女房は何よ急にと言いますが、真司は不満をどんどん言います。

社長はお前の肉体を狙っているんだとか、普通では言えない薄っぺらで滑稽な嫉妬心をどんどん言います。

女房は呆れます。

 

 

 

 

 

 

 

 

つまり女や息子に恥部を散々さらけ出させておいて、自分たちは聞いているだけでは申し訳ないだろうという真司の気持ちです。

こちらも思いっきり恥ずかしい本音をお見せしなくてはならないのではないかというヘンなバランス感覚。

自分だけではなく女房や娘や義父にも言え言えと、真司は煽ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

山田ファンなら「それぞれの秋」最終回の「告白大会」を想起されるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

ただこの舞台での「告白大会」は爆笑に包まれた「本音大会」です。

 

夫婦のすれ違い、ちょっとした親子の憎悪、義父と真司の家庭での滑稽なぎこちなさ、それぞれの小さな口惜しさ淋しさ、などなどが溢れかえります。

 

 

 

そしてある程度出たところで終りにしようとなります。

 

言いたいことはまだまだ一杯あるが、ほどほどのところで深入りしないほうがいい。「本当のことは怖い」と言います。

 

そう、本当のことは怖い。

 

 

 

 

 

 

 

最後に何故か息子の色男ぶりに執着する女房の熱意が功を奏し、娘と息子のおつきあいが始まるという爆笑のオマケもついてしまい・・・・山田ドラマらしく一同にこやかにお茶など飲んで、解決ではないけれど、ひとときの人間の「和」を見せて幕が下ります。

この色男の息子を演じているのは、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」主演の長谷川博巳です。

 

 

 

 

 

 

 

 

おしまい。

 

 

 

作    山田太一

演出  木村光一

 

出演  風間杜夫 (本宮真司)

            

    西山水木 (女房 本宮加代)
       

    佐古真弓 (娘  本宮亜弥)
       

 

    花王おさむ(義父 森沢郁夫)
        

   

    倉野章子 (女  藤井頼子)
        

    長谷川博巳(息子 藤井柾)
        

  

   

地人会第95回公演 紀伊国屋ホール 2004.9.2110.2

 

 

 

 

 

 

2021.1.16

 

 

「日本の面影」(前編)

 

 

「日本の面影」舞台版(前編)。

 

 

「日本の面影」は1984年にNHK4回にわたって放送されたドラマです。

 

小泉八雲(ラフカディオハーン)の一生を描きました。

明治の近代化。西欧化。

その光と影。

当時、そして今でも、日本がどんどん失くしつつあるものへの哀惜。

理屈もあるけど、決して理屈っぽくならず、血肉化された庶民のエピソードの中に描かれていて見事です。

 

 

 

そして舞台化もされました。

連続ドラマ4回分を2時間ほどの舞台に圧縮されましたが、見事な劇化でした。その手腕に唸りました。

再演を重ね、200110月イギリス公演が企画されました。

 

(参考資料。)http://www7b.biglobe.ne.jp/~e-h/chijinkai/plays/81X.htm

 

スタッフ、キャストと共に、限られた人数ですが日本の観客も行くという珍しいツアーでした。

風間杜夫ファンなどに交じって、山田太一ファンとしてただ一人若き女性が参加されました。その方のレポートが「ドラマ・ファン」に4回に分けて連載されました。

 

当時山田さんは「連続ドラマはもう書かない」と宣言され、山田ファンにショックを与えていたころです。そんな会話も出て来ます。イギリス公演がどのような雰囲気で行われたのか、貴重な記録です。お楽しみ下さい。

 

 

 

 

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ロンドン公演 その1

 

8日に、帰国しました。

 

レポートというほどのものではありませんが、見て来たことを、お伝えします。

 

ロンドンのリッチモンドシアターという、伝統のある劇場での公演でした。

席は3階までありました。

私は、3日間の内、1・2日目の公演を見ました。(ツアーに組み込まれていたのは1日目だけでした。)

みなさん、どのくらいの観客がいたと思いますか?もう、どこかから、情報聞いてますか?・・観客は、3階席までいっぱいでした。

 

 

 

 

 

私は、1日目は、ツアーでチケットも込みだったので、1階の前から15列目の真ん中でした。

 

(太一さんは14列目の右端で、奥様、息子さん、そのお嫁さんと4人で並んで観ていらっしゃいました)

 

 

 

1日目は送り迎えのバスがありましたが2日目は、ひとりで地下鉄に乗って行き、当日券を買いました。

3階の後ろから、3列目でした。

 

