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作家山田太一さんの作品群は、私たちに開かれた扉ではないでしょうか。
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「山田ファンの始まり(17)なんの利害もない関係」
結婚式のあと披露宴が始まり、山田さんはスピーチ冒頭でこういうことを言われました。
「私と彼とは、なんの利害もない関係です」
私との付き合いをそう表現されたのです。
とても胸をはって言われたという記憶があります。
なんの利害もない関係。
私はその言葉がどういう意味なのか分かりませんでした。
まあ、もともとそういうことに疎い人間でした。
ですから後でこう推理しました。
当時の山田さんは、話題作をどんどん書き、ドラマだけではなく、NHK教育テレビに登場し、学者のように家族問題を語るなんてことが増えていました。
ですから、おびただしい数のオファー、それに伴う関係者の気遣い、結果的に増えるイエスマン、それらに取り囲まれはじめた頃だったのだと思います。
物書きとしてはワンマンを通す環境が整って結構なことのように思えますが、当然健康なことではありません。創作の舵取りに、より一層の覚悟が必要な事態になっていたと思います。
時代を読むなんてことの出来ないボーっとした私は、難しいことは分からない大衆代表として、実感批評を山田さんに言い続けていました。
面白くないものは面白くないとはっきり言いました。イエスマンに囲まれはじめた山田さんにとってはひとつのデータにはなったのではないかと思います。
つまりこいつは優れた人間ではないが、迎合して嘘をつくような人間ではないという信頼があったということです。
私の人間としてのいびつ度を計算して修正していればいいだけで、それはある程度の指針にはなったのではないかと思えます。
当時、信じられないでしょうが、私にすら、どこでどう聞きつけたのか、小さな芸能プロダクションから「山田先生を紹介して欲しい」という要望が来るようになっていました。
山田さんは一介のライターに過ぎず、キャスティング権など持っていないと断っていましたが、私にすらそうですから、利害が絡んだ人間関係があっちにもこっちにもしかけられていたと思います。
そういうことがあっての、なんの利害もない関係発言だったのだと思います。
結婚式というのは厳しいタイムスケジュールで動いています。リハーサルもなく、ぶっつけ本番ということがたくさんあります。
キャンドルサービスの時など、私たちの前に男性スタッフが一人ついて、一挙手一投足を指示するのです。
みんなに聞こえないように、最低限の小声で
「ここでお辞儀です」
「ここで右向いて、頭を下げて」
「左向いて、頭下げて」
「次に前を向いて一礼」という塩梅です。
それが毎日やっているルーティンワークなんでしょう、なんの感情もない。思い入れがない。
結婚式の司会が、感動的に感動的に「人生の最高の日」として演出しているのに対し、真逆とも言える思い入れのなさ。次々と、クールに、ロボットのように指示を出す。
そのギャップが可笑しくて可笑しくて、山田さんも喜んじゃって「ぼく、書くよ、この人書くよ、絶対書くよ」と興奮していました。
ああ、忙しいのにこんなことに巻き込んじゃってと思っていたけど、少しでもネタを拾われたのなら良かったと私は思ったのでした。
そうやって結婚式は終りました。
山田さんご夫妻が送り出してくれた私の家庭。それは当然ですが、独身の人生とはまったく違うものでした。
何より、仲人を提案しててんてこ舞いさせた女房です、更に凄い家庭のダイナミズムが始まりました。予測不可。
1年後には子供も生まれ、プラットフォームも満足に歩けない自意識過剰な若者は、子育てという嵐に突入していったのです。
そう、子どもが生まれました。
生まれて来た責任という問題は解決していませんでしたが、子どもは生まれました。
私は女性を妊娠させるなんて体験はなかったので、「あ、やっぱり出来るんだ」と驚いてるような塩梅でした。