 

ツアー以外の日本人のお客さんもたくさんいましたが、イギリス人の方が、たくさんいたのは意外でした。

 

お芝居の最中は、とても良い雰囲気で、笑い声がたびたび聞こえてきました。

 

役者さんたちからも、やりやすかった、との感想がありました。

 

・・つづく。

 

 

 

 

 

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ロンドン公演 その2

 

ひねった文章が書けなくて、すみません・・。

 

 

 

公演の後、レセプションがあり、リッチモンドシアターのオーナー(?)の方の挨拶がありました。

 

「素晴らしかった」と。

 

日本の会社を招いたのは、初めてだそうです。

 

 

 

次の日、地人会の演出の木村さんがおっしゃっていたのは、次のようなことでした。・・・

 

「どうして、こんなに素晴らしいのに、3日間しかやらないのか?」と聞かれた。

自分はこんなにお客さんが入るとは思っていなかった。

「そんなに入らないよ」

「ロンドンの人は、1年に1度行くか行かないか、というのが劇場だ」

と調査の段階で忠告をする人がいて、

びびって、

日程を短くした。

 

 

イギリスの人に「今まで、触れたことのないものに触れた」という感想を言われた、それは、山田太一さんの『ラヴ』という作品に自分が出逢った時に感じたのと、同じような感覚ではないか。・・・というようなことでした。

 

 

 

 

 

風間杜夫さんは・・・自分はハーンとは違い、幽霊は信じない方で、山田さんに「そういうこともある、と考えた方がいい」といわれているくらいだが、歴史のある劇場で、今まで数多くの人たちがこの舞台に立ったのだと思うと不思議な感覚で、磁場のようなものを感じながら演じている、安心して身を委ねられる。・・・・と言ってました。  

 

言葉が、全て覚えているわけではないので、正確ではないのですが、だいたいこんな感じでした。

 

他の役者さんたちの言葉も、次回覚えている限り、書きます。

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「日本の面影」(後編)に続く。

 

「日本の面影」(後編)

 

 

 

「日本の面影」舞台版(後編)

 

 

 

ロンドン公演 その3

 

 

 

 

役者さんのコメントの続きから でしたよね・・。

 

パソコンに向かう時間がとれなくて、記憶が遠のいていってます。

 

 

 

 

 三田和代さん(妻・小泉セツ)・・客席の雰囲気がとてもよくて、自分達が、サービスしてもらっているみたいだった。

 

このまま、お客さんごと、日本に連れて帰りたい。

 

自分をあまり作らずに、自然に演技できた。

 

 

 

 

加藤土代子さん(セツの養母・稲垣トミ)・・今回のパンフレットを、ずっと大事にとっ

ておいて、いつか、孫に、「おばあちゃんは、ロンドンの舞台に立った」と、見せるつも

り。

 

 

 

内山森彦さん(セツの養父・稲垣金十郎)・・緊張しました。

 

 

加藤佳男さん(佐伯先生と、ハーンの父)・・奥さんもツアーに参加しているので、(今、自己紹介する時)自分をうまくコントロールできません。

 

 

 

 

山本亘さん(西田先生)、松下砂稚子さん(セツの実母)、松熊信義さん(セツの養祖父)、のコメントが、今、思い出せません。

 

 

 

 

あと、若い3人(中村啓士さん、大原和洋さん、藤島琴美さん)は、ティーパーティーには、参加されていませんでした。

 

 

 

 

みなさん、もっといろいろ話して下さったのに、残念なことに一部分ずつしか、思い出せません。

記憶から抜け落ちています。

 

 

 

 

 

 

ここから先は、ティーパーティーで、山田太一さんのお隣りに座ってからのことです。

 

 

私は、質問らしい質問はほとんどしませんでした。

 

隣にいるだけで、満足してしまって、

自分の思っていることを少し話しただけでした。

 

 

今、考えると失礼なことを言ったかもしれません。

 

 

太一さんなら、わかってくれる、と安心して、あまり言葉も選ばずに話しました。

 

 

 

 

 

今までの作品は、映像では見ていないものが多く、ほとんど脚本だけだったこと。

 

インターネットを通して、太一さんのドラマをビデオに保存している方から、幸運にも連絡を頂き、これからもみることのないはずだったドラマを、見ることができたこと。

 

 

 