まったくそんなボーっとした父親に誕生させられたんじゃあ、子どももたまったものではありませんが、私はそんな形で親になりました。
私は前もっていろいろ考える観念性を控えるようにしていました。無責任と言われようと、成行きを積極的に受け入れようとしていたのです。
将来「頼みもしないのに何故生んだ!」と追及されたらどうするか。
私には答えはありません。
ただ、覚悟だけはしていました。もしその時が来たら、ただひたすら謝ろう、土下座をしよう、それだけを決心していました。
幸い、こんにちに至るまで、そんなことを言われたことはありません。
でもきっと思ったに違いないと思います。
それほど人生には理不尽なことが多い。
まあ、とは言っても、そんな観念性の対局にいる女房の血が入ってますからね、そんな世界は何処吹く風かも知れません。そこは分かりません。人間はいろいろです。分かりません。
山田さんの「平凡に見える家庭でも、それぞれ何かを秘めている」というドラマを観て、私はそんな意味で共感していたのです。
山田ファンの始まり(18)「大衆に向かってドラマを書く」に続く。
「山田ファンの始まり(18)大衆に向かってドラマを書く」
「山田ファンの始まり(6)」に「カリメロ」のことを書いていますが、そこにこういうエピソードがあります。
カリメロが秘密を作ろうと必死になっている時、母親が部屋に入ってこようとします。
カリメロは「ここは秘密の部屋だ!入っちゃダメ!」と母親を押し出し、バタンとドアを閉めます。
唖然とした母は「カリメロ!」と叱ります。
カリメロは「まだいるの!行ってよ!」と叫びます。
このシーンの台詞は、最初違うものでした。
カリメロは「まだいるの!出てけ!」と叫ぶのです。
それを読んで山田さんは言葉が強すぎると言いました。
「行ってよ!」と「出てけ!」どこが違うんだ?と思われるかも知れませんが、山田さんは母への台詞にしては「出てけ!」は強いと言われるのです。
私はそうかなあと思いました。
九州の私の家では日常茶飯事の台詞でした。
ホームドラマを書く時にはどうしても自分の家庭がベースになりがちです。この時私は自分の家庭がかなり下品な家庭なのかなと思いました。
山田さんもホームドラマを書いていて、こんな台詞はあり得ないと批判されたことがあるとエッセイで書かれています。
家庭に関しては視聴者それぞれの実感があり、誰もが批判できる根拠を持っています。
でもそれを100%活かしていては十人十色の迷宮に入ってしまいます。
この場合も、山田さんはこんな家庭はないと言っているわけではなく、どこかで基準点を定めていて、その観点から批判しているわけです。確かにカリメロは愛らしいキャラクターですからやっぱり「出てけ!」はないでしょう。
台詞というのは視聴者(大衆)に向けて書かれています。
違和感なく台詞が受け取られなければならない。意図的に違和感を演出する気持ちがない限り、不自然と思われることだけは避けなければならない。
基準点というのは殆ど不文律で、個々の作家が独自に築いているものです。
山田さんの不文律は他にもあり、子どもの台詞なのにそうじゃない台詞を選んじゃいけないというものもありました。
私は、例えば「ボクはそんなことは許さない」などと幼い子どもが言うには硬い台詞を書いたりしました。山田さんに指摘されるとすぐ分かるのだけど、ついついストーリーの中心ばかりに目が行っていると、使ってしまうゆとりのなさ。つまり作者の言葉になってしまう。それを言われました。
あと、これはカリメロではありませんが、他の人の作品を見ながら、山田さんは「台詞がナマだよね」という批判をされました。
例えば「幸福」なんて台詞があって、それがナマだということでした。あと「人生」「愛」という言葉も、ちょっとという感じで眉をひそめられました。
私はこう思いました。
大衆に向けて書かれた台詞に、「愛」とか「幸福」という言葉は似合わないということがあると思いました。
あくまでも当時の大衆ということで、いまはかなりの人がエセインテリになっていますからそういう台詞も可能になってきましたが、当時としては、そんな抽象的な言葉で思考していないというか、「愛」なんて概念で総括していないということがあったと思います。言葉として出て来るとすれば「寂しい」とか「つまらない」とか「ひどい」とか、そういう言葉になっていたと思います。
例えば私の母。
私たち子供に向かって「愛してる」なんて言ったことはありませんし、「愛してくれ」とも言ったことはありません。しかしもちろん愛情はありました。
つまり言外に気持ちはあったわけです。
母の愛はご飯を作ることだったと思います。あくまでも単純化すればということですが、ひもじくないように(お腹がすかないように)ご飯を作り続けることだったと思います。毎日毎日家族にご飯を作ることだったと思います。
特にお正月はそうでした。
何日も前から下ごしらえをし、たくさんの御馳走を並べるのが母の愛情だったと思います。もう食べきれないという分量を作っていました。いくら三ヶ日食べると言っても、限度がありました。それでも母はひもじいといけないからと、宴会の終わりころにはご飯を炊いていました。みんなは「もう無理」と音をあげました。それが母の愛情でした。「愛してる」とも「愛して欲しい」とも言わないけどそれが母の愛情でした。エセインテリ化する前の大衆の一タイプではなかったかと思います。
ドラマのことを考える時、若かった私は母に腹を立てていました。
「東芝日曜劇場」の「女と味噌汁」などを見て「いい着物来てるねえ」とか「床の間の生け花がいい」とか言って感心しているのです。
なんということだ、見るべきところはドラマの内容じゃないか、着物とか生け花とか枝葉末節じゃないかと怒りました。
「要するに母は意識が低いんだ!」と思っていました。
そんなことを言う私に、山田さんは「君がそんなこと言えるほど意識が高いとは思わないよ」と反論します。
だって枝葉末節じゃないかと思いましたが、山田さんは違っていました。
山田さんの見据えている世界は広大でした。私も広く見ているつもりでしたが、まるでレベルが違いました。これが本質だと思うことも単に一部に過ぎないのでした。
ある夫婦のすれ違いのドラマを書いたとき「二人の素顔」とタイトルをつけたら、山田さんに「ナマだ」と言われて却下されたこともあります。夫婦の本質だなんて意気込んでいたら「ナマだ」と言われる程度のものでしかなかったのです。
山田さんは「二人で歩いて」というタイトルをつけてくれました。その柔軟さに驚きました。
山田さんはタイトルをつける時に七転八倒すると言っています。「油っ気」が抜けたタイトルに到達するまでが大変だと言っています。
ナマな表現。これを警戒する。
作者はどうしても総括した思考で組み立てているので、そこで辛抱が足りないとナマな言葉を使ってしまう。
大衆に向かってドラマを書く。私は山田さんがどんなアンテナをはっているかということを知ることとなりました。
「山田ファンの始まり(19)平凡で幸福な家庭」
山田さんはこういうことも言います。
「描写には方向性がある」
ドラマは日常をリアルに描写しているだけではなく、向かうべき方向があるからそのシーンがあるというわけです。
私たちのおくっている日常にはテーマも方向性もありません。
後になって、ああ、あの痛みはこの病気の前触れだったのかとか、あの時私は嘘をつかれていたのかとか、子どもはこのことを訴えていたのかとか、いろんなことがごちゃ混ぜになって進んでいるのが日常です。複数のことが一斉に進んでいて、一本の線がない。
しかし、ドラマには一本の線が存在する。それが日常と違うところです。
一本の線にそって、伏線があり、人物描写があり、見せ場があり、数々の仕掛けを含んで進んでいく。もちろん群像劇になったら一本どころではなく複数の線が存在しますが、日常ほどではない。
例えばドラマで「平凡で幸福な家庭を営んでいた男が、突然事件に巻き込まれ、まったく違う人生が始まってしまう」という一本の線があるとすると、初めに平凡で幸福な家庭を描写しなくてはならない。不幸のどん底に落ちるわけだから、落差を見せるためにも素敵な幸福感を描写しなくてはならない。しかもそれは事件そのものではないから、出来る限り短く的確に描かねばならない。