脚本と、実際に映像になったものとでは、印象も違い、長いこと好きだった作品の順位が変わったこと。

特に「早春スケッチブック」の山崎努さんの迫力がすごかった、こと。

 

 

 

 

 

送って頂いたビデオを、通していっぺんにみたいけれど、

 

そうする時間がなく、

 

逆に全部見てしまうのももったいなくて、

 

少しずつ大事に見ている、

 

これから作るものは数も限られてくるけれど(失礼・・!!)、

 

私は今までの作品でまだ見ていないものがあるので、

楽しみがあって良かった、

 

見ることが出来る可能性が全くないのは困るけれど、

 

ビデオも手元にあって、全部見終わっていなくて、良かった、と思っていること。---

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなことを話しました。

 

太一さんは、

 

「そうやって、保存してくれているのは、嬉しいですね」

 

「『早春スケッチブック』は山崎さんの演技が良かった、先日山崎さんと食事に行った時に、山崎さんが『早春スケッチブックを最初から見ているけれど、あれ、面白いわ』と人ごとのように言ってました」

 

とおっしゃっていました。

 

 

 

 

 

 

 

次からは、他の方からの質問です。

 

 

 

最近良かった映画は?・・「千と千尋」「愛のエチュード」「ポルノグラフィックな関係」・・今度放送される自分のドラマが、映画の内容と似ているけれど、映画を見る前に書いた物なので、パクッた訳ではありません、同じようなことを同じような時期に考えている人がいるのだ、と不思議に感じました。

「丘の上の向日葵」を書いた時にも、同じようなことがあって、その時にも、不思議に思いました。

 

 

 

 

 

 

「ふぞろいの林檎たち」は、もうやらないのですか?

 

・・僕はもうやりたくないのですが、毎年ある時期になると、テレビ局から「やりませんか」と言われる。

 

 

 

 

本当は、連続物はもう書くつもりはない、今、連続ドラマを書こうとすると、いろいろとうるさく言われて、書きたいものがなんだったのかわからなくなってしまう、つかいたい俳優さんが地味な人ばかりだと駄目だと言われるし、事件らしい事件を盛り込まないと、また駄目だと言われて、そういうことは、若いときなら、条件を呑んでも打ち勝ってやろう、と思えたけれど、今は、連続物は書かないことに決めました。

 

 

 

 

もうすぐ死んじゃうんだから好きなことだけすることにしてます。

 

(私が、NHKとかで、2~3回位とかのは?と質問すると、「それくらいならあるかもしれない」ということでした)でも、「ふぞろいの林檎たち」に関しては、やるかどうかは決めてないけれど、やるとすれば、再来年以降です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ロンドン公演 その4

 

 

 

 

--続きです。

 

 

山田さんは、最近のドラマなんかは見ないのですか?

 

・・野沢尚さんの「反乱のボヤージュ」、見てくださいと、野沢さんからビデオを送ってもらったのを見ました。

 

面白かったですよ。

 

 

 

 

 

 

 

「再会」見ましたよ、との声に・・・地方局から、好きな俳優さんで、自由にやっていい、と言われてやってみたのですが、面白かった、向こうも面白かったと言ってくれてるので、またやろうかと話してます。

 

 

 

 

 

 

インターネットはされないのですか?・・「インターネットは、悪口ばかり書いてあるし、しかも匿名の世界だから、ものすごいこと書かれているから、見ない方がいいよ」と、言われて、見ないことにしてます。

 

 

 

 

 

 

 

質問コーナー(そんなコーナーはありませんでした、今、作りました。)は、これくらいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私が「2日目の公演も行きます」というと「そんなにいいですよ」と言われましたが、行きました。

 

1日目より、すごい人数に感じました。

 

 

 

 

太一さんはその日、NHKの取材があるので、早目に劇場に行かなければならない、ということでした。

 

 

 

 

ホテルから劇場へは、地下鉄を乗り換えして、あとは徒歩で行かれるとのことでした。

てっきりタクシーを使われるのかと思っていたのですが。

 

 

 

他の役者さんたちは、どのように劇場まで行かれていたのでしょう!?ツアー参加者の、風間杜夫さんのファンの方達は、3日間劇場に通って、風間さんが出て来るまで、外で待っている、と言ってました。パワフルでした。

 

 

 

 

 

 

2日目、タクシーで一緒にどうかと誘って頂きましたが、私は行きも帰りも一人で地下鉄にしました。

 

 

 

 

 

ひとりで余韻に浸りたかったのもあるし、「好き」の種類の違いを感じたりもしたので。

 

 

 

 

 

 

ティーパーティーの帰り、太一さんが

「じゃあ、もし来て下さることになったら、劇場で会いましょう」

と言ってくださいましたが、

私は3階席で、きっと太一さんは1階席で、

探さなければ見つからないような感じだったので、諦めました。

 

探し出して声を掛けても、ご迷惑だろうと思いました。

 

でも、お芝居が終わって、帰ろうと階段を降りる時、太一さんがちょうど階段を上っていらっしゃって、擦れ違いました。

 

 

 

 

「こんばんわ」

 

「こんばんわ」

 

「じゃあ、わかりましたね(地下鉄で劇場までどのように行ったらいいか、私がティーパーティーの帰りに質問して、教えてもらったので、それに対して)」

 

「はい。私、3階でした。3階も人がいっぱいでした、・・さようなら」

 

「さようなら」

 

と、会話もできました。

 

 

 

 

 

風間さんファンは、<さあ、これから>という感じでしたが、

 

私は「さようなら」と言えたので、

 

思い残すことはなく、

 

嬉しい気持ちで地下鉄に乗り込み、

 

ホテルへ帰りました。

 

 

 

 

 

とっても憧れている人なのに、太一さんと話すとき、アガリ症の私がリラックスしているのが不思議でした。

 

 

 

 

普段は、好きな人と話すとしばらく手の震えが止まらなくて、ペンのキャップもかぶせられないくらいなのに、です。

 

 

 

 

 

 

風間さんも、好きな俳優さんだったのですが、ひとこともお話できませんでした。

ファンの方々が、あまりにも熱烈で・・。

 

 

 

でも、太一さんと思いがけずたくさんお話できて、これ以上の贅沢はありませんよね。

 

                    

 

 

劇場への地下鉄での行き方まで、太一さんに聞いてしまったなんて、

 

ほんと、

 

贅沢な時間を過ごさせていただきました。

 

 

 

 

                  了

 

 

2021.2.19


 

知らない同志

 

「知らない同志」

 

1972TBS連続ドラマ19回。

出演、田宮二郎、栗原小巻、杉浦直樹、山本陽子、石立鉄男、前田吟、他。

 


随分昔のドラマです。

TBSチャンネルが出来たころに再放送されたんですけれど、その後まったく放送されません。だからあまり見た人いないんじゃないかと思います。

 

 

スーパーの店長・杉浦直樹は、店の営業不振により左遷され、妻・栗原小巻を東京に残して大阪に転勤します。

その代わりに大阪からやって来たのが新店長・田宮二郎。

田宮二郎もまた妻・山本陽子を大阪に残しての単身赴任です。

当時流通革命の先兵と言われたスーパーマーケットを舞台に、コメディテイストの人間模様が繰り広げられます。

ちなみにTBS大山勝美さんと初めて組んだ作品です。

 

         

このドラマを執筆している時、ご自宅で、山田さんから少し構想を話してもらう機会がありました。

私は、次は何書いてるんですか?と遠慮なく聞く人間でした。すると山田さんはこう言いました。

二組の夫婦がね、転勤で大阪と東京に別れちゃって、スワッピングみたいになっちゃうんだよ、フフ、と楽しそうでした。

 

        

当時、平日午後の「○○ワイド」なんていうラジオ番組で、MCが「今日は浮気の虫が騒ぐわあ~~♪っていう奥さま、お電話ください!」なんて呼びかけたら、かなりたくさんの奥さんから電話がかかって、私は呆れちゃって、こんな調子ですよ世の中、と山田さんに言ったら、そんなもんじゃないのと答えていました。

つまり山田さんにとって、不倫願望が大衆に満ち満ちていることは想定内のことで、そのベースの上にどんなドラマを構築するかということが問題だったと思います。

 

 

 

そうやってスタートした「知らない同志」ですが、残念ながら山田さんは、5回目まで書いたところで、別のドラマを書かざるを得なくなります。

 

確か「藍より青く」(テレビ小説)の企画をNHKに出していて、それがOKになったためだったと思います。OKになるかどうかわからない予定で企画書を出していたので、OKが出て慌ててしまった。

 

まあ、当時売れっ子だった花登筐のようなライターなら連続ドラマを同時進行で複数書けたでしょう。この人は大阪東京間の新幹線で何本も原稿を書き、「新幹線作家」と言われ、そのあまりの速さに右手首が原稿にこすれ、血が出たという逸話があります。