凡百のライターだと、幼い子どもが「パパ大好き」と抱き付いたり、夫婦互いに「愛してる」なんて言いあってキスまでして出勤する風景を描くことになる。それからすぐに事件に向かう。
でも、今でも日本人は「愛してる」とはなかなか言わないから、「愛してる」なんて言いあう夫婦を描いたりすると、わざわざ言わないといけないような不穏な夫婦なのかと疑われる可能性がある。愛妻弁当や、帰宅時に買い物をしてくる約束をする夫なんて描写で書くほうが分かりやすいかなどとライターは迷う。
そもそも「平凡で幸福な家庭」なんて一言で言ったって中身は千差万別。
傍から見て幸福に思えても、当人たちは細かな不満の中にいるなんてことはよくある話で、それを描くことにより、なんだかんだ言っても幸せな家族じゃないかと思わせる手法もある。
どんな「幸福」を描くか、そしてそれがどう「不幸」になっていくのか、そこがライターの腕の見せ所で「平凡で幸福な家庭」という一言の世界が「事件」より大問題ということでもある。
凡百のライターならパターン通りの描写でさっさとすますでしょうが、ちゃんとしたライターならそうはいかない。視聴者にとって自然でありつつ、任意の方向に向かわなくてはならない。自然は十人十色の迷宮で、そこでウロウロは出来ない。あくまでも魅惑的にフィクションの世界に向かわねばならない。
山田さんもまたそういう課題を数限りなくかいくぐってきた。
山田ドラマの台詞ってちょっと不自然だよねという言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。
いわゆる山田台詞というやつです。
それは「3人家族」(1968年)とか「二人の世界」(1970年)あたりの頃は出て来ないけど、「ふぞろいの林檎たち」(1983年)あたりからは顕著に出て来ます。
自然な台詞にあれだけ注意している山田さんが何故不自然と言われるような台詞まわしを始めるようになったのか。それは、数々の作品を描く中で出て来た、ぎりぎりの方法論だったのだと思えます。
特に連ドラの序盤などは、山田様式とも呼べる畳みかけが行われます。
ドラマ設定、キャラクター紹介、伏線、何よりもこのドラマは面白いぞと思わせるエピソードがうねるように絡みつき、一言一句無駄なものはない。
ちょっとこんなことは、と思われるシーンがあっても山田ドラマは強引におし進め、次に出て来るシーンでそんな違和感を凌駕する魅力を突きつけます。テンポある展開に視聴者は山田ドラマの魔法の中に入って行くのです。
その緩急自在なテクニックは、視聴者という大衆を的確にとらえているから出来ることです。
大衆をどうとらえるか。
その話を山田さんと私はよくしました。
初めて山田さんと会った時、山田さんはこんなことを私に訪ねました。
「私以外に好きなライターっていますか?」
私はこう答えました。
「倉本聰さんです」
山田さんは「倉本さんは大衆を描こうとしてるよね。いいよね。テレビ大賞の授賞式でちょっと挨拶しただけだけど」と言いました。
大衆。
当時、大衆のことを話す時、吉本隆明の「共同幻想論」がどうしても出てきました。それまで軽んじられていた大衆を思想の中心にとらえた魅惑的な論考を進めていました。
共産主義も大衆を重要視していましたが、それは革命のためにオルグすべきものとしての大衆でした。つまり啓蒙すべき存在と見ていたのです。吉本隆明はそのことに異論を唱えていました。
山田さんが「夏の故郷」(1976年)のシナリオハンティングをした時のエッセイで、村の若者たちがとても怒っていたというエピソードを書いています。
ある小さな劇団が村で公演をするためにやってきたのだけど、その時「村に文化の灯をともしにやってきました」と言って練り歩いたというのです。
その上から目線に、村人、特に若者は激怒したというのです。山田さんが取材した時はそれから随分の月日が経っていたけど、昨日のことにように怒っていたというのです。