でも、山田さんはそんなタイプではなかった。一作一作書き終えないと次には進めなかった。

構想はしっかり固まっていて、5回目まで書いて、さあいよいよこれからだ、という時にバトンタッチしなければならなくなった山田さんは、もう仕方ないないよねと残念そうに言っておられました。

 

 

 

そして助っ人に呼ばれたライターが3人。

は6回から13回まで書いた。

 

それを見た山田さんはブツブツ言ってました。

あれだけ打ち合わせしたのに、ちっとも分かってないとに不満たらたらでした。

 

確かにの脚本は通俗的で、5回目までの緊張、登場人物の心理的つながりが消えていました。単にストーリーがあるのみとしか思えず、下品なキャラクターの饗宴になっていました。安っぽいサスペンスです。それが5、6、7、8、9、10、11、12、13と続きます。

 

 

この頃はすでに映画の脚本コンクールで受賞(名作です。映画化されなかったけど)しており、幾つかドラマも書いていたと思います。ですから一介のライター山田太一に唯唯諾諾と従うのはプライドが許せなかったのかも知れません。

だからは降ろされたのではないかと推測してます。まあ、他の仕事のオファーも来てたみたいですから、スケジュール上の問題かも知れません。

 

次の14回はが書きます。

これがデビュー作と言っていいは、よりはちゃんと書いていると私は思いました。というか相当に大山勝美、山田太一のサジェッションがあったのではと思います。

 

15回目で山田さん復活します。降ろしたから書かざるを得なくなったのか?

 

16回が再びです。

17回がベテラン

18回

 

19回(最終回)は全員のライターの連名です。

ま、たぶん山田さんが書いたと思うけど、この混乱の収集は出来なかったと思えました。

この頃山田さんは、「藍より青く」を書きつつ、小説版の「藍より青く」も進め、映画化も同時進行。クレジットされていないけど、映画脚本への関わりもあった。当時の朝ドラは1年間の長丁場で大変なスケジュール。そんな状態。

 

 

山本陽子の人物像は結局焦点が合わないまま。

杉浦直樹は大阪で、山本陽子を田宮二郎の妻とは知らずに岡惚れしているのだけど、山本陽子は気があるのかないのか、じらしているだけなのか、どう生きていきたいのか、まるでわからない状態で最終回まで行きます。

 

 

 

二組の夫婦がね、転勤で大阪と東京に別れちゃって、スワッピングみたいになっちゃうんだよ、フフ、と楽しそうに語っていた山田さんの思惑は何処まで達成されたのか。

 

揺れる二組の夫婦なら面白いけど、後半は杉浦直樹が悪役っぽくなるので、拮抗がとれていない。しかも山本陽子が田宮二郎の妻と分かるのは最終回という構成は全然良くないと思いました。

終わってみると、田宮二郎と栗原小巻が不倫するかしないかというハラハラどきどきがウリだったのか?と思いました。

 

スーパーの経営をめぐって外国資本のスーパーとの争いがくりひろげられ、これからの小売業の合理化が語られます。田宮二郎(外国勢)と杉浦直樹(日本勢)の対立はどうなるのかと焦点を絞っておいて、最後に双方の会社が合併するなんてオチになってしまう。これはあんまりです。

 

 

でも、このドラマは「高原へいらっしゃい」への良い布石になったと思います。

田宮二郎が妻とうまくいっていなくて失意であるという設定。

従業員の前では明快に理想を語る姿と、逐一それに異論を唱える前田吟というコンビネーション。

肉の目利きが出来る人間として常田富士男が出て来ますが、「高原へいらっしゃい」では仕入れの目利きが出来る人間として出て来る。同じイメージです。

田宮二郎の「高原へいらっしゃい」における支配人のイメージはここで決定づけられたと思います。実に魅力的です。

 

ところが、「高原へいらっしゃい」でも、山田さんのスケジュールはぶつかってしまい、途中を他のライターに頼まざるを得なくなります。

田宮二郎とのコンビはそういう運命だったのかと思ってしまいます(笑)。

 

 

私は「知らない同志」に難癖をつけるためにこの文章を書いているわけではありません。

「山田ドラマ」と一言でくくられるドラマ群も、一つ一つ細かな経緯で出来上がっており、その一例としてご紹介したということです。

このドラマを見ておられない方が、見るチャンスに恵まれれば、も良く書いてると思われるかも知れません。も今や大御所になっておられます。是非とも皆様の目でご確認出来る日がくることを願ってやみません。

 

 

2021/3/18