演劇はある時期までは大抵「左がかって」いたようです。テレビで好々爺役をやって人気のおじいさん役者が、若い頃はバリバリの左翼で、尖った舞台に出ていたなんて話を山田さんに聞いて私は意外に思ったものです。
革命に向かって大衆を覚醒させる。それが演劇(芸術)の使命だと言われた時代もあったようです。「一人の一歩よりみんなの一歩」大衆を覚醒させるんだ。そんな情熱で動いていた。
それが革命幻想もすっかり地に堕ちた70年代後半に、そんなことを言っている劇団がまだいるのかと山田さんは呆れたと書いています。
吉本隆明に同調するかどうかは別として、山田さんもまた大衆を中心にとらえていた。それが「王さまが誰に殺されたかを書くより、隣の肉屋の親父はどうしてあの奥さんと結婚したかということの方に関心がある」というチャイエフスキーの言葉に出会い、我が意を得たりと山田さんは思います。
山田ファンの始まり(20)「大衆をどうとらえるか」に続く。
「山田ファンの始まり(20)大衆をどうとらえるか」
当時「左がかった」勢力は、庶民、労働者、夜学生など、報われぬ人々を描こうとしていました。それは山田さんが拾い上げる人々と重なっているところがありました。でも啓蒙目的とチャイエフスキー的野心では似ていて非なりでした。
しかしそのことをどれくらいの人が分かっていたことでしょう。
ここからはビックリするほど独断と偏見を書きますが、名前が似ているということで、今でも間違われる山田洋次監督。この人の描く世界も、とても山田ドラマと似ています。
でも私は、この人の入口は、山田太一とは違うと思っていました。「左がかった」勢力だと思っていました。入党していたとか、そんなことは知りませんが、とてもシンパシーを持っているらしく、共産党が呼びかける署名運動などに連座していることがよくありました。
「男はつらいよ」で寅さんがタコ社長の工場に入ってきて「労働者諸君!元気でやってるか?」と声をかけるシーンがよくあります。
「労働者諸君!」という呼びかけは、初期の山田洋次にとって真面目な呼びかけであり、創作の原動力だったと思います。その名残りがあの台詞であって、揶揄気味に言えるほど成熟したのが「男はつらいよ」ではなかったかと思っています。
山田洋次は才能があるから、「左がかった」動機から入っても、やはりちゃんと人間ドラマになってしまう。教条的にならない。そこが凄いところです。登山口は違っても登ってみれば山の頂上に着くのと一緒で、人間ドラマのてっぺんにいる。
同じく山田太一も登山口は違っても人間ドラマのてっぺんに到達する。
でも、山田洋次は自分で監督している映画は高みに達するけど、山田洋次が演出していない、脚本だけのテレビドラマなんかはひどいものです。
古くて教条的だしセンスがない。特に「東芝日曜劇場」の一連作(「乙姫先生」など)。「左がかった」勢力の観念だなあとしみじみ思ってしまう。そこが山田太一と全然違うところです。
と、山田洋次ファンの方がお怒りなることを書いていますが、こんな、山田洋次をくさして何が言いたいかというと、大衆と言った時に階級構造としての側面ばかり見ると言うのは考えものだということです。
当時吉本隆明はこう言っていました。資本家と労働者なんて分け方したって現実は複雑化してきている、とらえきれなくなっている。例えばサラリーマンが働きながらアパート経営をしているなんてことがあるわけで、搾取される労働者でありながら資本家でもあるということが起きている。図式が通じなくなってきていると指摘していたのです。
既成の理論(権威)に惑わされることなく、自然な目で大衆を見つめること、それが必要でした。
山田さんはそういう視線を獲得していました。でも評価は「左がかった」人々から甘っちょろいと言われていました。まったくです。
そんな頃私は「新選組吉村貫一郎」という漫画を描いて出版社に持ちこもうとしていました。
吉村貫一郎というのは南部藩の武士で、生活困窮のため新選組に入った男でした。剣の腕もたち活躍しますが、やがて幕府側は劣勢となり、新選組も総崩れとなります。
吉村貫一郎は追い詰められ、会津藩の藩邸に逃げ込みます。吉村貫一郎は故郷に妻子を残してきており、死ぬわけにはいかないのです。藩邸にかくまってくれと命乞いをします。しかし会津藩はこう言います。
「君は新選組として倒幕派を散々殺してきたじゃないか、それを今頃そんなことを言うのは身勝手じゃないか」
吉村貫一郎はこう言います。
「私は生活のために新選組に入ったのであって、尊王だの佐幕だのどうでもいいのです。生活のためならどちらでも良かったのです」
すると会津藩の武士は激怒します。
「それはいい加減というものではないか!恥を知れ!」
当然の怒りだと言えます。しかし政治というものは大衆にとってそういうものでもあったと思います。
吉村貫一郎は抗弁の甲斐なく、藩邸で切腹させられます。
手持ちのわずかな金を「妻子に届けて欲しい」という伝言を残して。
この幕末に早くも現れていたマイホーム主義者に私は感銘していました。「共同幻想(政治などの共同に対する幻想)」と「対なる幻想(恋人、家族に対する幻想)」と「個人幻想(個人だけの幻想)」の3つの世界に、同時に誠実であることは難しいことなのだという「共同幻想論」の理論を証明したような逸話でした。
吉村貫一郎は家族に対して誠実であろうとして、政治的には不誠実でいい加減という存在になっていたのです。これは描くべきことだと思いました。
幕末の資料なども山田さんに借り、「ここは吉村貫一郎が凄く剣が強いというシーンを入れておいたほうがいいよ」なんて山田さんのアドバイスをうけながら完成させました。
しかしこの作品は陽の目をみませんでした。
編集者がビビったからです。この話は子母澤寛の「新選組始末記」に1ページほど書かれているエピソードを膨らませて書いたのですが、編集者はそこにビビりました。
原作料をとられるというのです。
例えば映画「座頭市」だって原作子母澤寛となっているけど、「盲目の博打うちがいた」とそれだけ書かれているだけなのです。なのに高い原作料を払っているというのです。俺は責任とれねえと編集者は撤退しました。「そんなこと持ち出されたら参っちゃうねえ」と山田さんも残念がりました。
当時吉村貫一郎については子母澤寛以外書いていませんでしたが、後年「壬生義士伝」として浅田次郎氏が小説で書いています。どんな内容なのかは知りませんし、その後の調べでは、実在した人物ではないという話もあります。
さて、山田さんは大衆と政治といった時にどういう風に書いていたのでしょうか。
「パンとあこがれ」(1969年TBS)にこういうシーンがあります。
山田ファンの始まり(21)「政治と大衆」に続く。
「山田ファンの始まり(21)政治と大衆」
「パンとあこがれ」(1969年TBS)は相馬綾と相馬竜蔵の一代記といった内容のテレビ小説です。
時代は太平洋戦争末期で、二人の息子、考次は大学に通っていますが、学校から非合法な政治活動をしているらしいと注意を受けています。政治活動と言っても使い走り程度で、ただ反抗的気分だけをやたらたぎらせているという孝次です。
綾(68)と竜蔵(73)は考次の考え方を理解しようとしますが、考次は親の理解など頭からあてにせず、叱るか許すか判断するまで家を出るなという綾の命令をはねつけて、飛び出して行きます。
それから数日して考次はカフェの女給を連れて、裏からこっそり自分の部屋に帰って来ます。物音で気づいた二人は部屋に行きます。
考次は、二人の来る足音に気付き女給を押し入れに隠します。
竜蔵は部屋に入るなり叱ります。
「俺はお前をぶん殴りたい。だがな、ぶん殴るまえにな、俺の気持ちを話す」
考次は平然と「いいです。ぶん殴ったって」と挑発します。
「考次」と綾はたしなめます。
竜蔵は言います。
「お前がただぐれているだけなら、ぶん殴るだけで俺は治す。しかし、お前には信じてるものがあるようだ。革命というものがな。・・お母さんほどじゃないが、2冊ばかり本を(考次の持っていた書物を)読んだ。大体お前の考えは理解したつもりだ」
孝次は冷笑し「なんでも理解できちゃうんですね。でも違いますよ。理解した気になっているだけです」と言います。
「それがどうしてわかる」
考次は「じゃあ、これが理解できますか?」と突然立ち上がり踊り出します。
「カッポレ、カッポレ甘茶でカッポレ」
愕然とする二人。
「それご覧なさい。なんでも理解できるというのは思い上がりです。」と勝ち誇る。
竜蔵はひるまず「お父さんの話を聞け!お前はな、自分の信じとる思想を正しいと思ってる」と言います。
「当たり前じゃありませんか」
「だからそれはいい。正しくないとは言わん。だがな、お父さんはこう思っている。自分のしとることが、ことによったら間違えているのかも知れないという反省のない思想は、思想ではなくて宗教だ」
「そんな考えで徹底した戦いは出来ません。相手は正しいかも知れないと思いながら革命が出来ると思いますか」
「なら、革命なんてしなきゃいい」
「日本はこのままではどうなると思いますか?」
竜蔵は考えて「わからん」と言います。
「なら説教なんてよせばいいんだ」
「革命というものは大きな犠牲を強いるものだということはよく分かっとるんだ」
「犠牲は覚悟の上です」
「お父さんはな、どんな思想でも、人を死に追いやってまで実現する値打ちはないと思うんだ、人間にとって大切なのは、人間であって思想ではない」
「生きてりゃいいってもんじゃないでしょう」
「むろんだ。しかしな、人を犠牲にしてまで自分の誇りを通そうとするのは間違いだ」
孝次は「議論しても無駄ですね」と見放します。
「何故そういう言い方をする」
「甘っちょろくて聞いちゃいられないからだよ」
綾が言います。
「孝次。あたしたちの考えが甘いなら、何処が甘いのかはっきりおっしゃい。まともに話し合おうともしないで、自分だけが正しいと思っているお前は甘くはないんですか」
「自分が正しいと思わなきゃ、なんにもできはしません」
「でもね、もしかしたら、相手の考えにも正しいことがあるんじゃないかと思わなくてもいいの?」
「正しいはずないじゃありませんか!」
「・・母さんはね、一度でいいから、お前が自分の考えを間違ってるんじゃないかって立ち止まってくれたらいいと思う。そうでないとお前が段々に残酷な人間になっていくような気がするの。それがお母さんには怖いの」
「反省なんかしてたら、たちまち押しつぶされてしまうんです」
「相手が人間らしくないから自分も人間らしくなくなるというなら、ただ犠牲が増えていくだけです。何が人間らしいのか、どうすることが人にとっても自分にとっても一番人間らしいことなのか、いつもその反省をすることが大切だと思うんだけど」
「こんなこと言ってる人間は、結局何もしないで押し流されてしまうんです。綺麗ごとじゃすまないんです。大した失敗もしない、酒も飲まない、浮気もしないお父さんと幸せに暮らしてきたお母さんには、現実が修身の教科書くらいにしか見えないんです」
「お前がそう言うのはよく分かるわ」
「あーあ、なんだってわかっちゃうんだ。でも本当はわかっちゃいないんだ。というのは言ったでしょ。いいですか?お父さんもお母さんもこの部屋にもう一人ひとがいるなんて想像もしないでしょ。」
「この部屋に?」
「息子が女を引き入れているなんて想像もしなかったでしょ」
愕然とする二人の前で押入れを開ける。女、顔を隠す。
「ごめんよ。出ておいでよ。つい、かっとしちゃったんだ、親父もおふくろもあんまり人がいいんでね」
「考次!」と怒る竜蔵。
「なんですか」
「お前と俺とは分かりあえん。出てけ!」
「そうくるだろうと思いましたよ。手に負えない者は追っ払えば思いがけない現実にぶつからずに済みますからね」
「人のことを言うのはよしなさい」と綾が叱ります。
カフェの女給が謝ります。
「奥様、私が悪いんです」
「よけいなこと言わなくていいんだ。どうして君が悪いんだ」と孝次は女給をかばい「さあ行こう」と部屋を出て行きます。
「さよなら母さん」
これは戦時中の共産主義との相克を描いていますが、発表された1969年は70年安保で騒然としていて、学生運動は世界的なムーブメントとなっていました。そういう政治の季節が反映されたシーンといえたでしょう。
山田ファンの始まり(22)「70年代学園紛争」に続く。
2021.8.21